第九花 暈持
それからしばらくして、それじゃあ大人しくしててね、と言いおいて沖田が部屋を出ていった。
山南の件もあってようやくホッとすることが出来たのだろう。
もう少し寝たらどうかと悠日が言うと、千鶴は苦笑してそれに頷いた。
横になってすぐに寝息が聞こえてきたから、すぐに寝付けたのだろう。
首にうっすらと指の跡が赤くついている。
目を細めてそれをじっと見つめていた悠日は、少し苦しそうな表情をし一度目を閉じる。
「……千鶴ちゃん?」
小さく名を呼んで応答を待つが、返事はない。
そうして千鶴が深く眠ったのを確認し、悠日は起き上がって手早く着替えを済ませると、そっと部屋を出た。
あとをついてくる影があるが、悠日はそれを気に留めることなく歩を進める。
向かったのは中庭の奥の、人目につきにくい場所。
先日降った雪の影響か凍えるような風が吹き付けるものの、それをものともせず、悠日は短い髪を風の流れに任せてなびかせながら、あとをついてきていたものに声をかける。
「牡丹」
気配の主が誰かぐらいは悠日にも分かる。
ましてや牡丹は幼い頃から一緒だ。分からないはずがない。
そんな悠日に応えるように姿を表した牡丹は、悠日が皆まで言う前にその答えを示す。
「……山南の容態でしたら、今のところは安定しています。処置が早かったからかと思われます」
「なら良かった。……幹部の皆さんは?」
「皆、広間に。今は部屋の外に井上が控えているようですが、部屋の中には山南一人のようです」
暗に今なら問題ないと告げたその言葉を受け、悠日は目を閉じた。
凍えるような風に、更に緊張感をはらんだ風が交じる。
つい先ほどの変化と同じもの。
牡丹が辺りの様子を警戒していることに安心しながら、悠日は自身の力を開放した。
本当の姿がどちらか分からないと、以前沖田に話したその姿。
幼い頃はそうだったが、今は本能で分かっていた。
――本当の姿は、こちら側。
そして、『本来』の姿はまた別にあるのだが、それについては話す必要はあるまい。
いずれ……離れる日が来るだろうから。
少し寂しげな表情をしながらそんなことを考えていた悠日は、気もそぞろではいけないと一度首を振った。
紫苑色の瞳を瞼の奥から覗かせ、祈るように手を組合せる。
悠日の首周りから、光る何かが四方に散った。
そこまで強くはない風に揺れる桜色の髪を雪景色に溶け込ませながら、悠日は厳かに、囁くような小さな声にもかかわらず凛としたそれを発する。
「……霞原が頭領、悠日の名をもって、抑えさせていただきます」
その一言が鍵となったように、一瞬だけ屯所周りが光った。
濃い紫のそれは闇に溶け、目を凝らさなければ見えない代物。
気づいたものはいないだろうし、仮に気づいたとしても一瞬の出来事だ。気のせいで終わるだろう。
そう考え、しばらく様子を見ていた悠日は、問題の無いことを確認して息をつき、肩の力を抜く。
それと同時に、髪は黒へ、瞳は薄紫へと戻っていく。
異質な風も鳴りを潜め、凍えるだけの風のみになった。
「お疲れ様でした、姫」
「ええ……。でも、まだ不完全よ。……彼に関わる分しかできていないから」
その上、それも完全とは言えないのだ。
気は抜けないが、簡単に暴走することはあるまい。その点まだ安心は出来るだろう。
「……部屋に戻りましょうか。慣れないことをしたら、疲れてしまったし」
言葉通り疲れた表情をしている悠日に、牡丹は心配そうな表情をしている。
「大丈夫よ。本当に疲れただけだから」
「ですが……」
「こんなときでなければ使うこともないから。……それに、役目を放棄する訳にはいかない」
でしょう? と苦笑すれば、牡丹は少し苦しそうな表情をしつつも頭を垂れた。
御意のままに、と言う意味だ。
そんな牡丹の行動にありがとうと返し、悠日は踵を返して建物の中へ歩を進める。
縁側に上がり、悠日はふと視界に入った白いものを見て外を振り返る。
雪。この時期、故郷でも降っていたそれは、今はもうそこで見ることもない。
そんな寂しさをたたえながら、悠日は目を細めた。
「……気づかれるかも、しれないわね」
誰に、とは言わない。何にとも言わない。
だが、力を開放した以上、見つからない可能性はこれまで以上に低くなった。
探しているだろうから、そこに手がかりとなるものを投げ込むようなもの。危険行為と分かっていてやったのは、義務ゆえ。そして、この新選組の面々に抱いた情ゆえ。
そんな懸念を口にした悠日に、牡丹がきっぱりとした口調で言った。
「その時はここを離れるまで。違いますか?」
「ここに危険が及ぶなら、ね。……ここにいたいのは、私の我侭。だから……」
「この組織に姫の存在ゆえ危険が迫る予兆があれば、すぐにお知らせします」
「ええ。――お願いね、牡丹」
にっこりと笑った悠日に、牡丹もそれに軽く頭を下げてから姿を消した。
吐く息の白さに寒さの度合いを感じ、悠日は一度深呼吸をしてから、音を立てないよう障子を開けて部屋へ戻った。
「なんだってんだ?」
頭を掻きながら、【それ】を見てしまった彼は眉を寄せた。
白い髪。瞳の色は見えなかったが、それは明らかな変貌だ。
浮かび上がるのは、【飲んだ】可能性。
しかし、彼女が昼間を厭っている様子を見たことはないし、血への衝動を見たわけでもない。
だが、その変化はそんな想像をせざるを得ないもの。
佐幕方でも倒幕方でもない、と彼女は言っていた。
そして新選組に危害を与えるようなことはこれまでもなかった。
だが、彼女が何者なのか、依然として知れていないのだ。
分かっているのはこの京出身であること、変若水や羅刹の存在を知っていたことくらいか。
羅刹化した隊士を見、そのうえ千鶴や綱道の知り合いだからとここで見張っているが、果たしてそれが良い結果をもたらすかというと、悩ましいところである。
「……あいつは一体、何者なんだ…………?」
その疑問の言葉は、ひょうと音をたてて吹いた風に掻き消えた。
<第九花 終>
2013.9.29