第四花 八目蘭
近づく気配が、ふいに止まった。
「姫を離していただこうか、風間家頭領殿」
悠日が恐る恐る目を開くと、そこには身軽な身なりの少女が立っていた。
見目は十五、六。闇に溶ける衣は悠日の被衣と同じ藍色。爛々と煌めく瞳は炎に似た朱色。そして、月光に浮かぶ髪は、麦の穂のような濃い茶色。
そんな彼女の持つ短刀の切っ先は、風間の首筋にあてがわれている。
「何者だ、貴様……」
「霞原家次代頭領、悠姫付きの忍。……今一度言う、姫を離せ」
刃物に似た鋭利な視線で、少女は風間を睨んだ。
不快感を覚えたようで、風間は悠日を引き寄せたままその少女を睨み付ける。
「貴様ごときに邪魔だてされる謂れはない」
「姫が望むのであれば、私にはあなたの意志など関係ない。私の主は姫ただお一人のみ。――早く離していただきたい」
あえて丁重に願い出た少女に、面白くない、と言いたげに眉を寄せたが、風間は意外にも悠日を解放した。
腕から逃れられたあと、悠日は真っ先に少女の元へと駆け寄る。
そんな悠日を背後に庇うのを見て、風間はふん、と鼻を鳴らし、東方へと目を向けた。
「まあいい。……いまひとつ、確かめることもある。貴様だけに限定することもあるまい」
聞きようによれば悠日を卑下するようにもとれる風間の言葉に、悠日は不機嫌そうに眉を寄せた。少女は明らかに気分を害し、今にも風間に飛び掛かりそうな勢いである。
先程、高潔な血が云々と言っていたのはどこの誰だ。
そう思いつつ、悠日はそれを胸の中にしまい込む。
彼に言っておかなければならないこともある。あまり不快にさせるのは、得策ではない。
かと言って、手を緩めることもまた得策ではない。
――ならば。
「彼女に手出ししてご覧なさい、ただで済ませるつもりはありません」
ふわり、と風もないのに悠日の髪が翻った。
ちりちりと、悠日の胸元で石と石が擦れ合う音が響く。
その音に不快感を示すと、風間は眉を寄せて踵を返した。
「貴様が何を言おうと、俺の意志は変わらん。――脅すなら勝手に脅すがいい」
軽く後方に目を向け悠日達にそれだけを残すと、風間は闇の中に溶けていった。気配が完全に消えた後、悠日は、ほぅ、と息をついた。
ホッとするも、話はそれだけだったのかと思うと、妙にカンに障る。……自分達は、物ではない。
そんなことを考えていた悠日に、声をかける者があった。
「姫様、ご無事ですか?」
その声にはっとしたように現実に思考を戻す。視線を下げ、悠日はそこにいる少女に微笑んだ。
「ああ
牡丹。……大丈夫よ、心配いらないから。――ありがとう、助けてくれて」
先ほど地に落ちた藍色の衣を少女――牡丹に差し出され、それを受け取ると悠日は再びそれを頭から被った。
衣を渡した牡丹は、無駄のない所作で地に膝をつくと、謝罪を示すように
頭を垂れ、悔しげに唇を噛んだ。
先程風間と話していた時とは打って変わって、その口調は柔らかい。
「遅くなりまして申し訳ございませんでした。まさかこのようなことになっているとは思いもよらず……」
「そんなにかしこまらなくてもいいわ。……来てくれただけで私は構わないから。十分助かったもの、あなたが謝る必要はないでしょう?」
悠日は、しゃがみ込んで彼女と目を合わせた。
悠日達主家の者と自身の一族以外には基本先ほどの固い口調なのを、悠日も随分昔から知っている。
そんな悠日も、風間との会話の緊張はどこへ言ったのかと言うほど普段通りの声音に戻っている。
ふわりと笑うその様子に、牡丹もホッとしたように笑った。
「それで、姫様。記憶の方は……」
早く訊きたかったのだろう質問を牡丹から向けられ、悠日は複雑な心地で目を伏せた。
小さくため息をついたあと、呟くようにそれに答える。
「思い出すつもりは、なかったのよ……」
ないままならば、何も知らず、そのまま生活できたのだ。
――何も背負うことなく。
「……風間が都にいると知っていれば、別な呪で封じたものを……」
都にいる知り合いは限られている。ましてや【あの呼称】で呼ぶ者はさらに限られる。
だから、記憶を戻すための呪をそれにしたというのに、風間が都にいるとは想定外だったのだ。
いまさら、言い訳にしかならないのだが。
「まだ戻っていないものもあるようだけど、問題はないでしょう。……戻ります」
あまり触れて欲しくない話題をさっさと切り上げると、悠日は立ち上がった。
ひざまずく牡丹の横を通りすぎ、悠日は衣を翻し、屯所に戻るべく道を南下しはじめた。
その背に、牡丹が気遣わしげに尋ねる。
「かの地には、いつ帰られますか……?」
その牡丹の質問に、悠日は足を止めた。
「かの地……宇治は、一族が滅びたとはいえ、あなた様の故郷……」
「今のところ、帰るつもりはありません」
牡丹の言葉を遮った悠日は、どこか氷を思わせる雰囲気をまとう。その声は冷淡とも言える冷たさを帯び、牡丹は一瞬だけたじろいだ。
しかし、それもほんの少しの間。悠日は雰囲気を和らげて牡丹を振り返った。
「まだ、その勇気がないから」
打って変わって苦しげな笑顔をした悠日は、再び屯所に向けて歩を進める。
哀愁とは何か違う感情を漂わせる背中。それにもの言いたげな視線を送るも、牡丹はそれ以上何も口にせずに目を閉じる。
たん、と地を蹴ったその瞬間、二人の姿は闇の中に消えていった。