第九花 暈持
その頃、千鶴は変貌した山南を前に恐怖で顔をひきつらせながら後ずさっていた。
白い髪と、赤い瞳。千鶴が京に来たその日に見た、あの新選組隊士と同じ容貌。
その説明を受けたのは、つい先ほどだ。
幕府から内密に請け負った、変若水という薬の研究。それは千鶴の父・綱道が命じられたことだが、その実験場としてこの新選組が用いられているということだった。
西洋から渡来したという劇薬。赤い色をしたその液体は、飲んだその人を狂わせるのだという。
その狂った人たちが逃亡し、街中で人を斬っているのだそうだ。理性を失って、血に狂うものは、化物以外の何者でもない。
その粛清にあたっているのは、事情を知っている幹部たちだけだとも。
改良すれば、一種の武器としてそれが使えるのだから、それを外部に知られるのはかなりまずい。
しかし、その研究は綱道がいなくなったことで歩調が狂ってしまったのだ。
それを引き継いでいたのが山南であり、つい先ほど、彼もそれを飲んでしまった。
『剣客として死に、生きた屍となれというのなら、人としても死なせてください』
そう口にしたのと同時にそれをためらいなく嚥下した。千鶴の制止も振り切った彼は、飲んですぐに苦しみ始めた。
喉を抑え、毒を口にした人のように。
だが、その震えが止まったのと同時に彼は千鶴を振り返った。先ほどまでの苦しむさまは全く見られない。
「……山南、さん……?」
「は……ははは……はははははははっ!」
以前見かけた、変若水を飲んだ隊士と同じく、奇妙な声をあげながら、迫りくる。
勢い良く伸ばされた山南の腕が、千鶴の喉元に迫った。
避けるまもなく、彼の手が千鶴の首にかかった。
同時に、喉を捻り潰さんばかりの力で首を絞められる。
「………っ、あぁ………っ!」
躊躇いのない力。狂気をはらんだ瞳。
獲物を捉えた獣のそれは、理性の欠片もない。
「……さ、んな………さ……っ」
絞められた喉から絞り出すような声を出し、千鶴は山南の腕をとる。
抗いを見せるその様子を、山南が捉えているのか。
緩まないそれに意識が遠のきかけた千鶴の視界に、ふと月光とは違う光が入り込んだ。
蛍のような光。しかし、その色は蛍のそれとは明らかに違う、紫。
その光は千鶴の山南の間に入り込むと、八の字を描くように何度も舞った。光の色が時折青や白を帯びた。
それを見た山南の瞳に、一瞬理性の光が灯ったのを、千鶴は見た。
緩んだ山南の手から千鶴が逃れ、急に入り込んできた空気に咳き込む。生理的な涙が頬を撫でた。
肩で息をしながら山南へ視線をやれば、彼はぼぅっとしながら光を凝視している。
何が起きたのか、千鶴には理解できていなかった。
分かるのは、山南が一時的にでも落ち着いたこと。
「……山南、さん……」
千鶴のその言葉と同時に、山南の瞼が落ちた。
糸の切れた人形のように倒れ込み、どさりと大きな音が響く。
光は、不規則に山南の周りを浮遊しているが、千鶴にはそちらへ向ける意識はなかった。
「山南さん! しっかりしてください、山南さん!」
揺さぶっても目覚める気配はない。
起きたらまたあの恐ろしいことが起こるのではないかという恐怖がないわけではないが、それでも心配なものは心配なのだ。
そんな千鶴の声や物音を聞きつけた幹部達が部屋にやってきたのは、そのすぐ後だった。
広間にいる千鶴の姿と倒れた山南の姿を見て、全員が眉を寄せたのは言うまでもない。
戸が開くと同時に、光は天井高くまで舞い上がり、そこを伝って広間の外へ出る。
「……なんで君がここにいるのかすっごく疑問だけど……まあ、この状況から察するに、たぶん知っちゃったのかな」
「総司、今はそれよりも山南さんだろ。今は落ち着いたとはいえ、これからが本当に苦しい時期だろうが。……ここに置いとくわけにゃいかねぇ」
「そうだね、とりあえず部屋に運ぼうか」
永倉の言葉に井上が頷き、倒れて意識のない山南を広間から運び出す。
残ったのは、近藤、土方、沖田、原田の四名だ。
山南が運び出されたことと、幹部の面々が来たこと、そしてそれまでの恐怖。
すべてが積み重なったためか、千鶴はほっと息をついたのと同時に意識を失った。