第十二花 十五夜草

 ピリピリとした空気が伝わってくる。それはもはや殺気に近い。だが、これまで何度命を狙われたかしれない悠日にとって、そんな殺気は大して恐ろしいものではなかった。
 殺気とともに振り上げられる刀の怪しい煌めきの方が、よほど恐ろしい。

 そんな殺気の中で、一つだけ異質な感情を感じてそちらへ視線を向ける。
 翡翠の双房と目が合い、ただでさえ開きにくいその目をほんの少しだけ細めた。

 彼だけが心配そうな色を乗せてこちらを見ている。
 先ほどのあの光景を目の当たりにしても、彼は心配してくれるのか。
 同族であるはずの鬼にさえ化物と称される一族の裔の、自分に。

 そんな彼が手にしている小さな袋を見つめて、その中に入っていたのだろう、首にかかる璃鞘の水晶を思い出す。
 御所で襲われた時、璃鞘の核となる水晶が放たれたのは、恐らく璃鞘の意思だ。
 助けてくれる誰かがいるわけではない。彼に助けを求めるつもりも毛頭なかった。それでも、意識が途切れるほんの少し前、脳裏によぎった顔は、璃鞘が働きかけようとするには十分だったのだろう。
 帰るための導となるように、彼のもとへ向かった。
 そして、彼がその水晶を持っていたために、ここに戻り、力を抑えることができた。

 だが、帰ってきたとはいえ今の自分に説明することはできないし、あんなことがあっては牡丹の人間不信は深くなり、説明させることもできない。

 弁明の余地はきっともう、ない。


「……そ……ぅ……」


 ああ、そうか。
 自分はまだ大丈夫なのだと、死に至るほど弱っているわけではないのだと彼へ示すために、璃鞘は目覚めさせてくれたのだ。

 もう二度と目にかかることが出来ないかもしれない彼のその面差しを、その目に焼き付けよと言わんばかりに。
 千姫が戻ってきたなら、きっと八瀬へ強制連行されるはずだ。それから先、自分がかの地から出させてもらえるかと言われれば、その可能性は九割方否だろう。

 人の思惑のせいでこうなったのだから、人と接触させてもらえるはずもない。

 こうなる前に、約束も何もかもなげうって、彼の病を治してあげていればよかった。

 帝との間に有った約定は、その約定を結んだ人間――つまり帝のためにのみその血を用いて治癒することも含まれていた。鬼は同族だからという理由でその約定の範疇に含まれていないのだが、彼は人だ。

 その約定がなければ、彼の病を治してあげられた。牡丹に頼んでもよかったのかも知れないが、それはおそらく牡丹が許さないし、約状の上でも許されないのだろう。
 牡丹の一族の血は霞原の頭領の命を助けるためにある。花結びを介さないそれは、連綿と血筋に打ち込まれた強い約束だ。頼んだ自分は自業自得なのでともかく、下手をすれば牡丹の命が危ぶまれる。それだけは許すことが出来ず、何も出来なかったのだ。

 きっと、その力を乱用しないための、先祖が講じていた策なのだろう。そうしなければ、人の世へ介入しやすい霞原の力があまりに大きくなるのだから、間違ってはいないのだ。

 それでも、治せるのならばと何度思っただろう。それが出来ない自分を何度歯がゆく思っただろう。

 花結びを解いた今なら、彼のためにその力を使うことも可能だろう。だが、今それができるほど体力が回復していない。力を調整できるはずもなく、そんな時に分け与えてしまったら、きっと度を越してしまう。霞原の血は、度を越せばその性質は変若水と同じになる。

 ――彼を、あの羅刹のようにはしたくない。

 ごめんなさい、と唇が動く。声にならないそれと共に、頬を涙が伝った。瞼の奥に薄紫の瞳が消え、悠日の体から力が抜ける。
 もう限界だと、璃鞘が訴えかける声が聞こえた。


「悠日ちゃん……!」


 深く沈む意識の中で、沖田が悠日を呼ぶ声が聞こえ、もうひとたび涙が頬を伝う。
 それきり、悠日は動かなくなる。


「っ……悠日ちゃん!?」

「落ち着け、沖田。……また、お眠りになっただけだ。来たければ来るといい。璃鞘が抑えているから、先ほどのようにはならない」


 悠日だけでなく、牡丹もこの二人が離れることは勘付いていた。悠日の涙の意味や、声にならなかった謝罪の言葉が、どちらも彼へ向けたものだということも。

 窺うようにゆっくりと近づいた沖田は、血にまみれた着物を纏ったままの悠日の頬に手を添える。
 冷たい体に戦慄が走るが、牡丹が問題ないと返してきたので、痛みをこらえるような表情でその頬を撫でる。
 そんな沖田を傍目に、土方は牡丹と菊へ視線を向けた。


「霞原を、今後どうするつもりだ」

「八瀬へお連れいたします」

「……何のために」

「この方ご自身が、というより、この方の周りにいる方々が、危険に晒される可能性が有ります。今はまだ抑えられてはいますが、箍が外れた時の危険性に関しては、風間よりもずっと厄介です」


 その箍の役目を担っているのが、璃鞘だ。いつからか霞原の頭領に代々伝わる首飾りをそう呼んでいる。その箍が完全である今、その危険に陥ることはかなり低いが、ないとは言えない。
 その危険性がどれほどか、人間は知っているようで知らない。だからだろう、困ったような表情をしながら、山南が口を開いた。


「霞原君にもいろいろ聞きたいことはあるのですがね」

「こればかりは、千姫様が折れることはございません。霞原の性質上、そうしなければならない案件です」

「……霞原が鬼だってのは分かったが、さっきのは何だ? 鬼ってのはみんなああなのか?」


 ああ、とは。髪の色や角に関しては、ほかの鬼の一族も同じだ。だが、そんなことをわざわざ人間風情に告げる理由もなく、どこか不快そうな表情で二人は新選組の面々を見つめる。
 そんな彼らの言葉に、沖田が悠日を見つめながら補足する。


「……さっき、悠日ちゃんが君の血を飲んでたでしょ。そのことだよ」


 かなり異様な光景だった。化け物、としか言いようのないその様子は、羅刹の様子を見ている新選組の者たちでさえおぞましいと感じるほどに。
 鬼ですら同じ感想を持つだろう。
 知っていた千姫も、戦慄の表情を浮かべていたのを思い出す。


「……鬼の中で唯一、その可能性があるのは姫の一族だけだ。私も、ましてや千姫様や千鶴様含め他の鬼の一族はそんなことはない」

「霞原だけってことか」

「そうなるな」


 人も鬼も関係ない。足りない力を補うための『血』ならば何でもいいのだ。だが、沖田に牙を立てたとなれば、悠日の心の傷はあまりにも大きくなる。それでなくても体の弱っている彼から血を取ればどうなるかなど想像に難くない。

 霞原の傍系の血を引き、その血に治癒の力を持つ牡丹の血の方が治りも早くなる上、牡丹自身も鬼だ。人間ほどやわではない。悠日が気にはするだろうが、役目だと言えば彼女もひどく気にはしなくなるのは分かっていた。
 疲れた表情で息をつく牡丹に、横の菊が気遣うように覗き込んだ。


「牡丹、あなたもあまり無理は……」

「八瀬に帰ったら、休ませてもらう。だが、今はまだ気が抜けない。……問題ない」

「あなたも相変わらず、頑固ですね。……そうでなければ、霞原の姫様方の護衛はできませんか」


 菊よりも幾分か幼さを感じられるのに、牡丹が大人びた虚勢を張るのもそれゆえだろう。
 香の影響で体もつらいだろうに、それを感じさせないのは牡丹の矜持からくる気力のたまものだ。
 眠る主を見つめる牡丹に、菊は呆れと称賛を籠めて小さく息をついた。

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