第三花 花菖蒲

「千鶴ちゃん、そっちじゃなくてこっち!」

「えっ! ごめんなさい!」


 慌てた風情で、悠日が道を間違えそうになった千鶴に声をかけた。それに千鶴も方向を変えながら謝る。

 戌の刻(午後九時〜午後十一時)に到着して後、千鶴と悠日は現在二人で池田屋周辺を走り回っていた。

 所司代の者が来る気配があるかどうかを見てきてほしいと言われて、辺りを回っていたのだが、それらしい人影は全く見当たらない。
 足音も、闇を照らし出す提灯の明かりさえ全く見えない。


「土方さん達が行った四国屋の方が、本命……なんだよね?」

「そう計画は立てているみたいだけれど……」


 それにしては、池田屋に人が集まっているような気がするのだ。人の気配がいくつも宿の中にあった。
 とはいえ、その辺りはよく分からないのが事実。彼女たちはただ、指示のあった通りに動くだけだ。


「とりあえず戻ったほうがいいよね、悠日ちゃん」

「うん。所司代の人達、来ないつもりなのかな? もしそうなら、少人数での討ち入りになってしまうし……」


 それは、もしも池田屋が本命ならの話だ。
 四国屋が本当に本命なら、特に問題はない。あちらから連絡があればこちらが向かうだけなのだから。

 かといってあちらが絶対と言うわけでもない。
 はぁ、とため息をついた悠日に、千鶴が問いかけた。


「……ねぇ、悠日ちゃん」

「どうかしたの?」

「これ、役に立ってるって言うのかな?」

「……少なくとも、伝令とは程遠いような気もするけれど……」


 近藤に伝令役を、と言われたが、先程から走り回っているだけだ。

 これをはたして伝令役と言っていいものか。それは悠日にもある意味心配なことだった。

 そんなことを考えながら、あまり明るくない報告を持って池田屋まで戻ると、沖田と永倉が緊張感の感じられない会話をしているのが目についた。


「……こっちが当たりか」

「僕は最初からこっちだと思ってたよ。今までだって頻繁にここをを使ってたし」

「……仲間が捕まった晩に普段と同じ場所に集まるか? 普通は変えるだろ、常識的に考えて」

「実際こうして池田屋に集まってるんだから、奴らには常識がなかったってことでしょ」


 明かりのついた旅籠の方を見ながら、さも面白そうに沖田は笑う。
 その常識の裏を読んで集まっているから彼らもここにいるのだ。常識も何もあったものではない。
 悠日がそんなことを思っていると、藤堂が駆け寄ってきた。


「お帰り、二人とも。どうだった? 役人達、まだ来てなかったか?」

「この辺りには、誰も居ないみたい」

「少しはずれも見てきたけれど、明かりの一つも見えなかったからたぶん、今も近くにはいないと思う」


 そう報告すると、藤堂が顔をゆがめて舌打ちした。

 早くに報告はしてあるのだから、くるならさっさとこい、とぶつぶつ呟いている。
 それを永倉が焦りの見えない様子で笑って言った。


「あんなやつら、居ても役に立たねぇんだから、来ても来なくても一緒だろ?」

「そうだけどさぁ……」


 そこで認めるのもどうだろう、と悠日は千鶴とともに苦笑する。
 彼らが強いことは話に聞いているので、本当にそうなのかも知れないが。

 そんな悠日達に、沖田が笑いながら忠告する。


「君達も、心の準備はしといてね。踏み込むことはないと思うけど、僕達の邪魔になられちゃ困るから」

「あ、はい」


 沖田の言葉に頷きながら、悠日は池田屋を見つめた。
 依然明かりのついた二階。人がいるのは明らかだ。

 かといって勝手をするわけにもいかない。
 ――結局、新選組は役人が来るまで待つことにした。


 だが――一刻(二時間)たっても、来る気配はない。


「月が、結構傾いてる……。そろそろ亥の刻、か……」


 空にかかった月が、煌々と地を照らす。その角度は、すでに日付の変わる時間帯が近いことを知らせていた。

 三日月だというのに明るいそれは、何も出来ない自分達の姿を照らして嘲笑うかのようだ。


「……いくら何でも、これはちょっと遅すぎじゃねぇか?」


 永倉のぼやきに、ちょっと所じゃないと思う、と悠日は思った。
 知らせたのは夕方。支度に戸惑っているとはどう考えても思えない。

 このままでは、中にいる浪士達が逃げる隙を与えることとなりかねない。

 不安そうな悠日達の気持ちを読んだかのように、沖田が近藤を振り返った。


「近藤さん、どうします? これでみすみす逃しちゃったら、僕達無様ですよ?」


 うん、と藤堂・永倉も頷く。他の隊士六名も、近藤の指示を待つようにじっと彼を見つめる。

 しばらく考えていた風情の近藤が、不意に立ち上がった。


「雪村君、霞原君。少し、ここから離れていてくれないか」

「……まさか、この人数で踏み込むつもりですか……?」

「そのまさか、だよ。さすが近藤さんだよね」


 ――そこは流石と評するところではないと思います。

 だが、そんな彼女達に近藤はさらに言った。


「浪士達が降りてこれば、君達に危害を加えるかもしれん。……もっとも、逃がすつもりはないが」


 二人の肩をぽん、と叩く。
 頷くしかない悠日と千鶴に笑うと、近藤は刀を抜いた。

 そうして池田屋を振り返り、暖簾をくぐると大音声が響き渡る。


「会津中将お預かり、新選組。――詮議のため、宿内をあらためる!」


 小さな悲鳴に重なるように、一緒に入った沖田、永倉、藤堂の三人が、討ち入りに行くとは思えないほど楽しげに声をあげる。

 裏口にも隊士がまわり、そちらからも声が聞こえてくる。



 ――剣戟鳴り響く、すさまじい戦いが始まった。


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