月に叢雲
再び張られた緊張の糸を感じて、沖田は苦笑を浮かべる。
薄紫の瞳が月明かりに煌めいたのを見て、まるで紫水晶のようだと沖田は思った。
そんな彼女が今にも消えてしまいそうで、半分無意識に腕に力を込めていた。
らしくない、と彼自身思う。
そんなこととは知らない悠日は、変化した沖田の様子に少し恐る恐る振り返る。
だがそこにあったのがいつもの笑みなのを見て、少しほっとした風情で息をつき、沖田の言葉に答えを返した。
「別に、月に行きたくなったわけではないですよ? 本当に、ただ見ていたかっただけなんです」
苦笑してそう言う悠日に、沖田はあはは、と楽しげに笑う。
「月にかぁ。行けたらそれはそれですごいよね。途方もない話だけど」
「羽衣があったら行けるかも知れませんよ? 天人はそれをまとって空を翔けるんですから」
そのようなものがあるはずないことは分かっているが、風にひらひら舞う桜の花びらを見ていると、ついそんなことを思ってしまう。
あの月の姫のように、羽衣をまとって、月の都へ。
――もっとも、彼女は『行った』というより、故郷に『帰った』と表すのが正しいのだけれど。
そう考えて、悠日は少し目を伏せてから体制を戻す。
――『故郷』は、彼女にもある。
何気なく南東方向に目を向け、どこか苦しそうに目を細める。
風に流れていた雲が、煌々と照らしていた月をその後ろに隠した。
そのせいでいっそう陰を帯びた悠日を見て沖田も何かを感じたようで、端正な眉を寄せた。
「悠日ちゃん?」
「……それより、沖田さんはこんな時間にどうされたんですか? 今日は確かに朝食の当番ですけど、さすがに早いのでは?」
名前を呼ぶことで何を考えているのか尋ねたつもりの沖田だったが、その意図に気づいているのか気づいていないのか。
おそらく前者だろうと思いながら、彼ははぐらかすような悠日の問いに答えた。
「……なんとなく目が覚めただけだよ。ただ、寝汗かいちゃったから、さっき水浴びてきたとこなんだ」
そのまま寝てても気持ち悪いだけだし、と付け足した一言に小さく笑いながら、悠日は顔を上げた。
「だから少ししっとしりしてたんですね、髪の毛」
空を目一杯仰ぐように首をのけ反らせて、悠日はすぐそこにある彼の媚茶の髪に手を伸ばす。
それはまだ湿気をふくんで、ひやりとした冷たさを指先に伝えてくる。
「さっき洗ったばっかだからね。冷たいでしょ?」
首を傾げながら笑う沖田の顔が、先ほど雲に隠れた月が顔を出したことではっきりと形を悠日に示してくる。
間近にある月明かりに照らされた笑顔に少しどきりとしながら、悠日はそんな自分を落ち着かせるように彼の髪を弄ぶ。
依然湿気の飛ばないそれ。
ちゃんと拭けばもう乾いていてもいいはずなのだが、彼の性格を考えるとおそらく面倒だったに違いない。
そう考えると、先ほどの動揺はどこへ、呆れたような憂い顔を彼に向けた。
どうしたの? とでも言わんばかりの沖田の髪から手を離すと、仰向いたまま彼に告げる。
「ちゃんと拭かないと風邪引きますよ? それでなくても最近、体調悪そうなんですから」
ここ最近、たちの悪い風邪を引いたとか言ってしょっちゅう咳込んでいるのを悠日は知っていた。
池田屋の時の後遺症かとも思ったが、それにしては日が随分経っているし、最近までは咳込むこともなかった。
――もしかしたら、という憶測の域でしかない考えがある。
当たっていないといいのだが、と不安に思いつつ、悠日はそれを本人に問うつもりはなかった。
なにせ。
「大丈夫だよ、こんなのすぐ治るからさ。それに、風が吹いてるから髪も乾きは早いだろうし」
こうしていつも大丈夫と本人が言うのだから、追及も出来ない。
確かに、桜が散り初めて風は暖かい。風に任せれば、自然乾燥でも乾きは早いだろう。
反論も出来ず不満そうに眉を寄せれば、沖田は困ったような笑顔を悠日に向ける。
「そんなに僕のことが心配?」
「ご自分のことがそっちのけだから、黙っていられないだけです」
本人が気にしていないならば別な誰かが指摘すべきだと思うので、つい言ってしまうのだ。
心配しているのは事実だが。
――ここで肯定するのはなんだか悔しくて、あえて別な言葉で答えてみた悠日である。
むろん、そんなことは彼にはお見通しなのだが。
「……桜が散り初めて暖かくなってきたとはいえ、寒くないわけではないんです。それでなくても濡れたままの髪は体温を奪いますから、体調悪化のもとなんですよ?」
再び手を伸ばせば、先ほどより少し水気の飛んだ髪はさらりと手先を滑った。
毛先だけは乾いてきたらしい。
「ほら、乾いてきたでしょ? だから言ったじゃない、大丈夫だって」
それに、と沖田は再びにやりと笑う。
「寒かったとしても、こうしてればあったかいし」
手元に引くように、悠日の体が沖田の体に更に密着する。
背中の温もりが温度を増したように感じ、悠日は思わず顔を赤らめた。