第十四花 柊
どさり、と外から聞こえた音に、閉じていた目をうっすらと開けた。雪が落ちたらしく、障子の向こうで枝が若干揺れている。ゆるく癖のついた藍色の髪が視界の端にあることに気づき、そちらへ視線を移してほんの少し息を詰めてからゆっくり吐き出した。起きた事は気配で分かったようで、振り返ってこちらを覗き込んでくる。
「よぉ、目が覚めたか?」
「……あなた……どうして、ここに……?」
八瀬に来ることなんて滅多に無いのに、という言葉は起き抜けの悠日の喉からは出なかった。それを言ったところで詮無いことだから余計だ。それに応えるようにして懐から出されたのは、見覚えのある筆跡の表書きの文。
「ほらよ、お前の従者からの文」
「牡丹の……?」
ゆっくりと起き上がってから、腰元へ放られた手紙に目を通す。読んでいくにつれてみるみる険しくなっていく悠日の様子を見て、その人物は楽しそうにくつくつと笑った。
笑える状況ではない内容だっただけに、悠日はそれに対して棘のある言葉を向ける。
「何がおかしいの、不知火」
「いや、お前さんのそういう顔を見んのは久しぶりだって思ってな」
「……それは嫌味?」
「そう言うなって」
変わんねぇな、と言いながらどうにか笑いをこらえたらしい彼――不知火に息をつき、文を下ろすと赤みの強い紫の瞳へと自身のそれを向ける。
「……協力してくれると、そう言う話みたいだけれど、本当なの? ――匡」
「お前さんにそう呼ばれるのは久しぶりだな、悠日」
懐かしむようにして目を細めたその様子は、昔のそれを彷彿とさせる。まだ宇治に里があった頃、他の鬼族よりは交流のあった不知火の一族は、彼女にとっては親しい親族だったのだ。正直なところ、彼に昔の面影は殆ど残っていないが。
「兄妹みたいなものだったものね、あなたと私。先々代との関わりから、そうしてくれるのは分かっていたけど」
「のわりに、お前はこっちを敬いやしねぇしな」
「じゃあなに? 匡兄様とか、そんな呼び方されたかったの?」
「やめてくれ、怖気がする」
「失礼だこと」
そう言いながら、空気は大して冷えてはいない。知った者同士の冗談の掛け合いに近しいそれは、牡丹がいれば仲のよろしいことでと向けられていたことは想像に難くない。その牡丹がよこしてきた文の内容は、悠日からすれば願ってもないことではある。
「……それで、どうするつもりだ、お前」
「あなたが協力してくれるというのなら、私としてはとてもありがたい話ではあるけど、あなたの方はいいのね?」
「俺にも、止められなかったっていう意味では責任があるしな」
何が、とは言わずともしれていた。鬼の一族は本来人間に手を貸さない。今回彼らが人間の事情に手を貸したのは関ケ原の一件に対する恩返しに近い。だが、いくら恩を返すと言っても、今回の一件はその域を超えていた。
「誰しも、私の血を使っているなんて普通は思わないのに。……知らないことも罪だと言われてしまえば、それまでだけど」
「まあな。……綱道に会わなきゃ、今も知らねーだろ、たぶん」
千鶴の探し人の名を聞いて、今度は悠日が目を細める番だった。渦中の人間であり、悠日の血を使っている者の名。それが本意でないことは当然悠日も知っているが、その実験をやめさせるためには綱道本人を引き離す必要がある。
「……その綱道については、どうするつもり?」
「そのうちに抜け出てくる。……安心しろよ、あっちの中に、こっちの味方が一人いる。今なら、隙を見れば綱道と二人出てくるのも難しくはないしな」
「……信頼できるのね? それが薫様だとか言ったら、あなたを即刻たたき出すけれど」
鬼の一族同士、本来であれば信用はできるはずだった。だが、彼は鬼でありながら変若水に手を出している。目的が何であれ、やって良いことと悪いことがあることくらい分別がつくはずだ。
それを狂わせたのは、雪村一族の滅亡そのものなのかもしれなくとも。
そんな悠日の懸念に、不知火は怪訝そうに眉をひそめた。
「薫? ……ああ、元雪村の、今は南雲の頭領やってる坊ちゃんか。あいつじゃねぇよ。つーかあいつは、どっちかっつーと親変若水の一派みたいなもんだろ」
「……じゃあ、誰?」
「そのうち分かる。……安心しろって。むしろお前の扱いに大層怒り狂ってたやつだ。問題ねぇよ」
ますます何のことかわからなくなり、悠日は首を傾げるしかない。この状況下で悠日が心の底から信頼できる相手などほとんどいないし、敵方にいるものに心当たりがあればとうの昔に働きかけている。とんと見当がつかない悠日に、不知火はニヤニヤ笑いながら彼女の頭に手を乗せてぐしゃぐしゃとかき回した。
「間抜けた面してんなぁ、お前」
「ちょ、やめて……っそれに、そんな顔になったのはあなたが変なことを言うからでしょう、匡」
ムッとした様子は、どこか子どものそれを彷彿とさせる。普段から気丈にして大人びた雰囲気しか見せていない悠日の様子とはほんの少し異なるそれを気にした様子もなく、不知火は手を離して肩をすくめた。
「へーへー、そりゃ悪かったな。……で、お前の経過の方はどうなんだ?」
「……まあまあ、といったところかしら。半年くらいで自由に動き回れる程度には回復はすると思うけれど」
全快、と言わない辺り、その回復の程度は知れている。お前なぁ、と呆れた様子の不知火に、先程の様子から真面目なものへと一変した悠日は、小さく首を振った。
「無茶だって言うんでしょうけど、時は刻一刻と迫っているもの。……戦も、始まってしまったし」
「知ってたのか……」
「だから牡丹を行かせたのよ。後手に回ってばかりだもの……私も、早く事を進めないとね」
今はもう大坂に着いているだろうか。既に伝わっているだろうことを見越して、以前彼女が伏せに伏せた内容を告げても問題ないと彼女にも言ってあるが、喧嘩腰での話し合いになっていなければいいがとつい心配になる。
「ま、好きにしろよ。俺は、それまで護衛役をやるだしな」
「あら、ついてきてくれないの?」
「牡丹のやつが戻ってくるまではやってやるよ。それに、お前を放って帰ったって知れたら、一族の連中になんて言われるか分かったもんじゃねぇ」
くわばらくわばら、と口にする不知火に、悠日も小さく笑う。不思議なことに、基本的に鬼の一族から敬遠されがちな霞原の一族も、ある時期から不知火の一族とだけは懇意なのだ。
「あなたの一族の長老衆、大叔父様のこと相当崇拝してらっしゃるものね……」
「まあ、それだけの事をした頭領ってこともあるわけだけどな。だから、こっちのことは気にすんな。……ほら、さっさと休め」
ぽすぽすと布団を叩かれて、悠日は苦笑いとともに横になる。相変わらずお兄さんしてるなぁ、と思いながら口には出さず、悠日は布団を引き寄せてふわりと笑った。
<第十四花 終>
2020.3.8