第十花 赤酸漿
頬を撫でる風が、随分と生ぬるい。何を言われるのかは、なんとなく分かっていた。
――それでも、仮にそうだとしても、僕は。
そんなことを思いながら、沖田は軽い口調で、前を歩いていた医師に話しかけた。
「それで、先生。話ってなんですか?」
西本願寺の中庭。ほとんど人も来ないここに来たということは、大きな声で言えない何かがあるだろうことは分かっていた。
だから早く話してくださいよ、と沖田が先を促す。
「体のだるさ、食欲不振、続く微熱、大量の寝汗……」
沖田の自覚症状を並べ、松本医師は一度息をついてから、彼は沖田をまっすぐに見た。
「……お前さんの病は、労咳だ」
「そうですか。……やっぱり、あの有名な死病ですか」
あっさりとそう口にした沖田に、松本医師は怪訝な表情を浮かべる。
その口調も、表情も、その宣告を受けた者のものが普通見せるようなものではなかったからだ。
たいてい、労咳にかかっていると言えば、絶望した表情を見せようものを。
「……驚かないのか?」
「自分の体ですからね、分かりますよ。――でも、面と向かって言われると困るなぁ」
動揺した様子もなく、飄々と答えるそれが、逆に不安になる。
笑顔すら向ける彼の表情に、松本医師は顔をしかめた。
「分かっているなら話は早いな。……すぐにここを出て、療養するべきだ」
「嫌ですよ」
即答の言葉に、松本医師は怪訝そうな表情を浮かべる。
「なぜだ? このままでは……」
「命が短くても、長くても僕にできることなんて、新選組の前に立ちはだかる敵を斬ることだけなんです。もし先が短いっていうなら、なおさらここから離れるなんてこと、僕にはできないなぁ。……僕にとって、ここにいることそのものが生きる意味なんですから」
空を見上げて、沖田は視界に入った飛ぶ鳥を追う。
真っ青な空に浮かんだ鳥影は、すぐにどこかへ消えてしまった。
この京に来た時から、ずっとそうだ。自分にできるのは、近藤さんの役に立つには、人を斬ることしかできない。
傍を離れるなんてことは、したくなかった。
「……仕方ない。だが、その病は進行すれば逆に周りに迷惑になる。私の言いつけを守れんようなら、すぐに近藤さんに知らせるからな」
「先生ずるいなぁ。……でも、近藤さんには、知らせないんですね」
それはありがたいんですけど、と言いながら笑うと、松本は大きく息をついた。
「お前さんの意思を尊重したにすぎん。……彼ならば、おそらくすぐにでも療養させるだろう。お前さんが何と言おうとな。逆にお前さんなら、伝えないでほしいと言うだろうってぇのも予想できる」
「よく分かってるじゃないですか。……約束ですよ、近藤さんたちには言わないでくださいね」
顔をのぞき込みながらのその言葉に、松本医師は本日何度目か分からないため息をつく。
少しおかしそうに笑いながら、沖田がどうしたんですかと尋ねた。
「まあなぁ……。人には言えないことの一つや二つ、あるわな……」
「まるで先生にもあるみたいな言い方ですね」
「そりゃあ、な。……昨日、あの子に言ってないことが……いや、言えなかったことがある」
健康診断のさなか、千鶴がこの松本医師から話を聞いたことは沖田も近藤から聞いて知っていた。
千鶴の父の行方のこと、例の薬のこと。もはや彼女は部外者でなくなっていたからこその話だ。
松本医師がここに来たのも半分は千鶴の安否をその目で確認したかったこともあるらしい。
近藤が話を持ち掛けたことによって相見えることができたわけだが、その彼女に言えなかったこととは何だろうかと思って、半分独白だろうそれに質問を返す。
「言えなかったことって、なんですか?」
「綱道さんが、攘夷派の過激派浪士の連中と行動を共にしてるって話だ。あの子には、とてもじゃないが伝えられん」
その言葉に一瞬瞠目してから、沖田は確かにと頷いた。
「伝えたら伝えたで、あの子卒倒しそうですね。……世の中、ままならないなぁ」
「まあ、そうだな。とりあえず、私は今後、頻繁にここに顔を出してお前さんを診てやる。無茶は禁物だぞ」
「はい。……お気遣い、ありがとうございます」
そのあと二つ三つ言葉を交わし、松本は去っていく。
その背を見送ってから、沖田は虚空を見ながら声をかけた。
「ねぇ、出てきたらどうなの」
答えはない。それに小さくため息をつくと、再びどことも知れない場所へ声をかけた。
「気配、それで消してるつもりなの、牡丹ちゃん?」
「消しているつもりはなかったが、まあ隠れて聞いていたのは事実だな」
そういって、木の上から葉音を立てて牡丹が下りてくる。
外へ出て動くときの、忍びのようなあの服ではない、普通の服装だ。一見すればただの少年。しかしその見た目にそぐわない力の持ち主であることは、すでに幹部全員が知っていた。
もっとも、ただの少年が木の上から降りてくるなどという非常識なことはないので、今この状況そのものがはたから見れば異常なのだが。
しかし長いこと悠日とともにいるということもあり、沖田はそこには気にも留めず牡丹に問いを向けた。
「これも、あの子の指示?」
「でなければこんなことはしない。……大層ご心配なさっていらっしゃった」
と言っても、隠れて聞いていたのは自分だけではない。そう思いつつも、牡丹はそのことについては何も言わず、小さく息をついた。
おそらくそこに隠れている【三人】も、気になってついてきた節だろう。沖田のこの様子だと気付いていないようだが、牡丹には察知できていた。
「君は、止めないの?」
「何を」
「僕がここに残ること」
その言葉に、牡丹はあきれた表情を返した。
「私が何を言おうが、お前は残るだろうに」
「まあね。……たぶん、あの子に言われても、残るだろうなぁ」
「姫も知っていますよ、それを。……それに、病に関しては感づいていましたから、このことを知っても今更でしょうし」
沖田は、その言葉に小さく眉を寄せた。
瞳に浮かんでいるのは、困惑と疑問。
まあ当然だろうと思い、牡丹はどういうことかを説明する。
「何しろ、しょっちゅうお前が絡んでくる。体調の違いを見抜ける程度には、姫もお前のことを見ている」
「それは嬉しいねぇ」
じゃあそのお礼を言いに悠日ちゃんのところに行こうかなぁ、などと言って踵を返した沖田の背に、牡丹が静かに問いかける。
「……その姫を置いていく覚悟、お前にはあるか?」
沖田の足が止まった。振り返らないその表情は見えないが、袖の中で握った拳が少し震えているのは分かった。
「……僕があの子にできることなんて、ないよ」
「あの方は、これまで多くを失ってきた。……少なくとも、お前が生きることそのものが、お前があの方のためにできることでもある」
沈黙が返ってきた。それを分かった上で放った言葉であることを、牡丹も自覚している。意地の悪いことをしている自覚もあるが、伝えておかねば後悔する気がした。
「もっとも、先ほども言ったが、お前の意思を尊重して、姫は何も言わないと思うが」
「……治る方法があるなら、そうしてあげることもできるけどね。この病が治る方法なんて、養生して滋養にいいもの食べて過ごすしかない。仮に養生したとして、治るとは限らないんだ」
それでも悠日に絡みに行く自分がいかに酷なことをさせているか、沖田も分かっていた。
なんだかんだ言いつつも、彼女が自分を好いてくれていることは分かっている。だからこそ、心が痛まないわけがなかった。
「命が短いなら、せめてその間、傍にいてあげることも大切なんじゃないの? ……あの子がここを出ることは、許可されない。それは君だって分かってるはずだ」
「もちろん。……まあ、ただの戯言とでも思ってくれればいい。ただ私は、あの方が泣くのをもう見たくないだけだ。……ああ、あと、姫にも報告はするが、口止めはしておく、安心するといい」
では、と言って、牡丹は姿を消す。相変わらず早いなぁなどと考えながら、沖田は自分の手を見る。
この手で守れるものなんて少ない。ましてや先が短いなら、その数は限られてくる。
新選組か彼女か。そんなこと、決められやしないのに。
「治る方法があるなら、僕だってそれにすがるよ」
それでも、確実に治る方法などないのが事実だ。あるのであれば、松本医師もその方法を提示するはず。
それに、彼がくれる薬は労咳そのものを治すためのものではないだろうことくらい分かっている。
あれは、死病だ。ごくまれに治る者もいるらしいが、それは一握りに過ぎない。
「ほんと、ままならないなぁ」
そう呟いて、沖田は大きく息をつきながら中庭を後にしたのだった。