第十二花 十五夜草
護摩の香のような香りが充満する部屋。
格子で区切られたそこはもはや檻とも言っていい。視界が不明瞭なその中にいるその人物へ、音もなくやって来たその人物は暗い笑みをたたえながら話しかけた。
「……今日はさ、街に出かけたんだけど、会ったよ、あの二人に」
その言葉に反応はない。それでもその人物は、気にした風もなく話を続ける。
「三条大橋の制札の件で質問されてね。まあ、俺の顔を見たら訊きにくるんだろうなとは思ったんだけど。本当にそういうところはまっすぐだよね、千鶴って」
ふふふと笑う中性的な面差し。感心した風にも呆れた風にも取れるそれは、先ほど会った二人へ向けていた微笑みよりもずっとらしい表情だ。
「お前がここにいるなんて知らないでいる二人を見るのはとっても愉快だったよ。ねぇ、悠日?」
格子にかけられた鍵を開け、ぎぃと不気味な音を立てながらその中へ入る。
香の匂いにまぎれて、床に散っているものの匂いが鼻をつく。だがそれを気にすることなく、その人――薫はその顔に触れた。
「ずっと逃げて逃げて、その上で捕まった気分ていうのはどんな風なんだろうね? と言っても、今のお前に答えられるはずもないけど」
煙が充満するように揺蕩う部屋の中。鎖につながれたその手足が動く気配はない。
紫苑色のうつろな瞳には光がなく、知らない人間が見たら生きているのか死んでいるのか分からないような風情だ。
「これでも死なないっていうのは、さすがに鬼の一族なんだろうけど……。まあ、死なれちゃ困るっていうのはお互い一致してることだけど、人間ってこういうこと平気でする生き物なんだって再確認したね」
これだけ近づけば、いつもならば拒否されるのが目に見えているのだが、今は動けないのだ。それがおかしくて、薫の喉の奥から笑い声が響く。
白い衣の所々に染められた朱色。それと同じにところどころ染まった桜色の髪。
――それなのに、体には傷一つ見当たらない。
「治癒力はほかの鬼以上なのに、こういうのにてきめんに弱いのは、お前が引く血のせいなんだろうね」
香炉へ手を伸ばすと煙の帯がゆらりと動く。
その煙に眉を寄せながら、薫はそれを悠日の傍らに寄せた。
「鬼に効くとはいっても、実は効くのはお前たち宇治の一族だけ。不思議だよね、俺だって同じ『鬼』なのに」
と言いつつ、薫のその言葉は本気で不思議がっているというよりも、語り掛けるような確信めいたものを含んでいる。
それだけ語り掛けられているのに、悠日はぴくりとも反応を示さない。
そんな中、部屋の外に降り立った気配に気づいて薫が振り向いた。
「お帰り、牡丹。……見つからなかったよね?」
「…………ええ」
非常に不本意そうな表情で、牡丹が薫の言葉に答える。近づく気配のない牡丹が部屋の奥から聞こえる香の香りに眉を寄せていると、薫はそれに合点がいった様子で微笑んだ。
「ああ、お前も宇治の一族だから、この香は効くんだったよね。今そっちに行くから待っててよ。――変な動き見せたら、悠日がどうなるかは分かってるよね?」
脅し文句とともに袖の裏に見えた光るものを認めて、牡丹は忌々しそうに眉を寄せながらもその場に膝をついた。
部屋を出て鍵を再びかけると、薫はそのまま庭に降り立って牡丹へ近づいた。
牡丹が開いた手のひらには、瑠璃の珠が四つ。先ほど新選組の屯所周りにあった璃鞘の一部だ。
「あっちに向いてた力の分、不都合もあったからね。回収できたのは上出来だけど。それで、それはどうしたら悠日に戻るの?」
「普通であれば、何もせずとも姫の元に戻りますよ、薫様。 ……どうやら、姫様の命で戻したものではないので、戻る様子はありませんが」
「悠日がいなくなったらお前しかいないのにね。それでもそれは従わないんだ?」
へぇ、とそれをのぞき込む。
危険信号を示すかのように一度煌めいたそれを見て、薫は不快そうに眉を寄せた。
「先ほど一応戻そうとは致しましたが。……どういたしますか」
「俺が持っててもはじかれるだけだし、お前が持ってるほかないだろ。……お前をあの中に入れるわけにもいかないし」
駒がなくなるし、と笑う薫のその顔は、牡丹を気遣うものでは全くない。言葉にしたその通りのものが表情に浮かんでいる。
そんな薫を見ながら、牡丹は何もできない自分の力のなさに歯噛みした。
あの後、悠日と牡丹はここ――薫が住む土佐藩邸にほど近い東屋に連れてこられていた。
東屋と言っても、そこはほぼ牢に近い。牡丹も当初は悠日の隣室に籠められていたのだが、その有用性に気づいたらしい薫からこうして使われているのである。
悠日を救出しようとしたこともあったのだが、薫の感知能力は高く、そのたびに悠日に危害が及びかけるため手を出せずにいる。外へ出ている間とて『目』が届くために何もできないのだ。
それに、あの部屋に入ればすぐに香の香りに意識が絡められて動けなくなる。一度救出を試みた折にそれは体験済みで、助け出そうとして逆に自分も足かせとなってしまうことは明白だった。
それでも、何とか助け出せる、もしくは助けを呼べる隙はないものか。
そんな牡丹の考えすらお見通しであることも理解している牡丹は、自身の無力さに歯噛みする毎日だ。