第六花 松
ふっと目の前に広がったのは、闇だった。
ああ瞼を閉じているからだ、と思った瞬間、懐かしい夢を見ていたのだと思い出して、頬を冷たいものが伝う。
それは、懐かしくて――悲しさの、予兆だったものだから。
「……悠ちゃん?」
懐かしい言葉が――名前が、つむがれる。
頬に骨ばった指が触れた。
ゆっくりと瞼を開けると、最初に目に入ったのは緑色の光。
「そ…うじ、さん……?」
夢の名残か、ここ新選組に来てからは呼んだことのない呼称が口をつく。
頭がぼうっとして、未だ現実と夢とが混濁しているらしい。
驚いたように翡翠の双眸が見開かれるが、悠日はそれを特に気にした風もない。そんな彼女に、沖田は目を細めながら口を開いた。
「悠日ちゃん、君、倒れたんだよ。覚えてる?」
感情の見えない沖田の瞳。いつもなら読めないその感情に戸惑う悠日だが、未だ意識が浮上しきっていないため、ただの言葉としてしか耳に入らない。
返答のない彼女に、沖田は小さくため息をついた。
「……千鶴ちゃんが心配してたから、呼んでくるね。ちょっと独りになるけど我慢しててね、悠日ちゃん」
『独り』。その言葉を聞いた瞬間、悠日の中に小さな恐怖がわきあがる。
「ひと……り…?」
かすれたその呟きに、立ち上がりかけた沖田が悠日を振り返る。
震えながら伸ばされた手が、沖田の袖を弱々しくつかんだ。
「ひとり、は……いや……」
「うん。でも、ちょっとの間だから我慢してて」
小さな子どもに諭すように、沖田は悠日の指を袖からはがす。
しかし、それに小さな抗いを見せながら、悠日は首を振った。
いやいやをする子どものそれに、沖田は苦笑して再び腰を落ち着ける。
「仕方ないなぁ。……分かったよ、ここにいてあげる」
珍しく優しい沖田のその言葉に、悠日はほっとしたように笑った。
悠日は沖田の袖を掴んだそのままに、いつしか再び眠りに落ちる。
先ほどよりも寝息が規則的なのを見て、沖田はほっと息をついた。
「……悠ちゃん」
初めて会った八年前に呼んでいた呼称を口にする。
自分も八年前と同じ呼称で呼ばれ、もしかして記憶が戻ったのかと思った。
だが、彼女の意識ははっきりせず、結局真実は謎のまま。
ねぇ、君は覚えてるの?
あの、花結びの約束を。
『……じゃあ、桜』
『桜ですか?』
『え、駄目なの?』
『あまり使わないように、って言われて……。使うのならばもう少し年頃になってから、とか。どうしてかは知りませんけど』
『いいじゃない。僕は年頃だから』
『自分で言っても意味ないと思いますよ、総司さん』
『それに、君だってあと何年かしたら年頃でしょ? 次に会うときが年頃なら問題ないよ、きっと』
『それは屁理屈です』
『まあいいじゃない。それに僕、君の故郷の桜、見てみたいしさ。その約束も含めてっていうのは駄目?』
『……だから桜、ですか』
『うん。いいでしょ?』
『……分かりました、いいですよ。ただし紐は薄紫のものしかないですが』
『それじゃあ桜じゃないじゃない』
『文句を言うならやりません。我慢してください。さ、お願いします』
『仕方ないなぁ。まあいいや、約束してくれるなら』
『……ええと、それで、約束の内容はどうしましょうか』
『僕が京に行くなら君の故郷で、君がまた江戸に来るなら、この森で。それでいいんじゃない? ついでに桜も見る約束』
『では、そのように』
「桜結び、まだ終わってないんだけどなぁ」
桜の約束も、故郷の約束も。どちらもまだ、果たされていない。
「僕はもう少し、待つことになるのかな」
――桜の季節は、まだ遠い。
<第六花 終>
2012.12.12.