第十花 赤酸漿
一仕事終えて戻ってきた牡丹の報告に、悠日は小さくため息をついて、そう、とだけ口にした。
さわり、と風がそよぎ、どこか生ぬるく感じる風が小窓を通り部屋に入り込んでくる。
「姫は原田の件、分かっていらしたんですか?」
「なんとなくはね。……でも、向こうははっきりと認識したわけではないようだし、言及の材料もないでしょう。だからこそ、正面切って私を疑うこともできない」
あれが悠日だという証拠はどこにもない。
誰にも【見られていない】のだから、それは当然ともいえるが。
だからこそ、牡丹も、先ほどの原田の問いに迷わず否定できたのだ。
とはいえ、うかつに動けなくなったのも事実だ。それなりに神経をとがらせて行動しなければ、見つかる。
この穏やかな時間が
泡沫の夢と化すまで、時間は少ないのだろう。
そして今回、ここにきている彼が【知っている】か否かで、自分たちの行動は大きく変わる。
「そういえば、御典医はどんな感じだった?」
もっとも、悠日が出ていったわけではないから、話に出ることそのものがないだろうことが分かっていた上での質問だった。あえて直球に問わなかったのは、今置かれている自分の状況を考えてのことだ。
「昨日今日と見ましたが、随分と温和な者のように見えましたね。今のところは……」
「なるほど、ね」
牡丹が濁した文言を察し、悠日は少し考えるそぶりを見せる。
知っている様子は見受けられなかったと、そう言いたいのだ。知らないのならばそれでいい。だが、すでに幕府は知っている。
本来、すべてを知っているのは禁中の帝のみのはずだった。それが、いにしえよりの約束だったはず。
だが、幕府は知っているのだ。仮に今来ている御典医が知らなくても、幕府の誰かしらは知っているだろう。悠日の一族の存在も、それが一体どんな力を持っているのかも。
だからこそ、九年前のことがあるのだから。
その上、その時以上に厄介なのが……。
「範囲は、もう上にとどまっていないようだから」
「その例には、すでにお目にかかってますからね……」
こくりとそれに頷き、悠日は誰もいないはずの外へと意識を向ける。
見ているのは、新選組古参の傘下のものばかりではない。あの、何とも形容しがたい彼と似た雰囲気の視線も感じる。
仮に彼らが知っていようと、肯定するつもりもない。それでも強要されるようであれば、その時は。
迷いのない瞳が虚空を見つめる。それはまるで、今はもうないあの地を見つめるかのように。
そんな悠日の姿を痛ましそうに見つめていた牡丹は、ふと思い出したように話を変えた。
「ああ、それと」
「まだ何かあったの?」
「ええ、まあ……沖田の件で」
「沖田さんの?」
先ほどとまでは少し違う牡丹の話しぶりに、悠日は不思議そうに首を傾げた。
先ほどまでが緊張していたと表現するならば、今は困惑しているという感じだろうか。些かの躊躇いも見える。
だが、それに気づきつつも、悠日は牡丹が話し始めるのを待った。
「先ほど、沖田が松本に連れられて、ひっそりと広間を出て行ったのが気になりまして」
「それは……」
「はい。姫の杞憂に終わらないように思えましたので」
もしかすると、と牡丹は眉を寄せる。もし、それが本当なら。
「仮にそうだとすると、広間で、大きな声で話せるような内容ではありません。……そのため、別の場所に移ったのかと思いまして」
「……そ、う……」
ああやはり、と思いはした。そしてそれは、薬では治せぬもの。仮に作れるとしても、今あるものでは無理だ。――一つを除いて。
自分と彼との差を、こういう時に思い知らされる。そして、何もできない自分にも。
ぎゅっと自身の手を握り、一度目を閉じた悠日は、少ししてから目を開けて牡丹をまっすぐに見た。
「牡丹」
「はい」
「また、皆さんの手伝い、してきてもらってもいい? 私は、今こんな状態だし」
その言葉への返事までに間があった。唐突に切り替えられたようでそうではない話だが、悠日は牡丹がそれに気づくことを知っていて口にしたのだ。
少し考えた後、牡丹は納得した風情で頷く。
「かしこまりました。では姫は、こちらでゆるりとお過ごしください」
一礼すると、牡丹は静かに部屋を出ていく。
トン、と戸が閉まる音を聞いて、悠日はほぅと息をついた。
別に、本当に体調が悪いわけではない。確かに昨日の昼間寝ていたが、少し疲れていただけで、本来ならわざわざ休むほどの体調でもないし、睡眠も夜だけで十分だった。
そして、その疲れの理由が何なのかは、悠日も承知している。もちろん牡丹もだ。昨日広間で牡丹がああ言ったのは、今日も松本が来ることを見越して、昨日今日と部屋にいる理由をもらうためである。最初は戸惑ったが、あとからわけを聞けばそれに納得がいった。
ただ、情報は欲しい。だから、牡丹にああ言ったのだ。直球でそれを口にするのをはばかり、暗にそう告げたに過ぎない。
今自分が動くのは大変危ういことを承知しているからである。
いま、何より知りたいのは、あの御典医が知っているか否か。
仮に、知らないなら知らないでいいのだ。
今でなくても、いつかは【その時】が来る。それは分かっている。
禁忌とされる、この血が持つ力は、人の手に渡ってはいけない。だからこそあの時、一族は皆死んだのだ。――自身の、もしくは仲間の刃を受けて。
自分は、その血を引く数少ないもの。そして、仮に生き延びた者がいるのであれば、まとめねばならぬ者。
私事に引きずられる気持ちに構ってはいられない。
自分のことだけ考えているわけには行かないから、この気持ちは切り捨てなければならないのに。
知られていたら離れるという先程は出なかった迷いが、たった一人のことで揺れる自分が情けなかった。
もう、時は少しずつ迫ってきていることは、分かっているのに。
壁にもたれて頭を抱える。
今にも零れ落ちそうになる雫をこらえながら、悠日は自身の膝に顔をうずめた。