第十二花 十五夜草

 千鶴と千姫が千鶴の部屋へ向かってから、長いこと沈黙が降りていた。
 誰かが話すわけでもなく、ただただ静かに時が過ぎていく。

 そんな中、ふと腕の中のその人が動いたのを察して、牡丹が主へと目を向ける。

 ゆるゆると開いた瞼の間から、薄紫の瞳が覗く。
 焦点がうまく合わないらしいその目は、すぐに瞼の奥へと消える。
 だが意識は浮上したままのようで、かすれた声が乾いた唇から漏れた。


「……た……ん……?」

「はい、ここに、姫様」


 呼ばれた名に牡丹が応じる。鬼の気配に聡い悠日は、目を閉じていようと鬼の気配を察するのはたやすい。香の影響と体力からかなり鈍っているようだが、同じ霞原の一族だからか、牡丹の気配だけは明確に察していたらしい。その気配と声にほっと息をついた悠日は、荒い息の中でいま問うべきことを尋ねる。


「ここ、は……」

「……西本願寺は新選組の屯所です」

「……あれから、いかほど」

「あれから、とは……」

「……御所、の……」

「……半年以上、経っております」


 それを聞いて、悠日は再び目を開けた。うっすらと開いた瞼から覗いた瞳に映るのは、悲しさとやるせなさだ。

 最後にした約束だった。守るつもりでいたのに。


「じゃあ……煕宮
[ひろのみや]
さんは……身罷ったの、ね……」

「……姫様」

「……何事もなければ……間に合った、のに……」


 何者かによって眠さられた後、何があったのかはほとんど覚えていない。

 うっすらとした意識の中で見えたのは格子戸。耳に残っているのは聞き覚えのある彼の――薫の声。

 ほとんど意識のなかった悠日には、それ以上のことは記憶に残っていない。

 先程よりも前のことは。
 先ほど自分が誰に何をしたのか、はっきり覚えている。自分の意思ではなくとも、本能が求めたもの。
 最初に牙を向けようとした彼から離してくれたのはきっと、牡丹の配慮のおかげだ。そしてその結果傷つけてしまった。その傷口を見やり、悠日はただでさえつらさからこしらえている眉間のしわを痛ましそうに深くした。


「ぼた、ん……傷、は……」

「大事ありません。それ以上はお控えください。無理が過ぎます」


 何を言いたいのか、牡丹は的確に理解したうえでそう口にする。そんなことを気にしなくとも、と言いたいのだろうが、それを言えば悠日が余計に気にすることまで理解しているような瞳に、悠日は小さく息をつく。
 そんな牡丹の横から、落ち着いた声音がそれに賛同の言葉を向ける。


「牡丹の言うとおりです、悠姫様」

「……お菊……?」

「はい、千姫様もおいでです。今は雪村の姫と共に席を外していらっしゃいます」


 雪村の姫とは千鶴のことだろう。席をはずしている、とは一体どういうことか。と言うよりも、そもそもどうして自分が新選組の屯所にいるのか、そこから分からない。そんな悠日の様子を察し、牡丹が今の状況を簡単に伝える。


「かのお方のもとから、ようやく逃げ出す機会ができましたので。ここへ来たのは、千姫様が偶然いらっしゃったからです」

「姫様は風間に付け狙われる雪村の姫の身を案じて、その保護のためにこちらに赴かれました」

「……千鶴ちゃんに……鬼の自覚は、ないのに……?」

「……ご存じだったのですか、悠姫様」

「風間と対峙された際、鬼という言葉に疑問を抱いていたというから、間違いないだろう。……雪村の姓と血筋を継いでいるのは千鶴様のみ。人の世にいてそれを守るのも、霞原の役目と考えていらしたからな」


 千鶴が人として生活していけるならそれに越したことはないと、悠日は思っていた。だからこそ、風間の執着がいずれ落ち着くのを見越して傍についていたのだ。落ち着くまでの間、かどわかされないよう守るために。だが、千姫がここに来たということは、落ち着く兆しは未だにないということだろう。もしくは、悠日がここを離れている間に何かしら悪い方向へ変わってしまったのかもしれない。

 なんにせよ、千姫がそう考えたということは、あまりいい兆しではない。そして、いまの悠日に千鶴を守るだけの力は残っていない。

 ならば、霞原の血を継ぐ者として今の悠日がしなければならないことは、ひとつ。


「……八瀬へ」

「無論、そのつもりです。それより姫、それ以上お話になるのであれば、私も容赦はいたしませんよ」

「だい、じょう……」

「大丈夫なわけがございません! 先ほどの今で回復されるほどの体力など残ってはいらっしゃいませ……っ」


 感情が高ぶった影響か、牡丹の目の前が一瞬暗くなる。
 傾きかけたのをなんとか自力でこらえた牡丹の体を、隣の菊が支える。


「牡丹、それはあなたも同じでしょう」

「問題ない。――姫」


 早く休んでください、と目が訴えている。だが、悠日はそれにゆるゆると首を振る。


「……璃鞘が、促した。……なら、きっと……目を覚まさなければ……いけないような、事象が……あったのでしょう……?」

「……御心配には及びません、どうぞ完全に回復されるまでは、お眠りください」

「……でも……」


 ゆっくりと、視線だけが新選組の面々の方へ向かった。

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