▼ 隣人の尾形さんについて
社会人となり一年と半年を過ぎ、ふと思う。あれ、今の部屋って手狭じゃない?
新生活に奔走していてあまり気に留める瞬間もなかったが、毎月安定してお給料が入ってくるこの生活。もう少し立地の良い部屋に引っ越しても良いのでは無いかと。
上京して最初に借りたこのアパートの光景は、私の東京暮らしの全てではあったが、利便性に思い出は負けた。
あばよ、私の大学時代の部屋よ。
そうして新たに借りた部屋は、築年数の割に綺麗で、かつ職場の最寄り駅まで一本で行ける路線の駅まで近ければ、近所にはある程度の生活に必要なお店もあり、少し自転車をこげば繁華街だってある。しかも風呂とトイレが別。
中途半端な時期の引越しだというのに、至れり尽せりの物件だった。不動産には感謝。私の運の良さにも感謝。
あまり物を持たないから比較的スムーズに終わった。家具の搬入を済ませれば、ほとんど荷物を開けることもなかった。
そうしてあまり遅くならない時間に、お隣さんへ挨拶に向かった。角部屋の人だ。逆のお隣さんは人が入っていないらしい。
昼と夕方の間くらい。休日だし家にいるだろうという目論見でチャイムを押す。
一回。少し待ったがインターホンから音は返ってこない。
二回。もちろん扉は開かない。
念のための三回目を押そうかと指を伸ばした時、特にインターホンを介することも無く、目前に扉が迫ってきた。中の人が開けたのだ。
「……」
特に言葉を発せず無言の隣人は、男の人だった。
黒目がちな瞳がじっとこちらを見ている。それがやけに威圧的で、心内で数度唱えていた挨拶がどこかへ飛んでった。
「どちらさん?」
低くて滑らかな声が耳に入り込む。
やっと意識が働き始め、わたわたと乾いた唇を開いた。
「あの、今日引っ越してきました。 #川口#と申します」
大したものではないんですが、と本当に大したことのないタオル詰め合わせを差し出した。
受け取りながら隣人さんはちらりと詰め合わせに視線を送った。
「ああ、どーも。尾形だ。よろしく」
簡潔に告げると、早々に扉は閉められた。
クールな人だ……。深い黒目と低い艶声の印象が強いけど、目鼻立ちが整っている美形さんだった。
とにかく不思議なオーラでも纏っているかのようで、なぜかふわふわとした浮き足立つ心地になりながら自分の部屋へ帰った。
これが尾形さんとのファーストコンタクトである。それ以上でもそれ以下でもない。
最初の想定では、お隣さんなのだから例えば平日の朝なんかは出勤時間とかが被って顔を合わせたりするのかと思っていた。良い声の美形だったから毎日拝めるのは眼福だなとか思いながら。
しかし、私が再び尾形さんと顔を合わせるのは、しばらく先の話である。
疲れた。足が痛い。鞄を背負う肩も痛い。頭もぼーっとしてろくに働かない。
ただ、まだ数ヶ月とは言え毎日反復しているから体が覚えているだけの行動を、淡々とこなしていた。
熱い湯船にとっぷり浸かりながらそのまま眠ってしまいたい……。でもそのためには浴槽を洗わなければいけないし、しかもお湯が溜まるまで待たないといけない。そんな体力はもう今日に存在していなかった。全部飲み会という名の接待に置いてきた。
防犯面を考えて三階の部屋にしたが、あいにくこの建物にはエレベーターなんてものは存在していないため、どんなに疲労が足へ沈殿していようとも階段を自らの足で昇らなければ部屋には一生辿り着けない。
もうやだー。座りたいー。寝たいー。
小さい子供のように泣きじゃくりたい気持ちでいっぱいだけど、大の大人だから我慢して階段を進んだ。
ちょうど、二階フロアの廊下にたどり着いた時だった。
「どうして? 部屋に上がらせてくれたって良いじゃない。もう疲れちゃった」
そこまで近所、もとい同じ建物内の住人との交流が深いわけでもないが、少なくとも聞いた記憶がある声ではない。
鼻にかかった甘ったるい声。絵に描いたような、いわゆる男ウケしそうな喋り方だな、と思った。あくまで私の主観である。
どう聞いても、第三者が関わると面倒くさいタイプの男女のアレコレっぽいやつ。
これ、まさか三階でやってないよなぁ。やだなぁ横を通ったりするの。四階でやっててくれないかなぁ。
四階建てのこのマンション、確率は二分の一だ。たった一言だけで察する、男女の修羅場の匂いに、面倒、関わりたくないとげんなりする。
「本命以外は上がらせない主義なんでな」
極め付けはそう言葉を返した声だった。
一度聞いただけだけど、忘れはしない。色気を纏うその声色は、絶対にどう考えても隣人の尾形さんである。
二分の一を引いてしまった。悪い方のくじを。
「ど、どうして……? 何度も会ってくれたし、それに、」
「いくらかセックスしたから本命だって? 俺がいつそんなこと言ったよ?」
んあー、男女のアレコレ、しかも恋人だと勘違いしちゃったセフレのやつじゃん。
この場でわかる情報だけで全てを察せてしまう。悲しきかな。
なんでこう、疲れて帰った日に限って最悪なケースの修羅場に遭遇してしまうかなー……。
流石に渦中に飛び込む勇気は無く、二階廊下から三階へ上がる階段数段目で立ち止まった。あと少しで昇りきれると思っていた反動からか、よりいっそう足の痛みは増した気がする。
「最低! 最低よ!」
「ぴーぴー喚くなようるせぇな。勝手に着いてきたのはそっちだろ。俺はもう寝るから勝手に帰れ」
うーん。絵に描いたようなクズ男台詞。まぁ女性側に非が全くないとも言いきれなさそうだけども。
引越したてに挨拶したきり、隣人の尾形さんと顔を合わすことはなかった。だからか、こういう人だったのか……と、美形補正なのか抱いていた良い印象が白いモヤとなって消えていく。
いやむしろ、美形だからこそ夜のお相手なんて選り取りみどりだし、あえて本命を作らないという選択すらできてしまうのかもしれない。私にはわからない感性だ。
尾形さんはその言葉を最後にして、女性が更に何を言おうが問答無用で部屋へ入ったらしい。扉を開けて閉め、鍵をかける音まで聞こえた。
となると、だ。
私の家は尾形さん宅の隣。ただいま締め出されている女性は扉前で立ち尽くしている。私が部屋に入るには、その女性と接触不可避。
嫌だ。嫌過ぎる。どんな顔して部屋に入ればいいのか。この場にいることがバレて欲しくなくて、なのにため息が止まらない。
早く帰りたいんだけどなぁ。
しかしこの場に留まるのも埒が明かない。仕方なし、なるべく足音はたてず、そしてさも「今帰ってきましたー何も聞いてないですよー」という空気をかもし出して遂に三階へと上がりきる。
さめざめと涙を流す女性がそこに。艶やかな長い髪が印象的だった。……きっと、お洒落してきたのだ。彼氏だと思っていた男性の家に泊まるつもりで。
「……こんばんは」
無視するのは気が引けて、小声ながらに挨拶する。返事を期待したわけではないのだが、勿論声は返ってこなかった。
もし、本当に尾形さんとのやり取りを聞いていなければ、ドアの前で立ち尽くしている女性に一体どうしたのかと声をかけただろう。己の疲労も忘れて。
しかし、私は、現在の肉体的疲労と心労、そして関わったら十中八九面倒であろう関係性と、精一杯の人としての善意を天秤にかけた結果、前者が大きく傾いている。
結局、相手の返事が来ず、来ないからこそいつか来るかもしれない返事を待つこともしないまま、素知らぬ顔で帰宅したのだ。
「で、そのチケットが余ってるって?」
「そうそうそう! 正直取ろうと思っても取れないレベルのやつだから、#雫#さえよければ一緒にどうかと思ってさ」
仕事の休憩時間がたまたま被ったので、大学の頃からの友人に誘われた。
会社から徒歩圏内の小洒落たカフェだ。木造建築のような内装は、不思議と落ち着く。
お昼時のせいか人入りは多かったが、テーブル同士の感覚が広めにとられているからか、各々の会話はそれほど気にならなかった。
デミグラスソースのかかったトロトロ卵のオムライスを頬張りながら、友人は紙切れを差し出してきた。
「うーんでもなんか、コネで行くみたいんでなんかやだな」
「いやいや、一人分の座席には変わらないよ。相変わらず、真面目だねぇ」
真面目というか何というか。ただ、自分の気持ちの問題というか……。
煮えきれずに行くとも行かないとも言わないまま、残り少なくなってきた和風たらこパスタを手持ち無沙汰にフォークに絡める。
「私なんかより、麻衣の同僚とか誘った方がいいんじゃない?」
「えー、絶対好み違うもんウチの人たち。観た後言い争いにみたいになるし、後日影響受けて云々ってつつかれるしさぁ。その辺、あんたなら好みも合うし」
麻衣の同僚というか、仕事仲間というか、の人たちの顔は知っているので、確かに我が強そうな感じだもんなぁと納得してしまった。
そうか。本業の人の方が意見交換とか、己の糧にできる分一緒に行くことも良いことだと思っていたけど、そうでもないのか。
「その日予定無いなら良いじゃん! 行こうよー」
それまで、駄々をこねる子供のような表情だった麻衣の空気が変わる。
ああ、気を遣われてるなぁ。
「それとも、もう触れるのも嫌になっちゃった?」
そんなことはない。
即答していた。
ただし、声には出せなかった。
どうしてもお芝居の勉強がしたくて、そして上京がしたくて、私は有名芸術系大学の受験を決めた。高校一年生の秋頃のことだ。
家族には猛反対された。生まれも育ちもずっとこの故郷の人たちだ、東京には色んな話がありすぎて得体が知れないのもわかる。
でも、どう頑張っても、この東北の地で過ごしていたら役者にはなれないし、芝居に携わる仕事にだって就けやしないのはわかっていた。
だから、まず金銭的な自立をしなければと、今考えれば地方の安い最低賃金だったけど、必死にアルバイトをした。
もちろん勉強だって頑張った。学力は無いよりあった方がいい。
とにかく必死に毎日を生きていた。
最後まで家族には賛成されなかったけど、でも有名大学を合格できた頃には、上京するにあたって、一人暮らしをするにあたっての様々なことを教えてくれた。
自分の力で手に入れたような、でも結局は身近な人の手を借りなければここまでは来られなかったと確信している。
大学進学と共に上京をし、我武者羅な大学生活を過ごした。田舎の方言もなるべく早く封印して、芝居に関するあらゆることを前のめりに学んだ。
プロの役者になるべく必死だった。吸収できることは全て吸収する勢いだった。
やれることは全てやった。つもりだった。私的には。
大学卒業まであと一年が切った頃。私は未だ、プロの役者としてやっていける気配は微塵もなかった。学んだだけの、四年間だった。
久々にそこの引き出しを開けた。多分、箱の中身は若干湿気っているけど、別に気にしない。湿気ってる煙草の方が吸いやすい気がするのは私だけか?
前に吸ったのはいつだったか。就職して少ししてストレスに負けて、学生時代と同じ銘柄の煙草を買ったのが最後だったっけ。おそらく、その時の残り。
数本残っていた。あの時だけでどれだけ吸っていたのか。
換気扇の下で吸うことも考えたが、結局やめた。煙草の箱とライターを持ってベランダへ。
ガラス戸を開けてベランダ用のスリッパに足を入れる。秋も深まってきた今日この頃。素肌で吐くには少し肌寒かったが、己の体を顧みる気持ちではない。
へりに腰を下ろしてから、煙草を一本咥える。先端を炙りながら吸い込んだ。
一年ぐらいぶりの有害物質が体を蝕む。ああ。この味。この匂い。
自ら体を痛めつけているこの瞬間は、最高に生きているという感じがする。
肺いっぱいに毒ガスを吸い込んでから、大袈裟に吐き出した。
「はぁー…………」
白い煙が眼前を覆う。煙草の匂いに包まれた心地だった。
「……へぇ。あんた、煙草吸うんだな」
不意に人の声が聞こえた。距離は近いはずだが、姿はもちろん見えない。
聞き覚えのある声ではあった。そんな高い頻度で聞いたわけでもないのに。いい声だと思ったから、記憶にこびりついてから、声の主が誰かはすぐわかった。
尾形さんだ。隣人の。おそらく、この人もベランダにいるのだ。今。戸を開けて。すぐ隣に。薄い仕切り板越しに。
「まぁ、たまにですけど」
何故、こちらが今一服していることに気付かれたのか。
いや、これだけ白い煙を天に上らせていれば、嫌でも気付くだろうか。
「男の趣味か?」
表情は一切見えないが、笑みを含んでいるのはわかった。
なんだろうな。そのむっとするような言い方は。
「…………」
しかし、図星であるから上手いこと言い返せない。
「ふん。大方、学生の頃にでも男に仕込まれたか」
「なんで、わかるんですか」
「んなの、銘柄でわかる。女は吸わねぇだろ。んな男受けすんの」
モノクロでシンプルなパッケージを見ながら、確かにあまり女性が吸っているのを見かけたことはないと思い出す。
当時、お付き合いをしていた男の匂いを身近に感じたくて吸い始めたのは、果たして仕込まれたと言えるのだろうか。
一応会話をしている相手がいるものの顔が見えるわけでもないので、適当な相槌をうつわけでもなく少し黙り込んでしまった。
「別に。好きで吸い始めたし。あいつのことは関係ないし。頻繁に吸うわけでもないし」
言い訳のような音の羅列が出てきた。完全に独り言の声量だった。
だというのに。
「ろくな男じゃねぇな。男を見る目ないんじゃねぇのか」
腹の立つことしか言わない人だ。
「余計なお世話ですー。貴方だってこの前……」
玄関で可愛らしい女の人を泣かせてたじゃないですか。
言いかけて、口は開いたまま続きは言えなかった。尾形さんは、あの時私があの場所にいたことを知らないはずだ。それに、いかに相手がづけづけとものを言ってたとしても、それは私も同じことをしていい理由にはならない。
理性で止めた。それは私の最善手だと思っていた。しかし、残園ながら尾形さんの察しの良さはピカイチだったらしい。
とても小さな声だが、「見てたのか……」と溢れたのを私だって聞き逃さなかった。
そして、そのあと、長く息を吸う音。……吸っているのだ。尾形さんも。煙草を。
その音が聞こえた瞬間、私は無性に恥ずかしくなった。素性のわからない彼の、プライベートの一端が覗けたような気がして。
「すみません。不躾に言い過ぎました。失礼します」
居た堪れなさに負けてしまった。私は大して吸えてもいない、ほぼ灰になってしまった一本の火を消して、すぐにガラス戸を閉め切った。
無音の自室に戻ってからだ。心臓の鼓動がドクドクと激しく音を立てていることに気付いたのは。
悩んだ。悩みに悩んだ。その間に友人から、件の劇のチケットは郵送されてきた。私以外に渡す相手はいないらしい。観に来るも破り捨てるも、お前の好きにしろということだ。
前日の布団の中まで考えていた。結果、観に行くことにした。
平日の夜公演。仕事を終えて劇場に向かうつもりが、電車のタイミング悪い人身事故により遅延。開演時間ギリギリに劇場へ入ることになってしまった。私以外にも同じ路線を使っている観客はいたそうで、全員で身を縮こまらせながら着席した。
間に合うか焦る気持ちに持っていかれて、移動時間に確認しようと思っていた演目の情報を調べ損ねていた。事前知識のない完全初見。
最近評判の良い劇団なのはわかっている。ぼったくりのような内容ではなかろうが、何もわからないで観るというのはなかなかに心臓は高鳴った。
バイキングのような、劇だった。
オムニバス形式で、短編が何作も連なっている構成だった。とある話ではコメディ。とある話ではシリアス。大道具が一切用意されていない素舞台で素舞台で、主に劇団員のパントマイムや小道具だけで物語が成立している。
面白かった。そして役者が良かった。プロの実力をまざまざと見せつけられた。私にはできない。
途中までは、ただのお客さんとしてこの演劇を心の底から楽しんでいた。途中までは。
一編に二人から四人が登場している中で、たった一編、たった一人だけで芝居をする場面が訪れた。
一人芝居。演者の実力が、露骨に現れる。
そこに立っている人が、尾形さんだった。隣人の。挨拶がそっけない。女性とトラブルを起こしていそうな。煙草をベランダで吸っている。尾形さんが。そこに立っていた。
舞台上にある演出といえば、彼だけを手前から照らすピンスポだけ。暗がりの中、舞台中央に立ち尽くす尾形さんが、一人芝居を始める。
今回の劇を一本通して観た中でも、ここだけ異様な雰囲気があった。存在感が良い意味で浮いている。独特な空気感が終始流れていた。何を言っているのかわからないようなわかるような。前衛的で芸術的な時間。
彼の表情の数ミリの機微。指先を数センチ動かすことさえ、全て計算されているかのような。
目が離せなかった。舞台上には彼しかいないのだから、他に見るものがないという前提があるのに、そういう問題ではない。暗い中、光の中心に立つ彼は、異彩を放っていた。
私はすっかり忘れてしまっていた。今、目の前で演劇をする人間が、隣人であることを。
終幕後。劇の感想をあれやこれや、友人と交わした。
最後まで、一際存在感を放っていた尾形さんが隣人であることは言えなかった。
お金をとって劇団を運営しているようなプロの役者の実力をまざまざと見せつけられると、やはり私にはプロの道でやっていくのは無理だったのだな、と諦めもつく。
なのに。どうして。最も心を動かされた役者が、今住んでいる家の隣に住んでいるのか。
日常の中で過ごしている様を、誰でもない私が感じているからこそ、身近にいる人間が欲しくて欲しくて努力したのに掴めなかった才能を持っていることを知ると、体の奥底がぐつぐつと煮えたぎる思いだった。
観劇という非日常は儚くもたった数時間で終わる。
そうしてまたしがない社会人としての生活を過ごして、早数日。
会いたくなかった隣人との顔合わせは、以外にも早かった。
あれだけ被らなかった帰宅時間が、ついに合ったのだ。
「この前、来てただろ」
夜の挨拶も早々に、尾形さんはまるで新しい玩具を見つけたかのように、心なしか嬉しそうな、そして意地の悪い表情で言った。
舞台上から見えていたのか。そして、あ、あそこに隣人がいるなって認識したのか。
意図せず良いと思ってしまった手前、気恥ずかしい感情。そして、ただの隣人のことをこの美丈夫が覚えていたのかという、嬉しい感情。何より、あれだけ素晴らしい演技を見せつけた男が、今同じ高さの場所に立ち隣で生活しているという、嫉妬心。全てが混ざり合ってくんずほぐれつ。私は自分が今、どんな表情をしているのかわからなかった。キャパオーバーだ。
「関係者席にいたな。同業か?」
そう。さっさと家に引っ込んでしまえば良かったんだ。
いつもと同じ場所に入っているはずの鍵をもたもた出しているせいで、タイミングはすぐに足が生えてどこかへ行ってしまった。
「……友人が」
無性に喉が渇いていた。確かに乾燥の季節は近い。悲しいかな。口の中を湿らせて、唾液を飲み込んでも何も改善されなかった。
必死に返した言葉、カスカスの声だった。
「ふーん。あんたは?」
探るような目つき。黒目が私だけに向いている。そして、その奥まで見透かそうとしているような視線。
「私は……」
役者になりたかったけど、なれなかった。実力不足を痛感して、社会人へ逃げた。
プロの役者であり、人の心を惹きつけられる実力を持っている人に、告げるのはあまりにも気が引けた。
尾形さんからの視線に耐えられなくて、目を逸らす。
しかし、その直後に、何故か腕を取られ、彼の方へと引き寄せられた。
「来るか。うち」
引かれた腕の先、私の手にはやっと引っ張り出せた私の家の鍵が握られている。
「鍵。無くしたんだろ」
そんなわけはない。私の家の鍵は、今、ここに、手で持っているのだから。
尾形さんの指が、優しく私の掌をほぐし、そして鍵を奪われた。
何を言い返すことも抵抗することもできず、私はその鍵が尾形さんのだるだるのスウェットのポケットへ滑り込んでいくのを見つめていただけ。
掌をくすぐるように尾形さんの指が撫でたかと思えば、間髪入れずに私の手は握り込まれてしまった。
「良い顔してるぜ。あんた」
怪しい毒のような声が聞こえたのは、扉の閉まる音と同時だった。
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