第一花 野荊

 その日の夜。悠日は出窓から外を眺めていた。小さな隙間から、雪明かりの中、月が淡く煌めいているのが見える。

 千鶴が少し寒そうにしていたのを思い出し、悠日は少し思いにふけった。

 今、彼女は湯殿に行っている。次は悠日が入る番だった。

 彼女のようにそこまで寒いとも思わないのは、自分がこの寒さに慣れているからなのか、それとも別の理由があるのか。

 そんなことに考えを巡らせ、悠日はため息をついた。


「考えてても、仕方ないものね……」


 そう言って、悠日は自分の胸元に手をやった。

 着替えるときに気がついたのだが、あの青い首飾りとは別に、薄紫の細い紐に通った三つの飾り紐を下げていた。


 千鶴は知らないと言っていたから、おそらく昔会ったときに彼女に見せたわけではないのだろう。もしくは、その時は持っていなかったか。


 ただ、これは首飾りとは別の意味で手放せない気がした。

 首飾りが『手放してはいけない』なら――。


「……手放したくない、かな……?」


 それを手遊びながら悠日はそう首を傾げた。

 おかしなことだが、記憶はないのに潜在意識の中で何かがそう告げる。

 どうせなら、記憶もなにもかもあればよかったのにと思う。


「記憶があったら、今の状況は何か変わってたかな……」

「それはないと思うよ」


 ふいに後ろから声をかけられて、悠日は肩を震わせた。

 気温を更に冷やすかのような声に、悠日は胸元で手を握る。


「もし記憶があっても、君の立場は変わらない。千鶴ちゃんと一緒に今と同じく軟禁状態だよ」


 ゆっくりぎこちなく振り返ると、戸口付近であぐらをかいた沖田と目があった。


「…おき……たさん……」


 少し怯えた目をした悠日に、沖田は目元の笑っていない笑顔を返す。


「あの、いつ部屋に……」

「今晩の見張り当番は僕だよ。中から君の独り言が聞こえたからさ、驚かせようと思って結構前に部屋に入ってきたんだど、まさか気づいてなかったなんてね」


 そう笑う沖田が、立ち上がって悠日に近づいてきた。

 恐怖なのか、それとも別の何かなのか。
 思わず後ずさりかけたが、壁がすぐそこにあることに思い当たり、ぎゅっと手を握った。

 そんな自分の反応に驚きつつ、悠日は瞬きもせず沖田を見つめる。


「どうしたの? 別に取って食べちゃったりなんかはしないよ。殺すわけでもない」

「な、ら……」


 どうしてそんな目で、自分を見てくるのか。

 ――まるで、冷たさの中に別の感情を含んだかのような……。


「一つ、聞かせてほしいんだ」


 無意識に胸元で片手の飾り紐を握る悠日に、その目の前でしゃがみ込んだ沖田は口元だけで笑った。


「君さ、――本当に何も覚えてないの?」


 唐突な質問に、悠日は困惑の表情を浮かべた。なぜだか声が出ず、頷くことしか出来なかった。


「ふぅん……」


 そう、と言って沖田は立ち上がって部屋を出ていった。

 悠日は、たん、と障子が閉まる音をどこか遠くに感じながら呆然と先ほどまで沖田がいた場所を見つめる。


 自分自身何が起きたのかよく分からなかった。

 彼が怖いわけではなかったのだ。――殺すとか斬るとかしょっちゅう言っているから、確かに怖い人かもしれない。

 だが、さっき感じた恐怖は、それとは違って、むしろ、自分の中の何かが自分を押さえ込んでいるような気がして、気づかず距離を置こうとした。

 ――茨の蔓に巻き付かれたかのように、何かが自分の中の何かを拘束し、それ以外の行動を許してくれなかった。

 なのに。


 そんな自分の行動に戸惑いを覚えているのは、何故だろう――。

 混乱した頭では整理がつかず、悠日は自身の腕で体を抱く。ぐるぐるとした思考に浸っていたとき、千鶴が帰ってきた。


「お先に。次は悠日ちゃんの……どうかしたの?」


 窓の傍の壁にもたれてどこか遠くを見ている悠日に、千鶴が心配そうに声をかけた。
 緩慢に首を振って、悠日は苦笑気味に言う。


「……なんでもないよ。ちょっと、考え事してただけだから。……じゃあ、入ってくるね」


 そう言って悠日は部屋を出ていった。外では脱衣所手前までの見張りの斎藤が待っている。

 障子が閉まり二つの影が去ると、千鶴は首を傾げた。


「……なんでもない、って……」


 先程まで悠日が座っていた場所に目を向けて、千鶴は首を傾げた。


「じゃあどうして……泣いてたの?」


 一筋だけ流れた涙を、千鶴は確かに見た。


 だが、その涙の理由を、現時点で知る者は本人を含めて誰ひとりとしていなかった――。



<第一花 終>
2011.2.20.
2012.9.2. 修正

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