第十二花 十五夜草

 伊東達を案内してきた南雲の者が膝をつき、その人へ向けて頭を垂れる。


「おかえりなさいませ、頭領。客人が予定より早くお着きになりましたのでこちらへ案内いたしました」

「うん、別にいいよ。勝手されないなら俺も気にしないし」


 隣の格子が空き、その中に誰かが入る気配がある。
 伊東達が来たのとは反対の方向からやってきたその人物。
 藤堂が信じられないと言った面持ちで、その人を見つめる。


「……え……千鶴……?」

「残念、違うよ。まあ、似てるのは否定しないけど」


 その人の声と南雲の者の反応、そして藤堂の呟きでその人物が誰かを察して、牡丹が口惜しそうに唇を噛みしめる。

 鯉口を切る音を耳にした牡丹は、まさかと思って目を見開いた。
 見ずとも分かる。彼が手にしている切っ先が悠日に向いているのだろうことが。

 起き上がって何かできるわけでもないが、それでも牡丹の矜持もあるのだろう、重い体をなんとか起こす。


「……何をなさるおつもりか、薫様……」

「そいつらが、悠日の力が欲しいっていうからさ。――何するかなんて、それだけ言えばお前にも分かるよね、牡丹?」

「昨日からのそれはあまりに……!」


 つい昨日、長州藩士が綱道を連れて悠日の血を採取しに来たばかりだ。傷の回復が前よりも遅くなっていることを嫌味のように薫から聞いたばかりで、それは悠日が弱ってきていることを証明していた。
 昨日の傷すら治りきっていないだろう状況で、それがあまりに危険なことを牡丹は知っている。いくら鬼とは言え、治癒が追いつかなければ死ぬのだ。

 意味がないと分かるのに、牡丹は悠日の部屋との境にある壁を叩いた。

 だが、牡丹の静止もむなしく、薫はその切っ先を悠日の体へ向けた。


「っうあああああっ!!」


 これまでよりもずっと悲痛な叫びがこだまする。
 抑える者がいないのか、悠日が痛みをこらえきれず暴れるたび、部屋の中にある申し訳程度の調度が倒れる音が聞こえた。


「お前、なにして……!」

「黙っててよ、部外者のくせに」

「部外者って……俺はそいつの」

「仲間だとかいうんだ? 姿を消した悠日を早々に敵として認識したのに? ――まあ、俺としてはそれが一番好都合だったことに変わりないけどね」


 むやみに探されるのも面倒だったのだ。新選組が悠日を敵と認識しても積極的な捜索に乗り出すことがなかったのは、薫にとって好都合だった。
 そんな薫の言葉が事実だったこともあり、藤堂は口を閉ざしてしまう。
 そんな藤堂の横で、淡々とした風情でそれを見る斎藤は、少し眉をひそめた程度で何かを口にする様子はない。


「さてと。これくらいでいいだろ」

「ありがたいですわねぇ。死者ですら蘇らせるとまで言われる噂の回復薬。霞原の姫の血以上の万能薬はないという話ですもの。戦になった折にはぜひ」


 使わせていただきますわ、と続けるつもりだったのだろう。
 だが、皆まで言う前に、伊東は唐突にその場から弾き飛ばされた。
 伊東だけではない。藤堂も斎藤も、部屋の中にいた薫ですら、勢いよく外へとはじかれた。

 大きな嵐が吹き荒れるかのような音。ぱりん、と何かが砕けた音が微かに響いたが、それすらすさまじい轟音に巻き込まれて消えていく。

 まるで何かが爆ぜたように格子が内側から壊れ、部屋を遮る壁すらも突き破り、悠日達を戒めていた香炉は敷地の端まで飛ばされていた。

 ほんの一瞬異質な気配を感じて本能で体を引いた牡丹は、吹き飛ぶことなく残った壁の影にいたため風圧に飛ばされず先ほどまでと大差ない場所にいる。

 吹き抜けた壁の向こう。止め金ごと引き抜いたのだろう鎖がじゃらりと音を立てた。


「……姫様……」


 東屋が全壊しなかったのは奇跡としか言いようがないほどの崩れようだ。ぎしぎしときしむ屋根の下、ゆらりと起き上がった主を見て牡丹が呆然と呟く。

 遠くを見つめる金の瞳。闇に光る白銀の髪。額から小さな角が二本生えているその姿を見て、何が起きたのかすべてを察した。

 ぽたぽたと、先ほど薫につけられたのだろう左腕の傷口から血が滴る。

 真っ先に動いたのは牡丹だ。
 壁を抜けて起き上がった主へ近づくと、その体を抱えて勢いよく床を蹴る。

 月夜の下、地を蹴って三月ぶりに出た東屋の外。
 ぼうっとした瞳が力無く閉じられ、体にかかる重さが増したことから、悠日が再び気を失ったことを察する。

 そんな悠日の姿を見て、牡丹は悔しげに眉を寄せた。

 満身創痍の体でよくこれだけの力を出せたものだと、普通の鬼であればそう言うだろう。これだけ痛めつけられていた場合、普通の鬼は抗うこともできず力尽きる。

 だが、今の悠日の状態は、それとは少し異なっていた。灯滅せんとして光り増す、という言葉がある。その燃え尽きる前の灯火に近い状態だ。

 これ以上傷つけばいずれ自身の限界を超えることを、無意識下に悠日も察していた。
 そして、逃げなければという思いから力を開放したのだ。力が他人に渡ることを何よりも恐れる霞原一族特有の本能とでも言うべきか。

 だが、このまま放置すれば、そしてもう一度この状態で血を搾取されれば、いずれ命の灯火が消えるのは間違いない。

 兎にも角にも、逃げなければ。

 そんな思いで駆ける牡丹の背を呆然と見つめていた薫が、はっと我に返った様子で立ち上がり、牡丹が向かった方向を見ながらどこへとも知れない場所へ向けて命を出す。


「追え」


 南雲家の従者達数名がどこからともなく現れ、牡丹の後を追った。
 動けない悠日を引き連れた状態ではじきに追いついて連れ帰ると、薫はそう算段づいていた。香の効力そのものも切れてはいないだろうから、牡丹も満足には動けないはずだ。


「……逃げ足だけは早いけど、この状況で逃げ切れると思うのは間違いだよ、牡丹?」


 暗い笑顔を浮かべた薫に、伊東が全身を打った痛みをこらえながら起き上がる。


「何が起きましたの……」

「悠日が、最後の抗いを見せたってところかな。とりあえず、今日は引き取ってくれる? こんな状況じゃ、渡すに渡せないし」


 渡そうと思ったものは壊れちゃったし。そう口にしながら、砕けた硝子瓶に目をやる。

 悠日の血が入った瓶は、先ほどの衝撃で割れてしまった。あちこちに散ってしまったその中身を集められるはずもなく、また改めて取りにきてもらうしかない。


「分かりましたわ。さ、藤堂君、斎藤君。行きますわよ」

「ちょっと待てよ伊東さん! なんで悠日が……」

「あの子は人ではありませんもの。鬼に向ける情がありまして?」

「そういう問題じゃ……」

「私達の志を達成するためにはどうしても必要なものですのよ。察してくださいますわよね」

「けど、あいつの血が何で……!」

「いざ戦となった時、傷病兵ばかりが増える状況になった場合、勝てる戦も勝てませんでしょう? あの方の血は、それを瞬時に治す薬でもあるのですもの。持っていて損はなくってよ」


 次来る時が楽しみですわ、と嬉々として帰る準備をする伊東に、藤堂は納得がいかないという風情の表情をする。
 何が正しいのか分からないと、そんな様子だ。

 そんな藤堂と伊東のやり取りを淡々と見つめていた斎藤に、ふと気づいた伊東が振り返って尋ねる。


「あなたはあまり狼狽していらっしゃいませんのね、斎藤さん」

「悠日は新選組を裏切った身だ。……どうなっていようと、俺が心配する必要性はあるまい」

「ちょっ……一君!」


 淡々とそう口にした斎藤に、伊東ですら驚いた様子を示す。
 藤堂はかなり悔しそうな表情でうつむいていたが、伊東に促されて東屋を後にした。

 そんな彼らを見送ってから、薫は外から東屋へと視線を向ける。


「……さて」


 格子も壁も壊され、今の状態では檻とするどころか東屋が家屋として機能するかどうか自体が危うい。
 きしむそれは、何かしら衝撃を与えれば今にも崩れそうだ。


「やってくれたね、悠日……」


 人のほとんどが寝静まるような刻限。空では月影が空に映え、星がそんな月の光に負けまいと瞬いているのが見える。
 突然の出来事であるのに、薫は悠日の精一杯の抗いが面白く映ったのか、空を仰ぐその顔には楽しげな笑みが浮かんでいた。


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