第八花 紫陽花
日は沈み切ったものの、まだ明るい。
そろそろ暗くなることを考慮して焚かれたかがり火が門前を照らす中、一つの小柄な影がそこに近づいてきた。
赤いその光に反射するのは、薄紫の瞳。手にしているのは、刃を布で巻いた薙刀。
警戒の瞳でこちらを見る門番の隊士に苦笑しながら、それは口を開いた。
「副長の土方さんに、お取次ぎ願えますか? ……霞原が、帰ってまいりました、と」
微笑む姿は柔らかく、敵意の見えない表情。
だが、来客の有無については聞いていない彼らは、果たして通していいのかと互いに目を合わせる。
「……お取次ぎ、お願いいたします」
再度の言葉に、彼らは互いに頷きあった。
「このような時刻に誰かが来るなど、我らは聞いておらぬ」
「……おかしいですね、先触れは寄越したはずですが……」
あの鷹が迷うとは思えない。ここには牡丹がいるのだ、彼女に渡していないはずもない。
となると……伝達が行っていない、か?
果たしてそれは、牡丹が渡していないのか、土方がこちらに伝えていないのか。
どちらにせよ、話を通してもらわなければ話にならない。
「では、ここで待っていますから、確認だけでもお願いします」
門番は二人。少なくとも片方が行けば事は足りる。それに相手はどう見ても強そうではない。
持っているのは刃を隠した薙刀。薙刀の殺傷能力は低い。
門前の守りが一人でも大丈夫だろう。
そう判断し、片方が屯所の中に入っていく。
それを見送り小さく息をつくと、悠日は空を見上げた。
事後処理に意外にも時間を使い、これでも全力疾走で走ってきたが、日は沈んでしまっている。
果たして夕暮れ時がいつまでなのかというのが疑問だが、悠日にとっては、今現在はまだ夕暮れ時の部類だった。……ぎりぎり、だが。
捉え方は人それぞれ。果たして新選組方はどう対応してくれるのか。
そんな懸念を胸に秘めつつ、隊士がここに戻ってくるのを待っていると、屯所の奥から門番をしていた隊士と、今一人誰かが歩いてくるのが見えた。
「あ……」
「お帰り」
やっと帰ってきたね、と笑う瞳は、翡翠の色。
その表情に含まれているのは、どこかほっとしたもので。
「……沖田、さん」
それを見て、心配をかけてしまったことを悟った。
「……遅くなりまして、すみません」
頭を下げた悠日に首を振ると、沖田はそのまま踵を返した。
それに小さく首を傾げると、沖田は肩ごしに振り返った。
「土方さんが待ってるからさ。早くおいでよ」
それに悠日は少し緊張した面持ちで頷き、彼の背を追う。
笑った瞳は、大丈夫だよと言っているかのようで、それに少しだけ安心して悠日も微笑みを返した。
そのまま歩いて土方の部屋に向かえば、そこには現在屯所に残っている幹部たちが勢ぞろいしていた。もちろん千鶴も、人質としておかれていた牡丹の姿もある。
特に怪我などをした様子もないことにほっとした悠日へ、牡丹は小さく頭を下げた。
「ずいぶん遅かったじゃねぇか」
「向こうの主人に、少々捕まりまして」
遅れて申し訳ありませんでした、と深々と頭を下げると、土方からはため息が聞こえてきた。
「で、お前、なんでその親戚のとこに行きたいなんて言ったんだ」
「申し上げませんでしたでしょうか? ……護身のすべを身に着けるために、と」
「本当にそれだけか?」
警戒を見せられることは分かってはいたが、本当に向けられると心が痛い。
原田や斎藤、山南からも同じような目が向けられており、それと異なりかなり心配そうな表情をしているのは千鶴と牡丹だ。
沖田は努めて無表情で、逆に怖かったりするものの、その表情の意味が分からないわけではない悠日にとっては逆に申し訳なかったりする。
「……八瀬の方は、佐幕方でも討幕方でもございませんが」
「どこにそんな証拠がある」
彼らが疑いを持つのは仕方がない。理不尽なと思わなくもないが、彼らは幕府を守るための組織と言っても過言ではない。敵方かもしれない相手を疑うのは当たり前だ。
「……では、一つ申し上げても構いませんか?」
「なんだ」
「今現在、この屯所にいる隊士たち。……皆が皆、本当に佐幕派だという証拠は、ございますか?」
疑ってばかりでは何も進まないと、悠日は暗に告げた。
彼女がここにいる理由は、二つ。
一つは、あのかなり鬱陶しい風間に目を付けられてしまった千鶴を実質的な意味で保護するため。
そしてもう一つは……彼の傍に、いたいから。これから先それが許されないかもしれないとしても、だ。
まずは、疑いを消してほしい。……消すとまでは言わずとも、せめて緩めてほしい。それが悠日の気持ちだった。
案の定、悠日の言葉にかなり詰まった土方に、悠日は苦笑を返す。
「正直申し上げますと、私も佐幕方にも討幕方にも属してはいません。ですが、何の理由もなくここを裏切るつもりも毛頭ありません。……恩を仇で返すほど、私も人が出来ていないわけではありませんから」
初めてここにいる人々と会ったとき、助けられたのは事実だ。そしてこれまで、ずっと守ってもらったのも事実。
それを仇で返すのは、信条に反する。
だが、それでも容易に警戒を解いてもらえるほど、彼らも甘くはない。
それでも警戒の消えない目を見て、悠日はため息をついた。
「……仕方、ないですね」
そう口にすると、悠日は牡丹を振り返った。
「牡丹、短刀、今持っている?」
「残念ながら、反撃襲撃をあらかじめ防ぐためとのことで没収されております。……姫、一体何を……」
心配そうな表情で悠日を見る牡丹に、悠日はちょっとね、と苦笑した。
多分これを言えば反対されるのは目に見えている。牡丹と千鶴には特に。もしかすると沖田にも反対されるかもしれない。
が、信頼を形的な意味で受け入れてもらうに最適な方法など、これ以外に思いつかない。
刀という、流血を生み出す凶器の所望に、土方がかなり警戒した様子で眉を寄せた。
「……刀を持って、何をする気だ?」
「言えば確実反対されることが目に見えていますので今は言えませんが……信頼していただくための対価を、と思いまして」
それのために何か切れるものが欲しいのだと言う悠日の言葉に、全員が眉を寄せた。
その対価が分からない以上、容易に許すわけにもいかない。
だが、それを真っ先に了承したのは土方だった。
「何企んでるか知らねぇが、やれるならやってみろ」
そう言って差し出されたのは脇差。長刀よりは短いそれに苦笑すると、悠日はそれを鞘から抜き放った。
「……姫」
「大丈夫」
今にも止めようと立ち上がろうとする牡丹を傍にいた原田が制する。
それに心の中で感謝すると、刃を自身の背へ回し、一気に引く。
同時に、ざん、という、何かが斬れた音が部屋の中に響き渡った。