第十花 赤酸漿

 彼らがそんな顔をしているとはつゆ知らず、沖田は足音を忍ばせながら、自室にいるという悠日の部屋へ向かっていた。
 広間からはそれなりに離れているから、喧騒は遠い。周囲の木々の葉の擦れる音や小鳥の声は、悠日にとっては癒し以外の何物でもないだろう。
 彼女がそう言った場を好むことを知っているから余計だ。

 しかし、いくら喧騒が遠いとはいえ、物音一つしない。人がそこにいるのだから、何かしら音が聞こえてもおかしくないはずなのに、だ。
 気配が消えているわけではないから、悠日がいないというわけではないだろう。とすると、考えられるのは……。

 そんなことを考えながら、沖田はそっと障子を開ける。
 まず視界に入ったのは、小さく丸くなった姿。畳には少し伸びた髪が狭い範囲に広がっている。ゆっくりと上下する肩からは力が抜けているのが見て取れた。

 やっぱり、と息をつくと、沖田は膝を折り悠日の肩に触れる。


「……悠日ちゃん、こんなところで寝てたら風邪ひくよ?」


 布団もかけず、固い畳の上で寝ているのだ。壁際にいることから考えると、最初は壁にもたれていたのだろう。寝入ったのが畳に寝転ぶ前か後かは知らないが、起きたときに体が痛くなっていそうだと思い、悠日を起そうと試みる。

 規則的な寝息を立てながらあどけない表情で眠っている悠日の肩を揺らしてみるが、起きる気配はない。随分と深く寝入っているらしい。

 再び小さくため息をつくと、沖田は悠日をそっと抱えて布団の上に寝かせてやる。
 一瞬身じろいだものの、起きることはない。身じろいで見えたうなじに目を細め、沖田はそんな悠日に手を伸ばした。


「……悠日ちゃん」


 そのまま沖田は、悠日の上に覆いかぶさるように自身の左腕を支えにし、悠日の顔をのぞき込む。
 ぎらついた光をちらちらと覗かせる翡翠の瞳は、まるで獲物を狙う獣のよう。


「僕も、男なんだよ?」


 この状況で手を出さないでほしいという方が間違っている。据え膳食わぬは男の恥と言う。悠日にその気がなくとも、沖田にその気が起きてしまったらもう遅い。
 布団に広がった黒髪を軽くすくと、悠日はくすぐったそうに小さく微笑む。

 無邪気なその顔は、現状を把握していない証拠だろう。
 毒気を抜かれそうになりながらも勝った狼の性を、沖田は抗うことなく受け入れた。


「悠日ちゃんが悪いんだよ?」


 そんなことを言いながら頬に手を添えようとしたとき、沖田の右手に火花が飛んだ。

 思わず手を引っこめ、火花が当たった部分を左手で覆った。赤くなっているのは、それだけの衝撃を受けたということだろう。

 そうして悠日の首回りを見てみると、そこが――正確にはそこにかけられた首飾りがほのかに燐光を放っている。

 見たことのない紫の光は攻撃的な色を秘めていた。今ひとたび触れれば、いかずちでも向けるかのような、そんな激しさが見て取れる。

 その色はまるで、初めて森で会った時の悠日の瞳の色。
 警戒の色を含む紫の瞳と、同じ色。つまり、警戒されているのだろう。
 いったい『何から』なのかは分からないが。


 そんな緊迫した空気を感じ取ったのか、悠日の瞼が震えた。


「ん……誰……?」


 その問いかけと同時に、紫の光はふっと消える。
 諦めたように悠日の上から退き、悠日の傍らに移動した沖田の横で、まどろみの中と言わんばかりの薄紫の瞳が宙をさまよう。

 何度か瞬きを繰り返し、悠日はようやく目の前にいる人物が誰かを判断した。


「総司さん……?」

「おはよう、悠日ちゃん。日が高いうちから寝ちゃうなんて珍しいね、君にしては。随分疲れてるみたいだけど大丈夫?」


 まだ半分寝ぼけているような声で名を呼ばれ、沖田は苦笑を返す。昼間から寝ていることそのものが珍しいのは事実だ。
 先ほど抱いた感情は奥へ押し隠し、沖田は悠日の顔をのぞき込む。
 そろそろ慣れてきたその行動に苦笑し、悠日はゆっくりと体を起こした。


「大したことをしているわけではないんですけど……。今日は私がやることをすべて牡丹に任せてしまいましたし、疲れるようなことは特に何も……」


 どうしてでしょうね、と言いながら体を伸ばし、悠日は傍らに座っている沖田を見上げる。


「ところで、総司さんはどうしてここに? 健康診断とやらは終わったんですか?」

「あー……途中で抜けてきちゃった。悠日ちゃんいないって聞いて、こっちかなって思ってさ。そしたら君寝てるし、びっくりしたんだよ?」


 くしゃりと頭をなでられ、悠日は苦笑してされるままにする。
 例の衝撃が来なかったことに沖田が内心ほっとしていることなど、悠日は知らない。


「すみません、いつのまにか寝ていたみたいで。……それよりも、総司さん、最近体調崩してるみたいですし、ちゃんと診てもらってくださいね? どこが悪いのか分かるかもしれないですし」

「それを言ったら、君も受けた方がいいんじゃないの? よく分からないのに疲れるって、何かの病気かもしれないし」

「私は大丈夫ですよ、きっと。……とにかく、沖田さんはちゃんと健康診断済ませてきてください、私が土方さんに怒られます」


 何の根拠もないはずの『大丈夫』の言葉にどこか確信めいたものを感じ、沖田は首を傾げる。
 だが、その根拠もなく、尋ねることもできない。

 苦笑しながら催促する悠日の言葉に反論することもなく、沖田は怪訝そうな表情をしながら悠日の部屋を後にした。

 悠日の言葉に従うように、素直に健康診断を受けた沖田を含めた全員のそれが終わったのは、太陽がかなり高いところまで上がったころだった。


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