第十花 赤酸漿
そのころ、気配を消したまま部屋に戻り、悠日は息をついた。
桜色の髪は黒へと戻り、瞳も薄紫へと戻っていく。
部屋の外には監視の目。だが、それを潜り抜けるのは至極簡単なことだった。
――人ではない、自分たちには。
今日の彼もそうだ。でなければ、あれだけの監視の中、あの二条城に入ることはかなわないだろう。もちろん、それは悠日も同じなのだが。
そのことに、この新選組の面々は気づいているのだろうか。
距離から見て話が聞かれるほどではないことは分かっているから、小さな声で傍らの影に声をかける。
そこには、悠日の代わりに部屋にいた牡丹の姿があった。
もちろん寝ることなく主の帰りを待っていた牡丹は、疲れた表情をした悠日の顔を見て少し心配そうにしながら声をかける。
「姫、お疲れ様でした」
「ええ……」
ねぎらいの言葉を受けての帰ってきた悠日の歯切れの悪い返事に、牡丹は怪訝そうに眉を寄せる。
疲れた、というだけにしては少しおかしい。
彼女がこういう顔をするのは、たいてい彼女自身に関する何かがあったときだ。
「……いかがなされましたか? まさか……」
「まあ、あり得ないわけではないけれど、ね。……勘のいい人間なら、すぐ気付く」
少し自嘲気味に笑う悠日を見て、牡丹はさらに眉を寄せた。
「いったい何が……」
「二つ名を知られた、といえば分かるでしょう?」
その言葉に、牡丹は目を見張った。
今の時代、二つ名を用いる鬼はそうそういない。そもそも、二つ名というのは本来知られてはならなかったものを伏せるために、自身の出身地を暗示するもの等で作られているものだ。
今では廃れたその風習は、霞原の家ではこの時代においても続いているのだ。と言っても、それを知っているのは一握りのものだけだが。
しかし、それは出自を表すもの。少し勘のいいものであれば、気づかないわけがない。
「誰にですか」
「彼女に。…………璃鞘」
ふわり、と紫の蛍が悠日の手にとまった。どこからともなく現れたそれは、ふっと姿を消す。
まるで、悠日の中に吸い込まれるように――。
しかし、牡丹も悠日もそれに驚くことなく見つめている。
しばらく自身の手のひらを見つめていた悠日は、眉を寄せて小さく息をついた。
「……少なくとも、一人は分かったらしいわねぇ。どうしましょうか」
どうやら、あの時に見ていたらしい。そして今回の騒動でそれなりに感づいたようだ。
璃鞘が何か、彼らは知らない。それが悠日と繋がりがあることも知らないだろう。
だから、千鶴を助けるために璃鞘を使うことへのためらいは全くなかった。
だが、あの時に見られていたとなると話は別になる。
「しらを切るしかありますまい。……もしくは姫が、ここを離れるか」
「そう、ね……」
そもそも、牡丹は悠日がここにいることに賛成していないのだ。できるなら、今すぐにでも離れてもらいたいに違いない。
彼女は、悠日が人と関わることを良しとしていないからだ。
だから、何度も何度も、ここを離れることを勧めてくるのだ。
そしてそれが一族の総意であることも、悠日は理解していた。
霞原に、自由は許されない。
それは、鬼とも人とも断じられない自分たちへの、重い重い戒めだ。
だから……覚悟を、決めないといけないのかもしれない。
「なんにせよ、私の『血』に関して知られたら、もう出ていくしかないでしょうね……」
そして、彼とも区切りをつけなくてはならないだろう。
それが必要なことだと、悠日もちゃんと分かっていた。彼へ持ったこの感情を捨てられないのも事実だ。
だが、どちらかを選べばどちらかを捨てなくてはならない。
彼と自分とは違う。それが分かっているから、望めない。――本当は、望んではいけない。
だから、どちらを選ばなければならないかということも、よく分かっていた。
それでも感情は、邪魔をする。理性ではわかっているのに、諦められない。
「……私、いつの間にこんなに欲深くなったのかしら」
何でも言われたとおりに物事をこなして、駄目だといわれたことに素直に従ってきた。
それが正しいと思っていたからだ。
しかし、江戸へいき、さらわれ、記憶を封じてここにいた間に芽生えたはっきりとした自我は、しなければならないことを妨げるかのように、大きくなっていた。
あのまま、宇治へ無事に帰れていれば、こんな疑問も抱かずに済んだのだろうと思う。
それでも後悔していない自分がいるのは、たまらなく恐ろしい。
「姫……」
「もう、寝るわ。……私にこれは、まだ重いみたい」
話を無理やり終わらせるようにそう口にして、悠日は自身の胸元の首飾りに触れながら手を握りしめた。
そのまま何とか夜着に着替えて布団に横になれば、先ほどの疲れが体にどっとのしかかってくる。
重い瞼を伏せれば、牡丹がそっと布団をかけてくれた。
それをゆらゆらとし始めた思考の中で感じ取りながらも、悠日はそのまま自身の睡魔へと体をゆだねていく。
「…………母様……」
ごめんなさい、という小さな呟きは闇に溶け、やがて寝息の中に消えていった。