第六花 松

「……母様、毎日すごく忙しくて」


 宇治一帯に住む少人数の一族を取り纏める霞原家。
 長である悠日の母は、その一族のために必要な、様々な仕事を毎日こなしていた。


「二、三日会えないのもしばしばで、会えても一緒に話したりする時間をほとんど取れないくらい」

「……それで?」

「そんなだから、母様は私のことなんとも思ってないって思っていたんです。他の家の子が父様や母様と一緒にいるのを見ていたから、余計に」


 苦笑して、悠日は空を仰いだ。


「彼岸にそれを言ったら、さっき私が言ったのと同じことを言われて。……その時は、私もそんなことないって思っていました」


 物心ついた頃からそうだったこともあって、悠日はそれにその場では頷いても納得はしていなかったのだ。


「でも……二年ほど前に、私、人にさらわれたんです。その時、すごく忙しいはずなのに、……彼岸達に任せておけば大丈夫なのに、母様自身が必死で探してくれて。私が助かった時にはすごくほっとした顔して抱きしめてくれて。『どうして? お仕事は?』って訊いたら、『仕事は二の次。一番大切なのはあなたよ』って。……その日にやらなきゃいけない仕事、すべて放り出しちゃったんです、母様。次の日すごく忙しそうだったからよく覚えてます」


 だから、と悠日は総司を振り返った。


「彼岸が言った通りなのかなって、納得しちゃったんです」

「……そっか」

「総司さんの母様も、総司さんがちゃんと食べていけるように、道場の内弟子として入れてもらったんじゃないですか?」


 その悠日の言葉に目を見張った。今初めてそのことに気づいたと言わんばかりの表情だ。


「……そんなこと、言ってなかったんだけど」

「私自身の勝手な考えですから、本当にそうだ、なんて言い切れないですよ?」


 その人が何を考えているかなど、結局はその人本人しか分からない。悠日はそうかもしれないということを述べただけなのだ。


「……確かに、家にいた時よりは、ご飯は増えたけどさ、でも……」

「……あの、総司さん?」


 何やら深刻な顔で悩みはじめた総司に、悠日は心配そうに首を傾けた。
 総司はしばらく考えていたが、それが終わると小さくため息をついた。


「……分からない」

「はい?」

「そうかどうかなんて、僕にも分からないって言ってるの」


 だから自分もそうかは分からないと言ったはずなのだが。
 そんなことを言われても、どう返していいのかこちらも分からない。


「……でも、そうかもしれないってこと、か」

「あの……?」

「ありがとう、悠ちゃん」


 にこにこしながら、総司は悠日を見た。――いつもの嫌みを含んだものやからかい混じりのものとは違う、とても嬉しそうな笑顔だった。

 その笑顔に、悠日は少し頬を赤く染めて顔をそらした。
 心臓がやや速くなっている。一体どうしたというのだろう。


「……お礼を言われるようなことはしてません」

「そう? ……それより悠ちゃん、なんで顔そらすのさ」

「気のせいです」

「気のせいだったらこっち向いてよ」


 無理です、と心の中で呟きながら、悠日は俯いた。
 なぜか、彼を直視できない。


「悠ちゃん?」


 くい、と顎を上げられれば、目の前には不機嫌そうな翡翠の双眸。
 途端真っ赤になった悠日に、なんとなく状況が読めた総司はいたずらめいた笑顔になった。


「どうしたの? 顔真っ赤だよ?」

「気のせいです!」

「ふーん、そう」


 自分自身でもその反応の理由が分からない悠日は、強気な表情で総司を睨みつけた。


「そんな顔しないでよ。本当に君っておもしろいよね、飽きないよ」

「それはよかったですね」


 皮肉混じりに返せば、総司はさらに楽しそうに笑う。


「悠ちゃん、君は……」

 そこまで口にしかけた総司は、人の気配を感じて肩越しに振り返った。
 同じくそれを感じ取った悠日は、少し慌てた様子でそちらに視線を向ける。


「そ、総司さん、隠れてくだ……」
「姫様!」


 悠日の言葉を遮るように、別の少女の声が響いた。


「……どう考えてもこの状況じゃ無理だよねぇ」

「牡丹……」


 顎に手をかけられた状態で牡丹に目を向けた悠日は、どうしたものかと真っ青になった。

 ――案の定、牡丹は目を見張ってから声を張り上げた。


「……何ですかそこのどこの馬の骨とも知れない男は! そこのもの! 姫様から手を離せ!」


 どう見ても悠日と年が変わらないのに語彙力にたけていると思いながら、総司は眉を寄せた。


「会っていきなりそれはないんじゃない? 僕の素性ははっきりしてるんだけど」

「姫様、このような男に付き合っていてはなりません」

「でも牡丹、この人、刺客じゃないそうよ? 本人もそう言っていたわ。実際、この辺りに住んでいる道場の人みたいだもの」

「どこの世界に刺客だと頷く刺客がいますか!」


 確かにその通りである。

 総司の言葉を無視して繰り広げられる主従のやり取りに、総司は不機嫌そうな顔をする。


「君達聞いてる? ……特にもう一人の子さ」

「……姫、詳しい話は宿に帰ってからいたしましょうか。さぁ、お帰りを」

「牡丹……」


 再び無視された総司は、苛々した風情で二人を見た。

 そんな総司の苛々をひしひしと感じている悠日は、一度そちらをちらりと振り返ってから牡丹を見た。

 『姫様』から『姫』に変わった呼称。
 これはかなり真面目な話をしているときか、かなり怒っているとき。

 ――もちろん今は、後者だ。


「姫」

「……分かりました」


 渋々頷くと、悠日は牡丹に手を引かれる。
 総司を振り返りながら去る姿は、その場を離れがたく思っている証拠で。
 総司は、不機嫌そうに眉を寄せながら二人を見送るしかなかった。



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