第十二花 十五夜草

 三つの影を追い払ったのは、先ほどまでお千の横にいた女性だった。
 牡丹が膝をついたのとほぼ同時に飛び出し、今は追手三人から二人を庇うように短刀を構えている。


「この方に何用か。……事と次第によっては、今この場で処罰する必要が出てくるが、いかに?」

「な……なぜこんなところに、八瀬の……!」


 護衛役の女性と部屋の中にいるお千。その二つの姿を見て、追手達は戦慄の表情を見せる。
 静かに問うた言葉への返答が見られないことを認識したのと、それがどこの手の者か理解したお千がすっと目を細めた。


「あなた達は……そう、そう言うことだったの。――主に伝えなさい。悠日の身は私が預かる。二度と手出しすることはまかりならない、と」

「っ……行くぞ!」


 凛と言い放ったお千の言葉は、彼らにとっては逆らいようのないものだ。悔し気に眉を寄せ、追手達はすごすごと身を引いた。闇に溶けるように姿が消える。
 それを見届けて、お千は牡丹が抱えている悠日へ駆け寄った。


「悠日! 悠日、しっかり……」

「しばらくは無理です、千姫様。先ほど脱出するときに、残りのお力すべて消耗されたご様子。その上、あまりに血が足りなさすぎます。……人の世にいては、いずれ箍が外れかねません」


 土気色をした顔は随分と苦し気で、呼吸もかなり不安定だ。
 眉間によった皺から、悠日の苦しみの程度が伺える。ところどころどす黒い赤に染まった衣と未だ滴る腕の血がそれに輪をかけた。

 白銀の髪と額から生えた角。人の姿と違っているのは一目瞭然で、新選組の面々もそれを見て随分と驚いた様子を見せている。


「この姿になることなんて滅多に無いものね……。ましてや霞原の頭領が……」

「ようやく隙ができてのこの状況です。……千姫様がここにいらしたことは幸いでした」


 状況を説明する牡丹も、悠日ほどではないものの顔色は悪い。無理に体を動かした反動で少し息の荒い牡丹からの微かな、そしてその腕の中で動かない悠日からの強い移り香を聞いて、お千は目を見開いた。


「この香は……!」

「おそらく、千姫様もご存知の『橋流し』です」

「こんなもの、各頭領家にしか伝わってないはずよ……。それに、この子が何をしたわけでもないでしょう。こんなこと、あってはならないわ」


 鬼の間では名の知れた香の名前だが、その名を耳にすることはそうそう無い。霞原のみ――宇治の橋姫と呼ばれる霞原家頭領を抑え込むためだけに作られた香を使うことは、これまでの鬼の歴史の中でも殆ど無い。霞原にはその脅威しか伝わっていないために、悠日がその香りを知らないのは当然でもある。

 そんな香の名をこんなところで聞くとは思ってもみなかったため、お千の驚きもまたもっともだ。


「これさえなければ、早々に抜け出すことはできたのですが……っ」


 不意に意識が遠のきかけて、牡丹の体が傾いた。
 倒れ込む前にそれを支えてくれた者を、牡丹は小さく息をついてから見上げる。


「しっかりなさい、とは言いたいですが、その香の影響では仕方ないですね。あなたとて霞原の一族なのですから」

「申し訳ない、菊……」


 ホッとしたのとまだ香の影響が残っているためだろう。それが分かっているお千の護衛役の女性――菊が、牡丹の腕の中にいた悠日の身柄を預かる。


「悠日ちゃん……」

「来るな、沖田! 今の姫にお前は……」


 いつもと違う鋭い、そしてどこか切迫した静止の声に、沖田は思わず足を止めた。だが、時既に遅しだったことを、次の瞬間に牡丹は察する。

 悠日が瞼を震わせ、その姿を視認した瞬間、悠日はふわりと立ち上がった。

 先ほどまでそこに倒れていた人物とは思えない軽い動作に、新選組の面々――沖田以外の面々は思わず警戒の色をみせる。

 そんな彼らと同調するかのように、牡丹が半ば麻痺しているような体を叱咤させて立ち上がった。


「っ、姫、なりません!」


 ゆらりゆらりと歩を進める悠日へ向けて牡丹が手を伸ばす。今にも倒れそうなその姿なのに、どこか異質なものを感じさせ、沖田は無意識に足を後ろに引いていた。

 そんな沖田に、悠日が触れた。
 そして半ば倒れこむように沖田の腕の中に納まると、悠日は体から力を抜いた。

 ふっと、異質な気配が消えて沖田は自分が緊張していたことにようやく気づく。

 すっぽりと収まった華奢な体。血に染まった白い衣を見て、沖田が守れなかったと歯噛みした様子でその体を掻き抱く。


「早く姫から離れろ、沖田!」


 常のものとは違う尋常でない響きの言葉に、沖田は腕の中にいる悠日へと目を向けた。

 倒れ込んだ悠日が、恍惚とした表情で沖田を見上げている。

 その瞳は。


「赤い、目……。悠日ちゃん?」


 その色は、彼もよく知る【彼ら】のそれと似通った色だった。にこりと微笑むと、悠日は沖田の首へと手を伸ばす。

 だが、その手が沖田の首に回る前に牡丹がその体を引っ張った。


「姫様!」


 そのまま、何かを促すように牡丹が悠日の体を向き合うように抱きしめる。
 肩口に乗った悠日の頭。ざわり、と風が不穏に動いた時、ぶつりという音が部屋の中に響いた。


「牡丹……!」


 焦る様子を見せるお千に手を上げることで大丈夫だということを示し、牡丹はあやすように悠日の背を何度も叩いた。
 牡丹の首筋をうがった、悠日の鋭い牙。
 その首筋から流れ出る赤い血を、悠日はまるですするように口に含んでいく。

 あまりに異様な光景に千鶴が悲鳴を上げる。それを傍目に、痛みをこらえつつも牡丹は悠日を落ち着かせようと何度も何度も、その背をゆっくりと叩く。

 どれほどそうしていたか。牡丹から流れる血が止まるのとほぼ同時に、悠日の髪が白銀から桜色へと戻り、額に生えていた角が消えた。そのまま悠日の体が牡丹にもたれかかる形でくずおれた。
 すべてを預けるように気を失った悠日を見ながら、牡丹は自身の首筋へと手をやる。


「牡丹、大丈夫……?」

「ご心配なく、千姫様。これも、役目ですので。……この程度の傷であれば、二、三日あれば消えますし」


 血は既に止まっている。
 その辺りは鬼の体質が随分と便利だと思ったりする。

 小さく息をつき、悠日の口元についた血を拭うと、牡丹は数ヶ月前にこの新選組の屯所から回収した瑠璃の珠四つを懐から取り出した。悠日のところへ戻らなかった、と薫に告げた珠。事実、戻せなかった。

 悠日の意識がずっと沈んでいたこともあるだろうが、理由はそれだけではないだろう。

 ――核となる水晶の一つが、悠日の傍を離れていたからだ。

 そんなことを考えていた牡丹は、瑠璃へと向けられていたその視線を、状況を理解しきれていない様子の沖田へと移した。


「……まさか、悠日ちゃんも……。それに君も、傷が……」

「私達を羅刹と同じにするなよ。……とはいえ、今は説明している時間が惜しい。――沖田、お前の懐にある璃鞘を返せ」

「璃鞘って……」

「水晶玉、持っているだろう。……姫が、囚われる直前にお前に向けて送ったらしい璃鞘の一部だ。それさえあれば完全に抑え込める」


 牡丹からの説明を受けて、沖田は何のことかと合点が行った様子でそれを懐から取り出した。

 透明な水晶玉。袋に入れて大切に持っていたそれが、不意に浮き上がって悠日の首にかかる首飾りへと戻っていく。牡丹が手にしていた四つの瑠璃も、引かれるようにその一連へと戻っていった。
 一連の首飾りへと戻った瞬間、強い紫の光を発したそれが悠日を包み込んだ。
 部屋をも飲み込む勢いで広がったその光が消えるころには、悠日の髪は、普通の人のそれと変わりない黒へと変化していた。目に見えないが閉じられた瞼の奥の瞳も同じように変化しているはずだ。
 先程よりもよほど苦しそうな表情をしているが、牡丹はそれを少し申し訳なさそうに見つめただけで何かしようとする様子はない。

 お千や菊が少し青い顔でいたが、その理由が分かっている牡丹は申し訳なく思った。牡丹自身も例の香を嗅いだ時の感覚に似たものを感じていて、正直いい気分ではない。

 そんな牡丹に、沖田が声を掛けた。


「……悠日ちゃんに、何をしたの?」

「姫の鬼としての力は強すぎる。今のあの状態では特にな。……だから、それを抑え込んだ」

「鬼、ね……」


 悠日の姿が普段のそれに戻ったことを受けて、それまで緊張していた面持ちだったお千や菊も息をついた。
 悠日へ近づき、未だ塞がらない左手首の傷に手ぬぐいを巻いていく。
 今ここではそれしかできないし、それで十分なのは牡丹もお千達も分かっている。

 彼女達が何故そこまで緊迫していたのかは分からないが、それでも悠日の様子が予断を許さない様子なのは新選組の面々にもなんとなく分かった。

 それでもそれ以外のことが腑に落ちない、と言った風情の沖田だが、牡丹はそれに気づきつつ腕の中の主へと目をやった。


「牡丹、悠姫様は……」

「しばらくは、目を覚まされない。これだけの負担は、紫苑の方であってもあまりに大きすぎる」


 牡丹は、未だに苦悶の表情で眠る悠日の身を大切そうに抱えた。
 牡丹の血を飲んだこともあり、回復は早いだろうが、それでもどれほどかかるかは見当がつかない。

 普通の鬼に対して用いる場合とは違い、霞原の頭領は璃鞘で抑え込まれたら最後、その必要がなくなるまで目覚めない。

 璃鞘は鬼の力を封じるための数珠のようなもの。ほかの鬼だけでなく自身の鬼としての力をも完全に押さえ込める霞原の頭領だからこそ璃鞘を扱えるが、逆を言えば、鬼としての力を完全に開放すれば霞原の頭領であっても璃鞘の影響を受けるということだ。
 だからこそ、霞原の頭領が鬼本来の姿を取ることはそうそう無いのだが。

 そんな璃鞘によって強制的に抑えられている状況の悠日がいつ目覚めるのかは分からない。それでも、人と鬼双方の世の秩序のために必要な措置なのは、牡丹も、抑えられている悠日自身も理解している。それに否を唱えることはこれまでもこれからもないだろう。

 霞原の血は鬼にとって脅威となりうる可能性を持っている。そんな理由から、こうして数多の抑えが用意されているのだ。香然り、璃鞘然り。――いつの世も、霞原の一族は生きづらい。
 これでも、彼方の昔よりはずっと良くなった方らしいが。

 数代前の八瀬姫がそれをなしてくれたのだそうだから、感謝せねばなるまい。

 そんなことを考えて、牡丹はいま目の前にいる当代を見つめた。


「して、千姫様は何故ここへ……」

「今の状況が状況だから、ね。悠日がその手の輩に攫われたのだと思っていたこともあって。手を尽くして探してはいたのだけど見つからないし、風間の千鶴ちゃんへの接触はひどくなるばかりだし。だからせめて彼女だけでもと思って、千鶴ちゃんを迎えに来たのだけど……」

「その話をしようとした矢先に、あなた達が。……まだ危ういですが、生きていらしてよかった」


 二人の言葉を聞いて、話の腰を折ったことを理解し、牡丹は少しだけ頭を下げる。
 とはいえ背に腹は変えられない状況だった。お千もそれを理解しているため咎める風情はない。
 油断はできないが一人ではないのだ。そこで牡丹はようやく部屋の中の隅々へ視線を向ける余裕ができ、そこにいた一名を見て悠日を抱える腕の力を強めた。

 そこには羅刹になった山南の姿があった。血が血であることに変わりはないからその血で狂うことはもちろんあるのだ。

 悠日の血は止まったし、牡丹の血もしかり。だが、当てられる可能性は十分にあったはずだ。
 それにもかかわらず彼がその血で酔った様子が見受けられないのだ。
 襲いかかる様子も急変する様子も見受けられない。

 なぜかと考えた後、先ほど璃鞘が発した光が原因だと合点が行く。あの力は、まがい物であれ鬼である羅刹を抑えることができるのだ。だからこそ悠日は璃鞘を媒介に山南の暴走を抑えていたのだから。

 少なくとも悠日へ大きな危害が及ぶ状況にはならないことを理解し、牡丹はようやく肩から力を抜いた。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -