第三花 花菖蒲
夜の静寂を打ち割る、激しい音、声。
血の臭いが、暖簾越しに漂ってくる。
家屋からばかりではない。裏に回った隊士達の方からも同様だった。
「……四国屋に、行ったほうがいいのかな……」
不安そうな千鶴の言葉に、悠日は困ったように眉をひそめた。
あちらに控えている隊士はこちらの倍。
こちらに来れば、人数は確保できる。
あえて劣勢の中に入って行った彼らを、助ける術を探したかった。
だが。
「でも、私、四国屋の場所は分からない……」
都の道が分かるというだけで、何がどこに、というのはあまり分からないのだ。そこまで思い出したわけではないし、仮に覚えていたとして、時の経過が大きければ大きいほど、自分の記憶と異なっている可能性が高くなる。
大きな寺社ならば分からなくもないが、彼らがいるのは双方ともに小さな旅籠。少しばかり無理がある。
「事前に、誰かに四国屋の場所を訊いておけばよかった……」
だが、今更後の祭りだ。悔やんだとてどうしようもない。
自身の無力さに歯噛みしていたとき。
「くそっ、手が足りねぇ……! 誰か来いよ! おい!」
永倉の声が、池田屋の中から聞こえてきた。
声ににじむのは焦燥。
当たり前だ。中の浪士が何人いるかは知らないが、あの人数での討ち入りはどう考えても手が足りるとは思えない。
「誰かって、言われても……」
「他の隊士さん達は裏で戦っているし……行けるとしたら、私達しか……」
足手まといにしかならないことが分かっている以上、踏み込めるはずがない。千鶴と悠日は戸惑うしかなく、ただ早く気づいて土方達が来るのを祈ることしかできない。
だが、現実はそう甘いものではない。
「大丈夫か、総司!」
「くそっ! 死ぬなよ、平助!」
近藤と永倉のその言葉を聞いたとき、二人は青ざめた。
それは、危険を知らせる、声。
「沖田さんと平助君……? あっ、悠日ちゃん!」
怪我をしているのか、それとも――。
そう考えた途端、悠日は半ば無意識に駆け出していた。
その気持ちの根本がどこから来ているのか、本人にも分からない。それでも、悠日はそれに抗うことをせず進んだ。
だが、その腕を千鶴が池田屋にあと数歩というところで掴む。
「悠日ちゃん、私たちが入っても足手まといにしかならないよ……」
「それは、分かっているけれど……。でも、怪我をしている人を助け出すことくらいは出来るかと思ったの。……怪我で済んでくれていれば、いいのだけど」
危険なことは分かっていた。人が殺し合っているところなど見たくはない。
だが、ひどい怪我をしているなら早く手当しないと手遅れになる場合もある。
助けられるのなら、助けたい。
「……嫌なら、千鶴ちゃんは外にいて? 私は行くから」
「ううん、私も行く」
そう口にしつつ少し怖そうな千鶴に、悠日は苦笑して頷いた。
不安なために互いに手を取り合いながら、池田屋ののれんをくぐる。
飛び込んだその中。二人は外の明るさとはほとんど縁がなさそうな室内に息を飲んだ。
光のない屋内。外にいる時以上のむせ返る血の臭いと倒れた人の影が、どれだけすさまじい斬り合いがあったかを物語っている。
怖気が背筋を上り、何かが喉をせり上がるのを必死でこらえて、悠日は辺りを見回した。
近くに浪士はいないらしい。
「……沖田さんと平助君が、危ないんだよね……」
「近藤さん達の言葉から察するなら、ね」
だが、誰がどこにいるか分からない状況では動きようもない。
そんな時だった。
「君達が来たのか……! 他の隊士は何をやっているんだ!」
「こんなとこにいちゃ危ねぇぞ!」
近藤と永倉が、刀を構えながら同時に駆け寄ってきた。
「あの、沖田さんと平助君は…」
「平助は一階のこっちだ。鉢金が割れて、額から血を流してる」
「総司は二階だ。浪士も一人いるはずだが、どうやら圧されているらしいんだ。――雪村君、霞原君。二人を頼んでいいか? ……危険がないよう、こちらも出来る限り気を配る」
「はい!」
近藤の言葉に、千鶴と悠日ははっきりと答えた。
そうして二人は互いに顔を見合わせると、千鶴が口を開いた。
「私は平助君の所に行こうと思うんだけど、悠日ちゃんは…」
「私は、沖田さんの所に行ってくる」
「二人とも頼んだぜ!」
「辺りの者達は俺達に任せてくれ」
それぞれの分担が決まった所で、近藤と永倉は言ったとおり、悠日や千鶴が行きやすいようにいつの間にか集まっていた浪士達を倒していく。
「千鶴ちゃん、気をつけてね!」
「悠日ちゃんも!」
そうして、二人は一階と二階とに別れた。
千鶴と反対方向に進んだところに階段がある。あそこから二階へ行こうと駆け出したとき、ふいに背後に人の気配が立った。
「貴様、新選組の者か!?」
振り上げられた刀に、悠日はどうすることも出来ない。避ける術も受け止める術もない。
思わず目を閉じたが、刃が悠日に降りる前に、男が倒れた。
「霞原君、無事か!?」
浅葱の羽織だけでなく顔や着物のあちこちに血を付けた近藤が、刀を手に悠日を案じた表情で悠日に近寄った。
「はい、ありがとうございます!」
「俺が、ここで応戦する。その隙に君は二階に行ってくれ」
「はい!」
階段の昇り口に立った近藤に軽く礼をし、悠日は一気に階段を駆け登った。
ぎしぎしと音を立てる木の階段を上り、たどり着いたそこにも多くの浪士が倒れていた。
襖に飛び散った血。床に広がる血溜まり。
凄惨としか言いようのないそれらに眉を寄せながら歩けば、人の気配を感じて悠日は唇を引き結んだ。
そこには、浪士と相対している沖田の姿があった。
今の所、怪我をしている様子はない。
そのことにほっとしたのもつかの間、妙な雰囲気に嫌な予感がした。
――沖田が、圧されていたのだ。
隊士の人達の話を何気なく聞いているだけだが、彼がどれほど強いかは悠日も何となく分かっていた。
その彼が、浪士に圧されているのだ。襖越しに姿は見えないが、相手の刀はかろうじて見えた。
ふと、目だけを動かした沖田と視線がかちあう。
特に驚いた風もなく、どうして君がここにいるの、と言わんばかりの瞳は、すぐに浪士に戻される。――悠日がいたことに、彼は気づいていたのだ。
「ふん、新選組の手練れと聞くが……貴様の腕もこの程度か」
低い尊大な声。
その浪士の声を聞いた時、自分の中で得体の知れないものがざわめいたのを、悠日は確かに感じた。