第十二花 十五夜草

 結局逃げだす機会がつかめず、桜が散って青葉光る夏へ入ってしまった。

 新選組が二つに分断されてから三月[みつき]あまり。それから後の新選組や彼らを取り巻く情勢がどうなっているのか、牡丹は知らないでいた。
 牡丹自身も部屋に籠められたまま外へ出されない日が続いているからだ。

 あの数日後、霞原の一族の生き残りがいることを幕府側がようやく知ったらしい。状況が状況だからか、今度は力を貸すよう要請するつもりなのだそうだ。
 一つの一族を消しておいて随分と都合の良いことだ。
 話を聞いた牡丹の怒りは相当だったのだが、それが冷めやらぬうちに牢の中へと放り込まれた。
 向こう側が牡丹の顔を見知っている可能性も否めないからだろう。


 十年近く前、悠日が江戸へ行った折のことだ。
 長らく彼岸が――牡丹の母が帰って来なかった時があった。あの間、彼岸は幕府側に捕らわれていたのだ。鬼の仲間意識の強さを理解した上でだろう、頭領家の鬼を誘い出すための質にしようとしたらしい。

 牡丹の一族にも治癒の力があることは人側には知られていないらしく、その血を使うことはなかったようだったが、それでもそれが知れた場合、頭領家の者を守るどころではなくなってしまう。

 それを知って、牡丹は何とか策を講じて彼岸を救い出しに行ったのだ。警備の厳重な江戸城内だったが、鬼にとってそれが容易いものだとあちらが知らなかったこともあって彼岸の救出は難しいことではなかった。暗がりでのことなのであちら側がしっかり覚えているかは定かでないが、牡丹の顔が幕府側に割れている可能性は大いにある。

 それを知ってか知らずか、その情報が入ってすぐ、薫は駒が減らないように、そして悠日の居所が幕府側に知られないように牡丹を押し込めたのである。
 そのせいで牡丹は外の情勢を知るすべをなくし、こうしておとなしく押し込められているしかなかった。

 隣は悠日が籠められている部屋なのだが、壁で隔てられた隣の部屋で悠日が何度も血を搾取されている状況を見ることも叶わず、今自分の主がどんな様子かということすらこの目で確認できずにいる。

 その上、ここ最近は随分と頻繁に血をとりにやってくるのが気に障って仕方がない。


 傍系である分、牡丹の持つ治癒の力は頭領である悠日とは比べるべくもない。そのため、薫が牡丹の血を搾取することはなかった。
 もしかすると、彼が欲しているのがそちらの力の方ではない可能性もある。鬼を持って鬼を制す。――悠日が引く鬼を抑える力の血の方が、おそらく変若水の改良に影響しているのではないか。霞原の頭領の血にそんな力があるとは聞いたことはないのでただの憶測だが、そんなことに考え至ったのはここ最近だ。

 これが本当に前者であるなら自分の血を使えばいいと口にすることも可能だが、そうなった場合悠日を救い出す術もなくなってしまう。

 自分が傷つくことは構わないし、悠日の身代わりになる必要があるなら快く申し出るだろう。だが、悠日の味方が誰一人としていない以上、ここで自分も倒れてしまっては悠日は独りになってしまうのだ。それでは何のための護衛か。
 機会を窺って半年近くたつ。護衛としての役割すら真っ当にこなせない自分が腹立たしく、矛盾した自分の考えが拍車をかけて、ここ最近は怒りを覚えるばかりの日々だ。

 そんな状況下で今日は来客があるという話を薫から聞いた事を思い出し、またかと思って牡丹は歯噛みする。長州側の者か土佐側の者か。それともそれとはまた別の人物なのか。
 なんにせよ、いい予感は全くしない。

 むしろその来客自体が消えればいいなどと物騒なことを考えていると、足音が聞こえて牡丹は思わず身構えた。

 話し声が聞こえる。ぼそぼそという小声ではあるが、その声の主が誰かを察し、牡丹は我知らず震え上がった。

 聞き覚えのある声だ。その上、いい印象のない声。

 案内してきたのが薫ではない南雲家の者だったことをいぶかしんでいると、その後ろから顔を見知った人物が現れた。


「あら……このお姫様は、かようなところにいらっしゃったの。道理で見つからないはずですわね」


 特徴のある甲高い声。本当に剣豪なのかと疑いたくなるその物腰は、いざ戦闘となるとそれを感じさせないものになることを牡丹は知っている。


「伊東……!」

「あらあら、従者の方もいらっしゃったのね。そのようにまなじりを釣り上げていては、美しい顔が台無しでしてよ?」


 くすくすと笑う伊東の言葉は、牡丹の怒気に火をつけた。
 傍らの短刀を向けようと手を伸ばしかけた時、不意に部屋へ漂ってきた香の香りに目の前がかすむ。


「なりませんぞ。……と言っても、これがあっては手も足も出せますまいが」


 伊東を案内してきた南雲の者が、手にした扇子で部屋の入口付近にある香炉をあおっている。煙が風に乗って部屋の中に入ってくるために、今まさに動こうとした体の力が一気に抜けた。
 体を支えきれずそのまま倒れこんでしまう。

 この香さえなければ動けるものを、と思う。霞原の血を引く者にだけ効くこの香は、本来鬼の最後の砦のはずだった。
 人の側に立った霞原が道を外したとき、それを抑える鬼の術の一つ。それをこうも悪用されてはこちらも腹立たしいことこの上ない。

 おとなしくなったことを見計らって仰ぐのをやめた南雲の者の後ろから、もう二つ見知った気配が近づいてきたのを察して、牡丹はそちらへ首を巡らせた。


「……なん、で……」

「霞原……このようなところにいたのか……」


 伊東とは別のよく知った声。それは、かつて新選組の屯所にいたときによく耳にしていたものと同じだった。


「藤堂……斎藤……」


 伊東がいるのであれば、その可能性がないことはないと分かっていた。伊東派が御陵衛士とした分離した際、この二人が伊東についてそちら側へとついたことを牡丹も知っていたからだ。
 だが、まさか本当に連れてきているなどとは思わず、牡丹は驚いた様子で二人を見つめる。

 そんな牡丹とその隣の部屋の悠日の姿を認め、藤堂が南雲の従者を振り返る。


「なんでここに悠日がいるんだよ! しかもあの血は……」


 人であればいつ死んでもおかしくないような、それほどの出血だ。
 ここへ来てからこっち、悠日は数えられる程度ではあるものの何度か着替えさせられた。それでもなお多く感じる着物に染みこんだ血は乾ききっていて、白いその色をどす黒い赤に染めている。

 それを見れば、これまでにどれほどの出血があったかは容易に想像がつく。藤堂の言葉はある意味もっともだろう。

 そんな彼に、南雲の従者は淡々と返した。


「霞原の者にあの程度の傷、問題ございません。まだ生きておりますので、安心されればいい」


 その言葉に情は欠片もない。仮に死したとしても関係ないと、あまり感情の見えないその瞳が告げている。それが藤堂の怒りに拍車をかけた。


「けど! ……お前も、主がこんなことになってていいと思ってんのか、牡丹!?」


 藤堂からそう尋ねられて、牡丹は返す言葉が見つからなかった。

 いいはずがない。許すつもりもないし、自由さえきけばここから主をすぐに連れ出したいくらいなのに。

 だが、ままならないことも分かっているのだ。やるせなさから、そんな彼へ冷めた視線を向ける。潜めた怒りが含まれたそれのあまりの冷たさに、藤堂は思わず口をつぐんだ。

 そんな藤堂から、牡丹は伊東へと目を移す。氷のように冷たいその視線をゆうゆうと流し、伊東は微笑を浮かべてみせる。


「……姫に、何用だ」

「霞原の姫の有用性について議論が起きておりましてね。……まずは、今どのような状況になっているのか、それを確かめたく思いましたの」


 人を人と思っていないその言葉。鬼である以上、事実人ではないのであながち間違っていないのだが、それをこれまでに何度耳にしただろうか。
 一族が滅びたあの日、屠ったその血を払いながら刺客達が口にしていた言葉に含まれていた思いと大差ない。


「貴様ら人は、これ以上に姫の命を削るつもりか!?」

「まあ、ひどいことをおっしゃる。そのお力を貸していただければ、私達人の戦も楽になるではありませんか。そのための力添えと考えることはできませんの?」

「姫の血は、貴様のような者達に使うようなものではない!」

「肝心の帝の御命も守れなかった方が、よくそのようなことを口にできますわね」


 すべてを知っているといった風情で、伊東がそう言ってほくそ笑む。そんな伊東の様子を、藤堂は信じられないといった面持ちで見つめている。

 鬼であれ人であれ一つの命なのに代わりはない。だが、こういう輩がいるから、鬼の一族は――その中でも特に霞原は、その存在を隠さずにいられなかったのだ。
 利用価値のあるものを認識した人の欲は、いつの世も脅威でしかない。


「鬼と人が相容れるため、こういう形で道が見つかるのであればよいではありませんか」

「……本当に、お前達人は汚らわしいな」


 ぽつりと、それでいて大きく響いたその言葉。静かに発された分、怒りが強く込められているような、そんな響きを秘めている。

 汚物を見るような目が伊東を射抜いた。


「なんですって?」

「自己の正当性を主張するだけで、こちらの事情などお構いなしだろう。いつの時代も、我ら一族は貴様ら人の思惑に左右される。かなたの昔の約定さえなければ、人の世などとうに捨てている!」


 まだ満足に動けるほどではないのだろう。それでも、牡丹は肩を怒らせてそう強く言い放った。

 伊東が忌々しげに牡丹を睨んでいた時、静かに足音を立てながら誰かが近づいてきた。


「そんなこと言っていいのかな、牡丹。……まあ、俺としても、そのほんの一部に賛成したいのは事実なんだけどさ」


 怒りが頂点に達した牡丹と伊東との掛け合いに、静かに声が落とされた。


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