第七花 誰故草
「それ以上姫に近づくな」
淡々とした言葉とともに、沖田の喉元に刃が向けられる。
気配を感じさせないその動作に、沖田が目を見張った。
対して、その登場に驚きを見せる様子のない悠日は、その手をやんわりと沖田の喉元から離させた。
「牡丹、やめて」
名を呼ばれ、彼女は朱色の瞳に困惑の色を映しながら悠日を見つめる。
「ですが姫」
「……いいから、やめて」
苦しそうな表情をする悠日に、牡丹もしぶしぶと言わんばかりの表情で刃を引いた。
「とはいえ、これだけは引けません。……姫から手をはなせ、人間」
「君の言うこと聞く義理はないんだけど……」
肩越しに視線だけで振り返った沖田は、かなり不満そうな顔をする。
しかし、牡丹も引く気はなく、剣を含んだ視線を沖田に依然向けている。
「姫がかなり困っていらっしゃる」
牡丹の言葉に、沖田は悠日を振り返った。
事実困惑の瞳を沖田にも向けていた悠日は、視線を泳がせる。
しばらくその様子を眺めていた沖田だが、大きなため息をついて悠日の肩から手を放した。
それにほっと息をつくのもつかの間、少し責めるような瞳が悠日に向けられる。
「……で、姫。今さらですが、約束を反故にされましたね?」
何のことかと一瞬首を傾げていた悠日だが、八年前のことだとすぐに思い当たった。
反故にしたと思っていた瞬間から後ろめたかった悠日にとって、それは少し心に痛い質問だった。
「そのことは……ごめんなさい」
八年越しでようやく口にできた謝罪の言葉に、悠日は目を伏せた。
もちろん、牡丹もそこまできつく責めるつもりはなかったので、その話はそこで終わらせるつもりだった。
――しかし。
「ああ、それは僕が悪いんだから、この子を責めないであげてよ」
牡丹が来る前までの変な緊迫感も、牡丹が来てからの居心地の悪さも、その一言でどこかへ吹っ飛んでしまった。
緊張感のかけらもないその言葉に、牡丹は思わず牙をむく。
「そもそもお前が姫をたぶらかそうとしたのが始まりなのではないのか!?」
「うーん……どうだったかな?」
ねぇ、と面白そうに笑って悠日を見る沖田に、悠日は再び視線をさまよわせた。
たぶらかす、というのは少し語弊があるが、ある意味間違っていない気もするのだ。
返答に困っていると、牡丹の矛先は悠日に向いた。
「姫も姫です。なぜこのような適当な人間と花結びなど……」
「……ごめんなさい?」
「なぜ疑問の形で謝られるのでしょうか」
本当に悪いと思っていない証拠です、と言われれば、悠日には反論の余地はない。かといって、このままいっても堂々巡りにしかならない気がしてならない。
悠日は、話を変えようと一度小さく息を吸ってから静かに尋ねた。
「……それで、どうしたの? 沖田さんを止めに来ただけではないのでしょう?」
「……また唐突に話を変えられましたね。まあ、よろしいですが」
「悠日ちゃん、名前で呼んでくれないんだ?」
「黙れ、人間。……姫、その通りです」
沖田の言葉を一蹴し、悠日の前、沖田の横に膝をついた牡丹は、真面目な表情で話し始めた。
「かの姫が、記憶が戻ったのであれば一度里へ戻るように、と」
その言葉を聞いた瞬間、悠日の瞳が少しの恐怖に彩られる。
震えたその身に、牡丹は申し訳なさそうな顔をした。
「……その様子だと、それは、つい先ほど言われたものではないわね」
「何度か、あちらと交流はしておりますので……」
急に重苦しくなった空気に、沖田が眉をひそめる。
「里、っていうのは、宇治のこと?」
「貴様、なぜ……」
再び刃を手にしそうな牡丹に、悠日はやんわりと制止をした。
「私が教えてしまったの。彼を責めないで、牡丹。……その通りですよ、沖田さん。でも牡丹、私は……」
「姫に帰る気がないのは分かっています。すぐに、とは言われておりません。すべてが落ち着いてからでもよろしいかと」
その牡丹の言葉に、悠日はほっと息をついた。
帰る覚悟ができていないというのは、以前彼女に伝えた。それは今も同様だ。
そして、記憶が完全に戻った今、帰りたくなかった理由も思い出した。
そんな悠日に、牡丹はそれに、と続ける。
「今回の一件で監視の目も厳しくなった様子。お出かけになるのも難しいでしょうから、今はゆっくり体を休めてください」
そういって頭を下げた牡丹は、顔を上げると沖田を睨みつけた。
「姫に手を出してみろ、その首、即刻飛ぶと思え」
脅しまがいの言葉を向け、では失礼します、と牡丹は闇にとけるように姿を消した。