第十二花 十五夜草
追手がかかることくらい承知の上だった。
それでも、あの場所から悠日を連れだす機会はきっと今しかない。
それが分かったから、牡丹はすぐさま悠日を抱えてあの東屋を出た。
闇の中をまぎれるように逃げるのがやっとで、なかなか進まないのが大層難儀だ。
香の影響が残っていることも大きいのだろう。まだ意識が靄の中にあるような、そんな感覚がある。足がもつれそうになる中、それでも諦める風情がないのは、牡丹の護衛としての矜持ゆえだ。
距離はあるものの、ほんの少しずつ差が詰められているのが分かる。
追手は三人。振り切れるかと不安に思っていると、不意に身近な気配を覚えて牡丹はそちらへ向けて強く地を蹴った。
自分の気のせいでなければ、その気配はあの方のものだ。
彼女が【そこ】にいるのは少々不可解ではあるし、仮に勘違いだった場合、更に事態がややこしくなる可能性はある。だが、牡丹は自身の感覚に賭けた。
彼女がいる場所以外に逃げ場所などないのだ。たとえそこが、悠日を敵視している者の集まりであったとしても。
後ろの追手とて、その方の前で安易なことはできないはずだし、かの地へ向かうよりもずっと近い。そう考え、牡丹は一路その気配のもとへと駆けた。
同時刻。
頭が冴えてなかなか寝付けずにいた千鶴は、土方に呼ばれて広間へと向かっていた。
客が来ているのだという。しかも、千鶴を目的とした客だ。
土方が通したということは見ず知らずの人物ではあるまい。
着替えてから土方について広間へ入ると、そこには幹部の面々が勢ぞろいしていた。
そして、そんな彼らが対峙している人物。
「千鶴ちゃん、お久し振りね」
「え……お千ちゃん!?」
以前、斎藤と巡察に行ったときに会った女の子だ。千鶴が女だとすぐさま気づいた彼女だが、そのことについてはちゃんと黙っていてくれているらしい。
そのあと原田とも会っていたため、おそらく原田が千鶴の知り合いだと伝えてくれたのだと察せられる。
だが、ただ町で出会ったというだけの彼女がなぜここにいるのか。
その上、忍び装束の女の人を引き連れて。
それが不思議で、千鶴は驚くほかない。
そんな千鶴の視線が隣の女性に向いているのを見てか、お千はにこりと笑って口を開く。
「彼女は私の連れ。護衛役みたいなものだと思ってくれればいいわ」
「護衛役? え、お千ちゃん、それってどういう……」
千鶴の言葉に、お千はにこりと笑うだけだ。
千鶴のお客、ということで、新選組の面々は千鶴とお千のやり取りを見守るだけにとどめていた。口を挟む問題でない、ということなのだろう。
ただ千鶴の立場が立場だから立ち会っている、そんな状況だろうと思われた。
小さく息をつき、先ほどの質問以上に聞きたいことを千鶴は口にした。
「……それで、お千ちゃんはどうしてここに?」
「千鶴ちゃんを迎えに来たのよ」
「迎え……それってどういう?」
戸惑ったのは千鶴だけではない。新選組の面々もまた、戸惑いの表情をお千へと向けていた。
「んー……まだ状況が理解できてない感じかしら? 大丈夫よ、心配しないで。私のこと信じて?」
「お千ちゃんのことを、疑ってるわけじゃないんだけど……」
千鶴は何が何やら、と言った風情だ。事実お千を疑っているわけではないのだが、どうしても何故という疑問が頭をもたげる。そんな千鶴の様子をうかがっていたお千の隣の女性が口を開いた。
「時間がありません。すぐに、ここを出る準備をして下さい。……あの方のように、手遅れだったということになる前に」
「ちょっと待ってください。どうして私が、あなた達と一緒に行く必要が……。それにあの方って……」
混乱した風情の千鶴に、お千は小さく息をついた。単刀直入に話を進めて事を早くおさめるつもりだったようだが、そうもいかないことが分かったらしい。
「……そうね。じゃあ、順を追って説明しましょうか」
お千がそう説明を始めようとした時だった。
風が激しくざわめく。その中にふと知った気配を感じて、お千ははっとした様子でそちらへと目を向けた。
それを待っていたかのように、ほぼ同時に月闇の向こうから現れたのは――。
「千姫様……!!」
聞き覚えのある声が響き、その気配を感じ取っていたお千とその護衛に続くように、全員がそちらを振り返る。
動く様子のない抱えられた少女の髪は、月が照らす闇夜に光る白銀の色。衣のところどころに散った朱の色が、とても鮮やかに映った。だれりと垂れた手首につながる鎖が、それまであった彼女の状況を物語っている。
それを抱えた少女もまた憔悴しきりの様子で、砂利の音を立てながら庭先に足をつく。だが、それが限界だったとでも言うように膝がくずれた。
倒れこむことは何とかこらえたその少女とその腕の中の人物めがけて、三つの影がとびかからんとした時。
「……っ悠日ちゃん!!」
それまでまったく口を開かずに黙っていた沖田が、叫ぶようにそこにいる少女の名を呼んだ。