第十四花 柊
藤堂が千鶴をかばって立ち上がる。抱えていた刀を腰に差し、大刀を抜いてやってきた人物らへと向けた。もともと張っていた緊張の糸が更に張り詰められ、肌に触れる空気がピリピリと揺れる。
「どうして、あなたたちがここに……」
「なぜ、だと? 決まっているだろうに、わざわざそれを問う必要があるのか?」
「どう答えたって、てめぇらにこいつを渡すつもりは全くねぇけどな、風間! 天霧!」
敵方――新政府側の追っ手は撒いてはいるものの、それでもいつ見つかるか分かったものではない。そんな中に現れた二人。あちらの追っ手よりもよっぽどたちが悪い。
それでも、いつでも逃げられるように、千鶴は藤堂の羽織を抱えて立ち上がる。
「貴様らなどに守ることなどできるのか? そもそも、今もって追われている身であろう。……俺のあずかり知らぬところで死なれても困るのでな。であれば、俺がその身を匿うのが最も安全な道だろうことがなぜ分からん」
「ふざけんな!」
そんな言葉とともに、藤堂は地を蹴る。羅刹になった影響もあるのか、その動きは常人よりもずっと早い。
それでも、鬼である風間にとって、それは見切れるほどの速さだったようだ。
藤堂の刀が、難なく風間のそれに阻まれる。涼しげな表情は、風間にとってそれが児戯にも似たものだとでもいうような、そんな風情を醸し出していた。
「くそっ……」
悔し気に顔をゆがませた藤堂が一度後退する。相手は鬼、対しこちらは羅刹になったとはいえ人間だ。
差は歴然だが、藤堂の瞳に諦めの表情は見えなかった。
「……俺さ、ずっと後悔して、迷って……そんなことばっかだったんだけど。……ひとつだけ迷いも後悔もないことがあるんだよな」
「平助君……?」
「お前のことを守りたいって気持ちは……そう決めたことには、迷いも後悔もねぇんだ。だから絶対、逃げたりしねぇ!」
そう告げた藤堂の髪が、みるみる白く染まっていく。
羅刹の姿を見つめた風間は、不快だと言わんばかりに顔を歪ませる。
「……まがい物風情が、俺の邪魔をするか……」
「俺自身は、確かにお前ら鬼からすればまがい物かも知んねぇ。けど、俺のこの気持ちはまがい物でもなんでもない、本物だっつーの!」
その瞬間、千鶴の視界から藤堂の姿が消えた。半瞬後視界に入った藤堂が一閃した刃が風間に向かう。
見切ってはいたのだろうが、それでも藤堂の渾身の一撃は風間に肉薄した。
よけたその瞬間に閃いた刃が風間の顔をかすめる。
一筋ついた傷から血がにじみ、頬に赤い差し色が入る。まさかそうなるとは思っていなかったのか、風間の表情がみるみる怒りに満ちていった。
「貴様……まがい物の分際で……」
「平助君……!」
激情のまま刀を振り上げた風間に、藤堂が目を剥く。間に合わないと悟ったのだろう。
だが、その刃は突然風とともにやって来た何かに阻まれた。高い金属音と共に、風間が刀ごと弾かれる。忌々しそうに眉を寄せ、再び刀を構えた風間を、その人物は冷静な様子で見据えた。
「……相変わらずのご様子で、風間家頭領殿」
「……貴様、宇治の……!」
首元で結った麦色の髪が冬の風に流される。闇に溶けてしまいそうな短刀の切っ先は風間へと向いていて、殺気は感じられないのに、何かしら動きを見せれば命を取られそうな、そんな空恐ろしさがうかがえる。
眼の前で刃を向ける者が誰かを視認し、風間はほんの少し焦りの見える様子で辺りに視線を向ける。
「ならば『紫苑』の者も、来ているわけか」
「残念ながら、姫はまだ八瀬にて療養中でいらっしゃる。私がここに来たのは、動けない姫の頼みを受けてあなたの動向を見るためだ。――姫の手が離れたのをいいことに屯所へ襲撃するような輩の話は伺ったのでな。……運が良かったな、風間家頭首殿?」
遠まわしに、西本願寺にいたころの話を持ちだされ、風間は不快そうに目をすがめる。悠日がいないことに安堵した様子ではあるが、気は抜けないと言いたいらしい。
ありありと見えるそれが牡丹にも伝染したかのように、彼女もまた眉をひそめた。
そんな彼らに、どこか呆れた風情で凛とした声が降り注ぐ。
「さすがに早いわね、牡丹。……まあ、そこの風間もまがい物まがい物と侮辱してるわりに、随分と感情的になっていたみたいだけど」
木々の奥から顔を出したのは、千鶴がよく知る人物たちだ。先頭に立つ少女――千姫の後ろに控えるように、君菊の姿も見える。
その姿を見て、天霧ははっとした様子で居住まいを正す。そんな天霧とは対照的に、風間は珍しいものを見た様子で笑った。
「……貴様は、京の旧き鬼の一族か」
「いかにも。……こちらにおわします方は、かの鈴鹿御前の血を引く直系血族の姫君です」
「と言っても、あなたとこうして顔を合わせるのは初めてではあるけれど。……分かっているなら話は早いでしょう」
いつもよりもずっと威厳の含まれた、緊張感を帯びた表情で千姫は風間を見つめる。堂々とした態度は『姫』と呼ばれるにふさわしい佇まいで、千鶴も無意識に背筋を伸ばしてしまう。
「……誰だ、あんた」
「平助君、彼女がこの間話してた、お千ちゃんだよ。……でも、いったいどういう……」
彼が千姫に会ったことがないことを千鶴も分かっていたが、その彼女から聞いた話を彼にもしたので、千姫の存在自体は彼も分かっている。牡丹にかばわれた形になってどこか複雑そうな藤堂に近づいて、千鶴はそんなことを考えながら説明する。
とはいえ、彼女にも鈴鹿御前がいったい誰なのかは分からない。それでも、風間の反応と、恭しくこうべを垂れた天霧の反応を見るに、彼女が下手をすれば風間たちよりもずっと格上の存在であることを知らしめた。
風間が刀を降ろしたことを受けて、牡丹も短刀を鞘に納め、一歩下がる。
「して、音に聞く八瀬の姫が、一体何用だ?」
「簡単なことよ。……あなた、血筋の良い子をもうけるために女の鬼――そこの千鶴ちゃんを狙っているって話だけど、もう一人ここにいるじゃない、血筋の良い女鬼が」
自身の胸に手を当てながら、千姫はまっすぐ風間を見つめて言う。千鶴も千鶴で何を言い出すのかと、そんな眼差しを千姫へと向けた。
「……一体どういう風の吹き回しだ」
「どうもなにもそのままよ。あなたの子は私が生んであげるから、その子のことは諦めなさい」
何のためらいもなく、かといって好意の欠片も見られない淡々とした口調だった。風間は不遜に笑って、それを受けた。
「ほぅ、八瀬の姫直々に我が妻となるということか?」
「馬鹿言わないでちょうだい。立場としては、宇治の一族と逆のことをするというだけの話よ」
宇治の一族、と聞いて反応したのは千鶴だった。そう呼ばれるのが悠日だと、流石に千鶴も分かっている。だが、逆、というのは一体どういう意味だろうか。千鶴がそんなことを考える間にも、千姫は話を続ける。
「あなたの子を産んではあげるけど、あなたの妻になるつもりもないし、風間の家に入るつもりもない。……鬼の一族の存続のための手段だと言えば分かるかしら?」
「それは願ってもないことだな。だが、それでこやつをあきらめるという理由には――」
「――無礼者が! 己が立場をわきまえよ!」
ぴんと張り詰めた糸が鋭い音を放つような、そんな声が放たれる。思わず肩を震わせた千鶴とは対照的に、風間は動じる様子は見せない。
千姫は、そんな風間に向けて反論を許さない勢いで続けた。
「鬼の一族の中で最も旧き血を引く私の子であれば、当然鬼の正統の血筋。何人子を産ませようと、我が子の上を行くものは現れぬことは自明の理であろう! 風間家頭領ともあろうものがそれも分からぬか!」
「……ふん、言ってくれる……」
苦笑いを見せ、風間は小さく息をついた。伊達に旧き鬼の血を継いではいないということか、という呟きののち、彼は喜悦の色をにじませながら、不遜に笑う。
「いいだろう。この世の動乱が落ち着いた末に、貴様を迎えに行くとしよう」
行くぞ天霧、と声をかけ、風間は踵を返す。丁重に千姫と千鶴へ礼をした天霧が彼の後に続くと、風間はふと足を止めて肩越しに振り返った。
「……命拾いしたな、まがい物。だが、お前が醜く狂い果てるのであれば、問答無用に殺す。それを肝に銘じておくのだな」
もっとも、と、風間はどこか面白そうに笑いながら続ける。
「そうなろうものなら、あの紫苑の者が放ってもおかんだろうが。あれは、あれこれ言いながら、人に甘い」
呆れた風情で息をつき、風間と天霧はそのまま森の闇の奥へ溶けるように姿を消す。
冷えた風が頬をなで、妙な緊張感だけが残る。
そんな空気を払しょくするように、千姫は大きくため息をついた。
「……まがい物まがい物って、随分と好き勝手なこと言っちゃって……」
その声色は、先ほどまで見せていた『姫』としての部分からはかけ離れたものだった。表情の落差に頭がついていかないながらも、千鶴はなんとか礼の言葉を絞り出す。
「お千ちゃん……それに君菊さん、牡丹さん、ありがとう、助けてくれて」
「いえ、私は姫の護衛としてついてきたまでですので。礼でしたら、姫と牡丹に」
「私も大したことはしておりませんので、お気遣いなく」
千姫の後ろへと下がった牡丹の軽い礼とともに放たれたその言葉に、千姫は困った様子で息をついた。
「もう少し厚意ってものを素直に受け取るようにしなさいな、牡丹。そんなだから悠日に心配をかける羽目になるのよ?」
「……それは……っと、今はそのようなことを悠長に話している場合ではありません。まだ気配は遠いですが、敵方の――新政府軍の者たちがこちらへ近づいています」
「そうね、じゃあ積もる話はまた今度にしましょう。二人はこれからどうするの?」
切り替えの早い三人に、ほんの少し戸惑いながらも藤堂はそれに答えた。
「俺たちは……大坂城に行くつもりだ」
「たぶん、ほかの皆さんもそこに向かってるだろうから……」
そういう話で伏見奉行所を出てきたのだ。対抗する手段もないのだし、それ以外に行き場所もない。
「それが妥当でしょう。この先の淀城は幕府を裏切り、新政府側へと着きました。そこを抜ければ、大した障害なくたどり着けるかと」
君菊の言葉に、藤堂も千鶴も苦い表情を浮かべる。それに釣られたように苦笑いを浮かべながら、千姫は肩越しに牡丹を振り返った。
「牡丹、あなたはどうするつもり?」
「私は、先行してお話しておきたいこともありますので、お二人の護衛がてらついてまいります。何でしたら、千姫様の先ほどの件でのお話も伝えられることはお伝えいたしましょうか?」
「そうね……そうしてもらえる? ……でも、あの子のことはあれに任せておいていいの? 一応、新選組とは敵対してた勢力よ」
「問題ございませんでしょう。何せかの家は、霞原に手出しするなと大伯父君の代より厳命されておりますから。何より、約束事に関しては最もうるさいと評判の一族ですし」
あれだの何だのとかなり遠回しな表現が飛び交い、藤堂も千鶴も全くついていけていない。それをもちろん彼女たちも分かっているのだが、配慮する様子もまた見られなかった。
「……まあ、風間についてうろうろしてたって点では手を出してるんだろうけど……直接の危害は加わってないんだから、そこはぎりぎりの線ってところなんでしょうねぇ」
「それに、彼の属していた藩が姫に手を出したのですから、そう言う意味での罪滅ぼしも兼ねて頂かないと困りますので。菊、あの方に、姫に何かあったら容赦しないと伝えておいてくれるか?」
「承りました。あなたも、あまり無茶はしないように」
何があれ姫が第一。そんな言葉が聞こえてきそうな牡丹のそれに、君菊も行動への釘を差しつつ了承の言葉を述べた。