第四花 八目蘭
あのあと、どたばたと準備が始まり、皆が出て行った。
残っているのはごく少数の隊士達だ。
その残った少数の一人である悠日は、ふぅ、と息をついた。
――池田屋で【彼】に会って以来、記憶の大半が戻っていた。
まだいくつか忘れている記憶がある気がしてならないが、それが分からない。
それに、今はそれどころではない。
「鬼、ね……」
悠日は、すっと目を細めた。
鬼なのは【彼】だけではない。
目を閉じれば、今でも思い出す忌まわしい光景。
美しかった野原は火に焼かれ、せせらぎの聞こえた川は赤く染まっていた夜。
『……姫、あなたは逃げなさい。かの姫の所へ行くのが最良。分かりましたね?
彼岸、この子のこと、頼みました』
『いや! 母様! 母様!』
何度名を呼んでも振り返ってくれなかった背中。
瑠璃と玻璃でできた首飾りが胸の上で揺れた。
伸ばした手は届かなかった。今より一回り以上小さかった自分を抱える腕に抗い、そして――。
そこまで考えて、悠日は苦しげにまぶたを上げた。
様々なものに翻弄されて、自分は今ここにいる。
さわ、と風が吹いた。悠日はそれに眉を寄せ、はぁ、とため息をついて、何かに観念したかのような顔で障子越しに外を見た。
――さて。
話し相手の千鶴もいない。
「この暇な時間、どうしよう」
こういうときは何かと仕事をさせてもらったりして暇を潰していたのだが、今日はあらかた終えてしまった。
あまり勝手に動いてもいろいろ問題なので、どこまでやっていいのか分からない以上大人しくしているしかない。
「そういえば、沖田さんは……」
ふと思い出して、悠日は首を傾げた。
涼みにいくと言って大広間を出て行ったきりだが、どうしているのだろうか。
広間には山南が藤堂と残っているから、あまり行きたくはない。そんなことを考え、悠日は決めた。
部屋でじっとしているのも何だか嫌で、消去法で沖田のいるところに行こうと思って、悠日は立ち上がる。
「涼みに行ったなら、中庭……かな?」
そう呟くと、悠日は部屋を出た。
隊士も少ないから、咎められはしないだろう……と思う。
中庭にやってきた悠日に、木陰に座っている沖田は特に驚いた風もなく振り返った。
「悠日ちゃん、もしかして、僕の見張り?」
どこか面白そうに笑って、沖田はそう言った。
確かに近藤にそう言われたが、そんなつもりは全くなかった。
「それ、逆ですよね? 沖田さんが私を見張る、なら分かりますけど……」
「うん。でも、僕が勝手に屯所を出て、皆のところに行くとは思わないの?」
だから見張りなの? って訊いたんだよ。
そう言うと、沖田は悠日を手招きした。
自分の横を叩いて、ここに座りなよと示す。
それに素直に従って、悠日は沖田の横に腰を下ろした。
「そんなことをしたら皆さんびっくりしてしまいますし、沖田さん自身がやめておくとおっしゃったんですから」
だからそんなことを念頭に入れていませんでした、と悠日は苦笑した。
「それじゃあ、君は何でここに来たの?」
翡翠の双眸が、悠日の上から面白そうに笑った。
どう答えたものかと悩んだが、悠日は素直に答えることにする。
「……暇だったので」
そう口にしてから、ならば何故『暇だから』ここに来る、ということになるかと訊かれると答えようがないことに気づく。
別に、わざわざここに来なくても、部屋の中でじっとしていればいいのだから。
「ふーん。部屋から出ていいって、土方さん言ってたっけ?」
案の定、遠回しに『どうして部屋を出たの?』と問われて、悠日はうっ、と詰まった。
「……すいません、やっぱり駄目ですよね。部屋に戻ります」
これ以上聞かれても立場が危うくなるだけだ。そう思って立ち上がりかけた悠日は、急に引き止められた。
「誰もそんなこと言ってないよね? 僕も暇なんだ、付き合ってよ」
右腕を引かれて、悠日は少し
逡巡した。
だが、確かに彼は駄目だとは言っていないし、むしろ暇時間に付き合ってほしいと言ってきた。とりあえず大丈夫と言うことなので、悠日はじゃあ、と言って再び腰を下ろした。
その様子に笑った沖田は、ゆっくりと空を見上げる。
悠日もつられて空を見上げた。風に流れる雲の数は数え切れないほど。どれだけ見ていても飽きないなぁと思う悠日である。
そんな中、ふと思って悠日は隣の沖田に視線をやった。
「あの、沖田さん。怪我の方は大丈夫ですか?」
池田屋で血を吐いていたのを思い出し、悠日はふいに不安に思ったのだ。
心配しているだけで、何か策があるわけではないのだが。
「刀傷じゃないからね、治りは早いと思うよ。……だから僕は大丈夫」
沖田はそう言いながら、あらぬ方向に目をやった。
その先にあるのは、大広間。
「……山南さんのこと、心配なんですか?」
沖田はそれには答えず笑うだけ。答えたくないのか、何も口にしない。
その代わりと言わんばかりに、彼は悠日へ視線を戻す。
「君って変な子だよね。僕の心配なんてしなくていいのに」
「でも……」
「この怪我は僕の自業自得だし。君が気に病むことじゃないよ」
ね、と反論を許さない笑顔が悠日に向けられる。
――どこか悲しそうな瞳に、悠日は困ったように眉を寄せた。
そんな悠日をよそに、沖田は再び空を見上げた。
「……今日の空、綺麗だよね」
「……そうですね」
つられて見上げた先には、雲の散らばった青い空。
それを見ているだけで、会話がなくても不思議と居心地は悪くなかった。
「皆さん、どうしてらっしゃいますかね……」
何気なくつぶやいた悠日に、沖田は少し苦笑しながら答えた。
「張り切りすぎて迷惑がられてるかもね」
ついさっきの大広間の様子を思い出し、悠日はそれが何だか容易に想像できてしまって、そうかもしれませんね、と苦笑するしかなかった。