第十一花 野春菊
風がざわめいたのを感じて、何となく目が覚めた。
声が聞こえた気がしたが、気のせいなのだろうか。
そんなことを思いながら身を起こすと、彼は背を丸めて口元へ手をやる。
「……げほげほっ」
嫌な咳の音が響く。随分前からのこの咳は労咳によるもので、今でも時折松本が診察に来て様子を見てくれている。
こうして咳き込むたびにどこか申し訳なさそうな顔で背を擦る悠日の顔を思い出し、沖田は嫌な予感が胸をよぎった。
それは唐突なもので、それでいて無視できない何かがある気がした。
「……悠日ちゃん……?」
部屋が離れていることもあって声は届かない。それでもそれを口にしたのは、言い知れない不安のせいだ。
今ここで呼んだとして返答がないのも当たり前なので、沖田は上着を羽織ると部屋を出た。
冬の寒さ厳しい風に眉を寄せていると、向こうの方から歩いてくる影を見出して怪訝そうな顔をする。
「どうしたんですか、土方さん。こんな時間にこんなところにいるなんて珍しいですね」
「……総司か。それはお前もだろうが。こんな時間に何の用だ?」
「悠日ちゃんどうしてるかなぁと思って、今からちょっと様子見に行こうかなって思ったんですよ」
胸の奥の不安を表に出さず、いつものようにひょうひょうとそう答える。それへ土方はかなり不機嫌そうな表情で返してきた。
「あいつならいねぇよ。……出て行きやがった。それと、起きてたならちょうどいい。お前に話が……」
「出てったって……何でです? 土方さん、悠日ちゃんに何かしたんですか?」
冷たい瞳が土方を射抜く。切り裂かれそうなほどの殺気に眉を寄せ、土方は大きく息をついた。
「牽制したっつぅ意味では何かしたがな。その件も含めての話だ。――反論はきかねぇぞ」
「内容によりますけどね」
怒りを秘めた瞳に、土方は再び息をつく。
眉間のしわは相変わらずだが、そこにあるのは懐疑心に似た何かだ。仕事と向き合うあの時の表情とは少し違う。
風に揺れた葉が雨のような音を立てるのを聞きながら、沖田は土方の言葉を待った。
「あいつは、羅刹か?」
「……何が言いたいんです?」
突然の問いに、沖田は土方に負けないほどのしかめっ面でそう問い返した。
質問に質問で返すなと言いたげにしながらも、土方は先ほど見たあの姿形を思い浮かべつつ答える。
「さっき、あいつの見目が変貌した。白い髪に紫の瞳。……若干違うとはいえ、羅刹でなきゃ何だってんだ」
遠まわしにお前は知っているのかと、土方はそんな問いも乗せて尋ねる。
その言葉を聞いて、そういうことかと思いながら少し残念そうな様子で息をついた。
ここでは、悠日のあの姿を知っているのは自分だけだった。あの姿をあまり好いていないらしく、そもそも人に見せること自体嫌がる様子を見せていたから、今回は嫌でもそうせざるを得なかったのだろうと何となく理解する。
二人だけの秘密だとか言う約束を交わしたわけでもなかったので、落胆する理由はないはずなのだが、ほんの少し残念な気になるのは仕方ないと思って欲しい。
そんな自分の勝手な思いは押し込めながら、沖田はなんだ、と小さく呟いた。
「なぁんだ、土方さんにも見せちゃったんですか」
「……何? お前知って……」
「その姿なら昔、江戸で会った時に見てますから今更驚きませんよ。ただ、悠日ちゃんが知られたくないみたいだったから言わなかっただけです。まあ、あの子自身、自分は『人じゃない』とは言ってましたし。人じゃなかったら何かっていうのは僕も知らないですけどね」
それに関しては問おうとしても答えてくれなかったのだ。
そのことを思い出して沖田が再び小さく息を付いていると、土方が小さく呟いた。
「鬼、か……」
「え?」
南東の方角――悠日の実家があったという宇治の方角を見ながらのそれに、沖田が聞き間違いかと思いながら思わずそう問い返した。
それをどういうことかという言葉と捉えた土方は、難しい表情をしながら答える。
「あいつが出ていく時に、風間が出てきてな。自分も霞原も鬼だと、そう言ってやがった。信じられるわけはねぇが、そういうことなのかもしれねぇな」
「鬼、ねぇ……」
そんなお伽話みたいなことが本当にありえるのかと、そんなことを思って沖田は首を傾げる。
別に頭に角が生えていたわけではない。常人とは違う色彩の姿だったとは言え、それでもあれは人の姿そのものもだったのだから。
納得できないという表情の沖田に、土方はだろうなと言いながら沖田に向き直った。
「とりあえず、言っておく。あいつは信用ならねぇ。お前が何を言おうがこっちは警戒する。戻ってくるとは言ってたが、仮に本当にのこのこ戻ってきた時、俺たちだって相応の対応をする。――分かってるな?」
「あの子にそんな間者やるような器用な真似、できるとは思えないですけどね」
「感情論で言ってるんじゃねぇぞ。……お前があいつといい仲だってのも分かってはいるが、信用しすぎるな」
部屋に戻れと、そう言い残して土方は自室へと戻っていく。
そんな土方の言葉に驚愕しながらも何も返せなかった沖田は、悔しげに眉を寄せた。
これまで見てきた彼女の行動から考えて、そんなことをするような子ではないという確信があった。もし間者をやっているのだとしたら、八瀬へ行ったあの後、怪しまれることを分かっていて帰ってくるなどありえない。
一体彼女はどこへ行ったのか。そう考えていると視界の端を光が横切った。
薄紫に輝く蛍。ふわりふわりと舞うその光には既視感を覚えた。
労咳だという宣告を受けたあの日、悠日の部屋へ行った時。
悠日の首にかかっていた、あの首飾りが放っていた燐光に酷似している。
手を伸ばすと、その光は沖田の手のひらに乗ってきた。あの時とは違い戸惑うように、それでいて何かを伝えようとせわしなく光を瞬かせている。
「……悠日、ちゃん……?」
先程よりもずっと強い不安が生じる。これが何かなど沖田には分からないが、それでもきっと、何かがあったのだ。
ひときわ強く瞬くと、唐突に光が消え、ころんと水晶玉が一つ、手のひらに残っているだけになった。
それ以降、その水晶玉は何の反応も示さなくなった。
「一体何があったっていうのさ……」
手のひらの水晶玉をぎゅっと握りしめ、沖田はどこへ行ったともしれない悠日を探すかのように屯所の外を厳しい目つきで見晴るかした。
《第十一花 終》
2016/03/14