第六花 松

 翌日、悠日は随分早くに目が覚めた。
 起き上がって目元を押さえていれば、隣から心配そうな声が向けられる。


「……姫様?」

「あ、ごめんなさい、牡丹。起こしてしまった?」


 申し訳なさそうに苦笑する悠日に首を振ると、牡丹は起き上がって姿勢を正した。


「何かございましたか?」

「あったわけではないけれど……なんだか、不安なの。特に理由もないのに……」


 こういうときの胸騒ぎほど、外れない。それを、悠日も牡丹も知っていた。


「今日も、行くのでしょう?」

「いま少し、調べねばならないことがございますので。……姫様、どうぞお気をつけください。こちらに来たときよりも、危険が多くなっている可能性が高いので」


 真剣な表情でそう言う牡丹に、悠日は苦笑して頷く。


「そういう牡丹こそ、気をつけてね」

「はい。……それより姫様。まだ朝は遠うございます。まだしばし、おやすみを」


 安心させるように頷いた牡丹は、悠日に寝るよう勧める。それに従わない理由もなく、悠日は素直に頷いたのだった。
















 とはいえ、昨日の約束を反故にするほど、悠日も白状ではなかった。


「牡丹、ごめんなさい。今日だけ言いつけ、破らせて」


 出かけていった牡丹を見送った悠日は、大層心苦しそうな表情をしつつ呟いた。

 危険だと、言っていた。であれば、ここを出るのは得策ではない。
 外は危険が多すぎるのだ。それは悠日も分かっている。


 その状況であの森に向かうのは、下手をすれば火に入る虫になりかねない。だが、あの約束は、破れない。

 ――破れない約束をした以上、行かなくてはならないのだ。


「……璃鞘[りざや]、守ってね」


 胸元を握り締め、悠日は一度目を瞑る。

 牡丹の頼みから、この宿を正面から出て行くことは不可能。
 正面からが無理なのであれば、裏から出るしかない。

 目を開けたとき、目の前にあるのは小さな窓。――先日、総司が入ってきた窓だ。
 大人では無理なその大きさだが、子どもならば出られないことはない。

 ここは二階だ。女将も、そんなところから出るとは思いもしないだろう。

 そして牡丹は、おそらく自分が約束を守ると信じている。


 それを裏切るようでかなりつらいが、『あれ』をしてしまった以上、悠日も引き下がれない。
 引き下がるつもりがなかったから、『あれ』をしたのだが。


「見つかったら、今度こそ出してもらえないかしら」


 そんなことをふと呟いて苦笑した後、悠日は再び目を閉じた。

 きっと、待っているから。
 行かなければ。――何より自分自身が行きたいと思っているのだから、仮にそうなったとしても後悔はない。



 ふわりと、風のない部屋の中で黒髪が翻り、次第に色素が薄くなっていく。


 その『風』が落ち着いたとき、そこにあるのはそれまでの悠日とはほぼ正反対の『色』。


 山桜を思わせる淡い桜色の糸と、二対の菖蒲色の水晶。


 人の世から外れたそれを気に留めることなく、悠日は意識を研ぎ澄ませた。

 そうして窓を開け、総司がやってきた木へと向かう。


「……参ります」


 そう小さく呟き、窓の[さん]を蹴った悠日の姿は、そのまま忽然と消えた。



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