第九花 暈持
あれは、去年の十月末。
江戸から来た新入隊士たちの中でも重鎮級の彼を歓迎しようと、近藤たちが宴会を開いた時だ。
千鶴が接待のための食器を下げたりしている反面、悠日は陰で酒の準備や食器の水洗いなどを行っていた。
彼を一目見たその瞬間からあまり関わりたくないと思った悠日が、表に出ることを拒んだためだ。
それでも、挨拶はしないといけなかった。その時に、彼が名を聞いて目を見張ったのを悠日は知っていた。
知っている、ということだろうか。
それを牡丹も知っているから、彼女も彼を警戒しているのだ。
関わりたくないので、近寄りもしないし話しかけもしない。彼とは今でもそんな関係だ。
意味ありげな視線が向けられているのには気づかないふりをして今日まで来たが、それが長く続くとは思えずため息をつく。
考えていても仕方ないと再び手を動かし始めると、悪寒が背を走り、思わず動きを止めた。
同時に、背後から声がかけられる。
「あら、あなた」
声をかけられた悠日は、ぎくりと肩を震わせる。
噂をすれば影が指す。その通りの現状に、悠日はぎこちなく振り返った。
伊東甲子太郎。北辰一刀流の流派の道場主だった者で、文武に長けた人物だ。尊皇攘夷を掲げる者で、こことは少々異なる思想の持ち主である。
攘夷という面では意見が一致し、それ以外の面にも好印象を持ったらしい近藤が勧誘してきたのだが、それがこの新選組に良い結果をもたらすか否かと言われると、悠日は首を傾げるしかない。
しかし、居候という立場上口出しするわけにもいかないため、それは牡丹しか知り得ない気持ちだ。
「……どうも」
そう会釈をし、悠日は落ち葉集めを再開する。
さっさと去って欲しいと願う悠日の気持ち虚しく、彼は悠日へと近づいてくる。
「あなた、霞原悠日と言いましたわよね」
「それが……何か?」
「出身はどちらなの?」
ああ、この人は『知っている』。質問からそう確信し、悠日は彼を振り返った。
髪型は、嫌味なことに悠日のものと似通っている。これを提案したのは沖田なので気に入ってはいたのだが、同じだと考えると正直言って気分が悪くなる。
「……それを聞いて、どうなさりたいのでしょうか?」
普段からは見えない上に立つ者の目、表情。
警戒心を隠さないその瞳に気圧されることなく、彼はにこりと笑った。
「あら、答えられないのですか?」
「……この都出身、と申し上げておきます」
そう言うと悠日は踵を返した。
このままここにいても益はない。落ち葉集めは後に回そうと思い、立ち去ろうと足を踏み出した時、その手を掴まれた。
「少しお待ちなさい。もう少しあなたと話したいのですから」
「私のような者に一体何の御用でしょうか?」
暗に話しかけるなと告げるが、伊東は意にも解せずにどこか怪しげな笑みを悠日へ向けてきた。
「……あなたのような方が、なぜここにいらっしゃるのかしら?」
なぜ。そう言われると、返答に窮する。
この人間は変若水の存在は知らないのだろう。であれば、それに触れるのは大変危険な行為だ。
どう答えたものかと考え始めたのと、声が掛かったのはほぼ同時だった。
「あれ、君、こんなところで何してるの?」
聞き慣れた声に振り返れば、そこにはかなり不機嫌そうな表情でこちらを見る沖田の姿があった。
伊東に掴まれた手にその視線が行っていることから、不機嫌の原因はこれだろう。
「あら、沖田さん。なにか御用?」
「話があるから、すぐに来て欲しいって近藤さんが呼んでましたよ、伊東さん」
その沖田の言葉に、伊東はそうですかと言って悠日の手から自身のそれを離した。
「では霞原さん、また後ほど」
後ほども何も来なくて結構、と思い眉をひそめたが、気づいていないのか彼はそのまま立ち去っていった。
掴まれていた右手を左手で押さえれば、抑えていた震えがたちまちこみ上げてきた。
何度も深呼吸して自身を落ち着かせると、いつの間にか傍に来ていた沖田が顔を覗き込んできた。
「何の話、してたの?」
「私自身のことについて、訊かれました……」
知っている。『知っている』人間がいる。
そのことを改めて理解した悠日が唇をきゅっと引き結ぶと、訝しげな表情をした沖田が首を傾げる。
「それだけにしては、様子が変だよね? なにか変なことでもされたの?」
心配そうな表情に変わったそれに、悠日はどう答えようか返答に困った。
おそらく伊東が『知っている』ことは、沖田にも告げたことのないことだ。
そして、知られたくはない事柄でもある。
「何かされたわけでは……。確かに、手を掴まれたのは、ちょっとその、嫌でしたけど……。ただ……私がどこの誰か、分かっているような風情で……」
かなり遠回しに、しかし間違いではない返答。その最後の一言で、悠日が何を恐れているか、沖田は何となく理解した。
悠日が、追われていたことから、見つかりたくない、捕まりたくないとかなり慎重だったこと。
昔のそれを思い出せば、なんとなく事情は分かる。
「なるほどね」
「……沖田さん?」
誰が見ているともしれないため、未だに名字で呼ぶ悠日に、最初の頃こそ眉をひそめていた沖田だが、理解は示してくれて今に至っている。
そんな悠日の呼びかけに、沖田はにこりと笑った。
「ここにいる間は、あの人だって好き勝手には出来ないでしょ。大丈夫だよ。……それに、守ってあげるって、言ったよね?」
最後の一言に、悠日は顔を上げた。
これまでに何度も向けられたその言葉。真剣な表情に、悠日も根拠はなくとも安心できて、自然と笑顔になる。
「とはいっても、あの人との関わりはないわけにはいかないからさ、我慢してね」
そう言うと、沖田は悠日の手を握ってそのまま歩きだした。
先ほどの伊東のときとは違い、嫌悪感はない。
「あの……?」
「近藤さんの呼び出しには、君も入ってるからさ」
だから来て、と言われ、悠日は驚いた表情をしながらそれに素直についていった。