第三花 花菖蒲
会ったことはないはずだ。自分に記憶がないから確証はないが、記憶が少し戻ったあの時の感覚とは何かが違う。
どこか、恐怖がわきあがってくるような、そんな感じだった。
きぃん、という剣戟の音に、悠日ははっとした。
「さて、俺はそろそろ帰らせてもらおう。邪魔だてするのであれば、容赦せんぞ」
相手は、敵意を感じられない、余裕を含んだ声でそう言った。
どこか笑いが含まれているその声に、悠日は不安を覚えて自身の手を胸元で握りしめる。
――だが。
「悪いけど、帰せないんだ。僕達の敵には死んでもらわなくちゃ」
それに返す沖田の言葉も、戦いの緊張や恐怖と言うよりも、どこか楽しげに聞こえた。
この状況で微笑んだ沖田が、前触れなく床を蹴る。
だが、切り結んでも力で分があるのは相手のようだった。
こういうときどうすればいいのだろうか、と悠日は困惑した表情で眉を寄せた。
自分には身を守る術も、こういうときの打開策を考えるだけの思考力も持ち合わせていない。
足手まといになれば、それこそ彼の身に危険が及ぶ可能性がある。それだけは避けたかった。
そんな迷いの中、不意に鈍い音が悠日の耳に飛び込んできた。
「がはっ!」
何事かと振り返れば、沖田の体が襖を引き倒しこちらに飛んできた。
悲鳴が出そうになるのを必死で堪えたが、【それ】を見た瞬間居ても立ってもいられず、悠日は駆け出した。
「沖田さん! 沖田さん、大丈夫ですか?!」
胸を蹴られたのか、沖田は胸元を押さえながら赤い血を吐いた。
辛そうに咳き込む沖田は、それでもなお浪士を睨みつけている。
襖が取り払われ、相手の浪士の姿が月光を背に浮かび上がる。
「……貴様も邪魔立てする気か? 俺の相手をするというのなら受けて立つが」
金の髪と赤い瞳。白い着物の上に羽織った黒い羽織。
構えられる刃が月光に怪しく光った。
悠日は目を見張る。時が止まったかのように、その姿を凝視していた。
――既視感を覚えるのは、なぜ……。
その時、浪士が一瞬目を見張り、こちらに近づいてきた。
どこか面白そうな顔で悠日の腕を引っ張り、腕の中に引き寄せる。
「ほぉ……。貴様……」
くいっと顎を持ち上げられて、赤い瞳が悠日を面白そうに見つめた。
「貴様、『
菖蒲』か…」
今度は悠日が目を見張った。
心臓が、その言葉を聞いた瞬間大きく脈動する。
だが、それが何なのかを理解する前に、今度は後方に腕を引っ張られた。
すっと、悠日の視界に浅葱の羽織が広がった。
いつの間にか、頭一つ分違う沖田の後ろにまわされている。
まるで悠日をかばうように立ち上がった沖田は、切っ先を浪士に向けた。
「……あんたの相手は僕だよね? この子には、手を出さないでくれるかな」
「ふん、今の貴様なぞ、盾の役にも立つまい」
せせら笑うような浪士の言葉に、沖田が怒りもあらわに声を荒げた。
「黙れよ、うるさいな! 僕は役立たずなんかじゃない!」
その様子に、悠日ははっとして沖田の袖を引っ張った。
「沖田さん、いけません! あまり大きな声を出さないで下さい! 先ほど血を吐いたばかりで……っ!」
君は黙ってなよ、と言わんばかりに、沖田が悠日を更に自分の後ろへ回した。
まるで、浪士の目から自分を隠すかのように。
その浪士は、少し目を細めると、唐突に刀を納めた。
「……何のつもり……?」
「会合が終わると共に、俺の務めも終わっている」
そう言うと、彼は身を翻し、壊れかけた窓に足をかけた。
「……いずれまた会うことになろう、霞原の『菖蒲』」
そう言い置いて、身軽な仕種で窓から外に飛び出した。
彼の『菖蒲』という言葉に、再び心臓が跳ねた。
ひどく頭が痛い。ずきずきするそれを押さえていた悠日の横で、沖田が悔しそうに浪士が去った場所を見つめていた。
「くそっ……! 僕は、僕はまだ戦えるのに……」
動かない体を必死に動かそうとしながら発された弱々しい声に、悠日はどう返していいか分からなかった。
自身を苛む頭痛に堪えている悠日に、沖田は問うた。
「君、あの浪士と、知り合いなの、悠日ちゃん?」
「わ……かりません……。私にも、分からないです…」
ふるふると頭を振る悠日に、沖田はどこか苦しそうに言った。
「もし君が……あいつの仲間なら………僕は、君を…殺さない……と………」
そこまで口にして、力を失った体が床に沈んだ。どさりという音に、悠日は顔を上げた。
「……沖田、さん………? 沖田さん、しっかりして………っ!」
さらにひどく頭が痛くなる。
堪えられないその痛みに、悠日もまた沖田に折り重なるようにそこに倒れ伏した。