第十一花 野春菊

 降り立ったのは、屯所のある西本願寺よりもずっと北東方向。

 人気のないその中に降り立った悠日は、牡丹とともに何年振りかに見るそれを見上げた。

 常緑樹の橘は、冬の今でも濃い緑を闇に溶かしている。葉を落として蕾も固い右手の桜とは対照的なそれに、悠日はすっと目を細めた。


「ここは、変わっていないのね……」


 いわゆる庶民の建物とは雰囲気も作りも異なるそれを見るのは何年振りか。

 ――沖田と会う一年ほど前に来て以来になるから、もう十年近く前になるのだろう。


 あの頃はまだ宮中にいなかった、今はもう儲君となっているかの一の宮は健在だろうか。そんなことを思いながら、白い砂の敷き詰められた庭を歩いて行く。
 右近の橘と左近の桜。以前来た頃も、この木々は今と同じように橘の緑だけがその存在を主張していた。まだ完成したばかりだったこの建物は、真新しい木の香りがしていたことを思い出す。


「とはいえ、あのころと違って随分と不穏な空気が漂っているけれど、ね」


 北へと進むほど濃くなるその気に、悠日は眉を寄せた。
 人であれば気づかないようなそれに気付いているのは、いかほどだろうか。

 ざり、と自分たちが砂を踏む音を聞きながら歩を進めていく。

 御常御殿と呼ばれるそこへ足を踏み入れると、そこには数多の人が控えていた。
 と言っても、今は皆が皆眠っていて、誰一人として悠日と牡丹に気づいてはいない。

 祈祷の名残だろうか、焚きしめられている香の香りに混じり、護摩の匂いがかすかに感じられる。
 籠もったその匂いに眉を寄せながら、部屋の中で閉ざされた帳をくぐる。


「……煕宮[ひろのみや]さん」


 踏み入った御帳台に横たわるのは、悠日より年配の男性だった。
 紫斑のできた顔は痛々しく、以前見たあの健康そうな様子は見出だせない。
 その様子に唇を引き結ぶ悠日の声に反応したのか、その彼は何度かまぶたを震わせてから目を開けた。


「菖蒲の橋姫、か……」

「代替わりを経て、すでに紫苑となっておりますよ。……十年ほど会ってませんでしたね、煕宮さん」

「そうだな……。ぬしの一族が、滅びて……っ」

「無理して話しては駄目ですよ」

「……だが……」

「天然痘を甘く見てはなりませんから。……私には、罹患の可能性は限りなく低いですが」


 もとより、そちらへの耐性は付いている血筋だ。病への耐性に関してはほかの鬼の一族以上だ。だからこそ、こういう役目につくことになるのだが。

 傍らの牡丹に目配せすると、牡丹が懐から短刀を出した。
 うつろな目でそれを見る煕宮――今上帝のそれに恐怖の色はない。


「今のあなたの体に、必要量を一度に投与するのは酷でしょうから、また明日も来ることになりますが」


 そう口にしながら、悠日は自身の人差し指の上へ刃を走らせた。
 焼けるような痛みが一瞬起きて眉をひそめる。傷口からにじみ出てきた赤い血を、悠日はそのまま今上帝の口元へと差し出す。


儲君[もうけのきみ]たる祐宮[さちのみや]も、まだ元服前で立太子もしてないでしょう。あなたを失うわけにはいかないのですよ、この国のためにも。……これも、私の仕事だから」


 膨れ上がってきた血を一滴、その口へと垂らす。これまでも、一族の長がやって来た仕事だ。必要となれば闇にまぎれて御所へ向かい、その病や怪我を治すための術を講じる。それが、長の仕事だった。鬼と人とを結ぶには、その長との繋がりが不可欠だからこその手段ともいえた。


 ほんの少しだけ顔色の良くなったそれを見て、悠日は小さく息をつく。


「……長州方の動きが、ここ最近随分と不穏です。つらいでしょうけど、まだ耐えてください」

「余も、分かって、おる……」

「ええ……。今は、ゆっくりと休んでくださいな」



 力のない手に自身のそれを添え、祈るように目を瞑ると、それを掛布の下へと戻して御帳台を出ようと振り返ったときだった。


「……悠日よ」


 手放そうとした手が悠日のそれをすがるように握ってきて、それへ苦笑を向けると
悠日はその手を握り返す。


「煕宮さん。あまり話しては……」

「もう、よい」

「……え?」

「ぬしら一族を、守れなかった責は、余にもある」

「あれは……」

「その罰もあろうよ……。その時点で、我ら一族とぬしら一族との約定は破られたも同じ。……もう、よいのだ。ぬしらが命を削る理由は……」

「……それでも、私自身があなたを助けたいのですよ」

「ならば、こたびだけで、よい……。もう、よい。かなたの昔から続く花結び、我らの代で解消を……」


 震える手が再び掛布の下から覗く。そこにあるのは、深紫の花結び。結ばれた花は『藤の花』。
 首からかかったものを引っ張り出した悠日は、それを薄紫の紐から外す。それもまた、彼が差し出したものと同じ形を持つものだった。即位の礼が行われるたびに、歴史の裏で行われたその約定。悠日が持つそれは、別れる間際に母から渡されたもので、形見の一つでもあるという意味も含めてとても大切な花結びだった。


 ――千年以上昔からずっと続く、二つの一族を結ぶ盟約の証だ。


「……いいのですか。まだ祐宮も幼い。この先何があるかなど、分かったものではないでしょう」

「結果的に、余はぬしら一族を見殺しにしたも同然ぞ。……これまで、幾度となく帝や東宮を救ってくれたその血は、ぬしらの命と同等。なれば、こちらもそれに準じた報いを受けねばならぬ。そなたら鬼と人の皇たる我らは、我らと民草の関係よりもずっと近しく、我らの言葉はぬしらへの拘束力もない。――花結びを、ほどいてくれ、橋姫」


 弱々しくもはっきりそう述べた今上帝に、悠日はしばし考え込んだ。
 事実、鬼である霞原の一族と人である彼らとは対等の立場でもあった。霞原の一族の安寧を守る代わりに、こちらも帝の血筋を守ることに努めること。それが、今手にしている花結びの約定だ。

 藤とは不死につながるからと、永久に続くことを前提とした、連綿と続いた約定だった。

 約定が破られた今、確かにそうすることが普通なのだろう。人へ情を移すなと再三言われたのは、きっとこういう時のためなのだとようやく理解した。

 悠日が生まれた頃にはすでに帝だった今上。いずれは花結びを結ぶことになると思い、母とともに会いに行った幼い東宮。彼らとの縁は、おそらくこの後も続くだろう。だが、その縁の拘束力は花結びを解けばなくなるものだ。

 約定が破られれば何らかの報いを受けることになるのは双方分かっていること。ゆえに、今上の今があるのだろう。
 一種の呪い返しのようなものだ。ならばきっと、解いたほうが互いのしがらみも消えるというもの。


「……分かりました」


 小さく息をつき、悠日は今上の手から藤の花の花結びを受け取る。
 結んだ当人双方の意思が一致しなければほどくことのできないそれに悠日が触れると、ふわりと結び目が緩む。
 今上帝の手に悠日が持っていた方を持たせて、悠日の手がそれを包み込む。

 両の手の間の花結びから発された薄紫の光が互いを包み込み、闇の中へ溶け込むように消えていく。

 ほぅと小さく息をつくと、悠日は今上帝の手から自身のそれを離した。
 それまでそこにあった紐はほどけ、二本の紐が下がっているだけ。あとはこれを火にくべればすべてが終わる。


「……煕宮さん」

「これで、ぬしらとの繋がりも断たれる」

「それでも、これまでの繋がりそのものが消えるわけではないでしょう。……また明日、きますね」


 再びそう口にし、その手を再び掛布の内へ戻した悠日は、そっと御帳台を出た。半月から細くなりゆく月が、東側から淡い光を差し込んでいる。その光がかすかに届く室内を惑うことなく進み、悠日は音もなく御殿から出ると、牡丹へ渡していた薙刀を手にした。


「姫……」

「さすがにつらいわね……。命を削る感覚というのは、こういうものなのかしら」


 ほんの少しの虚脱感。あの程度で済んだ今回はこの程度で済んでいるのだろうが、これまでそれでは済まないことも何度とあっただろう。だからこそ、鬼といえど人と大して変わらぬ寿命の長がいたこともあった。

 煕宮には悪いが、花結びをほどいたことに安堵している自分がいるのも自覚していた。長の仕事の重さは計り知れない。それを今実感しているといったところか。

 小さく息をつくと、悠日はあたりの空気がざわめいたことに気づいた。

 不穏な空気は、彼が病に倒れたことだけではないようだ。
 随分な歓迎だと思いながら、悠日は薙刀を構えた。


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