第十一花 野春菊

 あれからこれと言った大きな事件もない中、あれよあれよとしている間に、新選組で世話になるようになってから四年以上たってしまっていた。


「はぁ……」

「姫、ため息ばかりつかれていては、幸せが逃げますよ」

「どのみち、私にはそんなもの望めないでしょうに……」

「姫……」


 ひと月ほど前から、こんな状態だった。
 それもこれも、とその時のことを思い出すだけで、牡丹の眉間にしわが寄る。
 その表情の意味が分かっている悠日は、そんな牡丹の様子に諦めたような笑みを浮かべ目を閉じた。


「……彼が、無理に連れ戻そうとしている風情ではなかったのが、幸いしたわね」

「しかし、それでも以前の件もあります。何をしでかすか分からない相手にそれは……」

「それでも、彼に私は殺せない。……違うわね、『殺してはならない』のよ。私は、最後の一人だから」


 だから私の身の危険という意味では大丈夫、と儚く微笑む。
 そんな風だからこそ、牡丹は余計に心配なのである。


「それに、今のところ姫様が圧力をかけていらっしゃるようだし、大丈夫でしょう。あちらとて、自分の身は可愛いでしょうから」


 悠日はそういうものの、以前その話が出たときと今とでは彼らの様子が少し違う。だからこそ、もう少し警戒心というものを持ってほしいというのが本音だったが、悠日がそれに疲れてきてしまっているのだろうことも分かっている。だから自分が気を引き締めなければ、と牡丹が改めてしている傍ら、悠日はその時のことを思い出して小さく息をついた。








 ひと月前、沖田とともに町へ出かけたのだ。ちょうど彼が非番だった日に、茶屋にでも行かないか、と誘われて。
 茶屋という言葉に過剰反応した牡丹が悠日の保護者として沖田の監視という名目のもと一緒に来て、それについては沖田も仕方ないなと承諾したのだ。

 ――しかし。


「はぐれてしまったわね、見事に」

「随分と人の多いところに連れてこられましたしね。大丈夫ですか?」

「私は大丈夫。……でも、早く合流しないと、沖田さんが叱られてしまうしね」


 以前、巡察中にはぐれた千鶴の件で沖田がこっぴどく叱られていたのを思い出す。今回は仕事中ではないとは言え、それでも悠日自身は未だ監視の対象だ。むやみにはぐれないほうが身のためであるが、はぐれてしまったものは仕方ない。

 とはいえ、あちらが捜してくれていることを前提とするなら動かない方がいいのかもしれない。沖田のことだから、悠日たちを探すだろうことは目に見えている。


「とりあえず、沖田さんが行くといっていた水茶屋を探しましょうか。もしかしたらそこで合流できるかもしれないし」

「承知しました」


 とりあえずこれ以上迷子を増やさないために、と牡丹と手をつなぐ。こういう人ごみに行ったときの小さなころからの習慣なので、悠日は特に何も思うことなく手を引く牡丹について行く。

 だが、繋いでいた手とは逆の手を強く引っ張られた瞬間、牡丹と繋いでいた手がするりと抜けた。


「だれ……っ!?」


 そのまま、路地へと引き込まれる。
 声を出されては困るのか口は手でふさがれ、抵抗しようにももう片方の手が悠日を抱え込んでいるため、身動きもできない。
 抵抗しようと身をよじらせた時。


「久しぶりだね……悠日」


 聞き覚えのある声に、背筋が凍えた。
 抵抗することを忘れ、その声の主を目だけで追う。

 さらりとした絹は女ものの着物。結われた髪型は、明らかに女性のそれだ。
 しかし、発された声は普通の女性より少しばかり低い。

 そして、見知った顔に瓜二つの、その顔立ち。

 何より悠日は、それが誰なのか、どういった素性の者なのかを知っていた。


「……薫、さま……」

「やあ、悠日。京にいるっていう情報は随分前に手に入れていたけど、なかなか見つからないからどこにいるのか結構探したんだよ」


 どこか闇をはらんだような笑顔を向けられて、悠日は震えそうになる自分の体を必死で抑えた。


「……追いかけて、いらっしゃったんですね」

「俺はお前の幼馴染で、許嫁じゃないか。追ってきていけないことないと思うんだけど」

「幼馴染というほどの交流はなかったですし、許嫁といっても、そちらが勝手に決めてしまったことです。……我が一族は、その件について承諾していなかったはずですが」

「承諾するも何も、決めたときにはもう霞原の一族は滅びていたじゃないか」

「一族が滅びる前に、すでに打診は来ていました。ですが、私の場合は相手を慎重に選ぶ必要がありましたからね。即答はできかねないと、長いことお断りしておりました。ですから、私はあなたを許嫁と思ったことはありません」

「……また、あんな目に合えばいいってこと? 随分と自分を傷つけるのが好きだね、悠日」


 俺は別にかまわないんだけど、と耳元でささやかれる。
 半分冗談だということは分かっている。あの時だって、そんなことしなくとも、と言った目を悠日の『部屋』の前を通るたびに向けていたことを知っているから。

 それでも、あの時の自分には、逃げ出すという選択肢はなかった。だからそういう目を向けていたのだろうことはなんとなく分かっていたのだ。

 だからなのか。

 ――今の、本気も混じったその声に恐怖を覚えたのは。


「まあ、今無理に連れ戻したところで、また逃げるだけだってことは分かってるから、連れ戻すなんてことは考えてないけどね」


 それに、俺の目的はお前だけじゃないから。
 そう口にした薫に、悠日はすぐにどんなことかと理解して彼を睨みつけた。


「彼女は、あなたのことを覚えていませんよ」

「知ってるさ。随分前に会った時も、千鶴は俺に気づかなかったし。だから、ちゃんと思い出させてあげないとと思ってね」

「あなたが覚えているのに、彼女が覚えていないのか。その理由を知らないはずないでしょうに……」


 思い出したくないと記憶に蓋をしたかそうで無いかの違いだ。千鶴にとっては忘れたい、薫にとっては忘れることなどできない過去。

 自らの意志で記憶に蓋をしたことのある悠日には、どちらの気持ちも分からないでもなかった。
 そして、その反動が計り知れないことも、もう知っている。

 あのまま、忘れたままでいられたならと思わなくもない。せめて彼のことくらい、忘れたままでいたほうがけじめは付けられていたのかも知れないと、何度思ったか知れない。


「それにしても珍しいこともあるものですね。あなたがはるばる土佐からこのような場所に来ているとは」

「事情はいろいろあるんだよ。お前にだって、人には言えないことの一つや二つ持ってるだろ? ……ほら、あの男のこととか、さ」


 その言葉を聞いて、背筋を氷解が滑り落ちた。
 ああ、この人は知っているのだ――。


「確かに、視野に入れることが必要なのも分かるけど、それでも絶対上は認めない。お前にとって必要なのは『血筋』だ。分かってるんだろ、悠日?」

「そ、れは……」


 分かっている、分かっているから事実苦しいのだ。心ほどままならないものはない。押し殺し続けたらどうなるかなど考えたくもないが、彼の言い分は事実正しい。だからこそ……。
 苦悩の表情を浮かべる悠日に、薫は楽しそうに笑った。闇をはらんだその表情に、このままでは引きずり込まれそうな、そんな恐怖が湧き上がる。


「まあ、存分に苦しめばいいさ。……しばらくは京にいるつもりだし、何かあれば呼ぶといいよ」


 じゃあ、と悠日を解放すると、薫は踵を返して路地裏の闇の中へ消えていく。
 緊張から解き放たれ、悠日は地にへたり込んだ。


「…………逃げ、られない……」


 分かっていた。そんなこと分かってはいた。それでも、それを時折忘れてしまうかのように入り込んでくるのものがある。
 咲いてしまった花をどうこうできるはずがない。――実が成る前に離れなければ、手遅れになる。


「……っ姫様!」


 はぐれてしまった牡丹が、路地裏でへたり込む悠日を見つけ、血相を変えて駆け寄った。


「姫様? ……姫様、いかがなされましたか」

「ぼ、たん……」


 随分と怯えた表情をしている悠日に、牡丹は落ち着かせようと悠日の背をゆっくりと撫でる。

 震えがなかなか止まらない主の様子に眉を寄せながら、辺りを見回す。

 ほんの少しだけ、鬼の気配の残滓を感じた。
 誰かしらが接触してきたのだろうが、ただそれだけでここまで怯えるほどの人物など一人しか心当たりがない。


 真っ暗な路地のその奥を見定めようとするかのように、牡丹は悠日が落ち着くまでそちらを睨みつけていた。

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