第六花 松

 それは、八年前のこと――。


「……さまー……」


 遠くの方から呼ぶ声がする。
 先を布で巻いた長い棒を片手に、その声にクスクスと笑いながら少女は森の中を歩いていた。


 ここは江戸。都は東、幕府のある地だ。
 その幕府のある江戸城からかなり離れたそこは、田や畑の割合の多い地帯だった。
 鳥のさえずりや川のせせらぎなど、ここは故郷に似た場所が多い。

 むやみに外に出てはならないと言われているにもかかわらず、無断で出てきてしまうのはそのせいだ。

 ふいにがさがさと茂みが鳴り、少女――悠日は特に驚いた様子もなく振り返った。誰が来たのか、見ずとも気配で分かる。


「悠姫様っ!」

「牡丹。どうかした?」

「どうかした? ではありません! 早く宿へお戻り下さい! 母に見つかったら何を言われるか……」


 乳姉妹の牡丹が目を吊り上げてそこにいた。顔が赤くいささか息がきれているのを見るに、かなり探し回ったらしい。


「別にいいでしょう? なぜかは分からないけれど急に宿に泊まると彼岸が言い出すのだもの。かといって宿を出てやることも沢山あるようだし。私も暇を潰しに森に来てはいけない?」


 首を傾げる悠日に、牡丹はため息をついた。


「姫様……。母は御身を思って言っているのです」

「分かっているわ。……こんなことなら、もう少し千鶴ちゃんの家にいればよかったかしらね。そうすれば邸の中で一緒に遊べたのに」


 悠日は、そう口にしながら苦笑して牡丹を振り返る。

 邸というほど大きな家ではなかったが、悠日の中の概念上はそうなので牡丹はそこには突っ込まなかった。

 とはいえ、この反論、ここまで来ると何を言っても聞く相手ではないことは分かっているため、牡丹は悠日の問いにひとまず答える。


「それもどうかと……。千鶴様にもご迷惑ですよ」

「そうよね……」

「それより姫様。ほかの質問は戻ってからお聞き致します。外はいつ刺客[しかく]に襲われるか分からないと母も言っておりますから、さ、早く御戻り下さい」


 ぐいぐいと背を押されれば、悠日もため息をつきつつ従うしかない。

 過保護な側近に分かったと片手を上げ、悠日はここからさして遠くはない宿に向かった。














 宿へ帰れば、今一人の側近たる牡丹の母――彼岸はまだ帰っていなかった。
 それにほっとしたのは牡丹で、当の悠日はほわほわと笑っているだけだ。


「ふふ、よかったわ、彼岸がまだお仕事で」

「私は冷や冷やものです……。目を離した隙に出奔されてしまうなんて……何かあったらどうなさるのです?」


 その際、悠日自身だけでなく、牡丹自身にも彼岸の怒りの矛先は向く。

 主家の姫なのだから、その姫の護衛を任じられている牡丹にはそれは当然のこと。
 しかし、叱られずに済むならその方がもちろんいい。

 聡い悠日もそれを分かっているはずなのだが……。


「大丈夫、ちゃんと撃退して逃げてくるから」


 先程手にしていたものを指し示し、悠日はにこりと笑った。


「とはいえ、姫様はまだそれを始められたばかりではございませんか。いくら筋がよいとはいえ、まだ複数人を相手に出来るほどの力量ではございません」

「それでも、何もないよりはましでしょう?」

「それはそうですが……」


 渋い顔をする牡丹に、悠日は近づいた。


「では、ちゃんと一言言うか、置き手紙をするかして出て行くことにするわ。それなら、牡丹も安心でしょう?」

「なぜ私がついて行くという選択肢がないのか、お尋ねしても?」

「牡丹も忙しそうだから」

「理由になりません」

「なるでしょう。一人で、この部屋でじっとしていたくないの。……あの場所は、宇治に似ているから、安心できるのよ。心配なら合間に来ても構わないわ。それでもいけない?」


 もうふた月近く故郷に帰っていない。母とこれほど離れたのも初めてだ。
 だからこそ、その不安を故郷に似た場所で少しでも解消したいというのはダメなのだろうか。


「危険と判断したら、【鳴らす】から。それでもダメ?」

「……仕方がありませんね。分かりました。こうなったらもろともです。母に叱られること覚悟になりますが、姫様のためというなら逆らえませんし」


 かなりの刺を感じるが、その牡丹の表情には真実悠日を思っての笑みが浮かんでいた。


「ただし、危険があればすぐに【鳴らして】逃げてくださいね」

「ええ」


 念押しされてしまったことに苦笑しながら、悠日はしっかり頷いたのだった。





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