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▼ 仁王雅治

 地獄は此処にあったらしい。あの部屋に居座るのはどうにも居心地が悪く、滞在もそこそこに出てきてしまった。ぶらぶらと近所を歩いている内に、いつの間にか海沿いの公園に足が向いていた。平日の夕飯時。いくらここがデートスポットとは言え、人影は多くはない。潮風が仁王の前髪を揺らす。確かに最近は涼しくなってきた。しかし暑いよりは幾分もマシだった。このまま家に帰る気にもなれず、適当に数m歩く内にベンチが目に入る。仁王はそこに腰を下ろした。
 あの部屋こそ地獄のような空気になっていた。いや、してしまったのは己自身ではあったものの、あの部屋からさえ抜け出してしまえば、この底なし沼に足をとられもがく程に沈んでいく状況から抜け出せると思っていたが。地獄はなかなかこちらから足を離してはくれない。
 夜の海は黒い。海沿いの繁華街が煌々と輝いている反面、水面にそれらが反射してもなお、海は吸い込まれるような黒だった。まさしく、地獄に相応しい光景だ。
 ずり下がった眼鏡を押し上げる。かちゃりと音が鳴る。眼鏡をかけるのも久々だった。
 ぐう。お腹が鳴った。地獄でもお腹は空くらしい。夕飯を共に食べるつもりで訪ねた。予定では、今頃は笑い合いながら適当な会話なんて交わし、和やかな雰囲気で共にいる空間を楽しんでいる想定だ。
 ふと、人影を感じた。距離感の近い男女が歩いている気配がする。ああ、やめんしゃい。今は虫の居所が悪い。はよどっかへ行ってくれ。
 仁王の願いは虚しく、人影の片割れ、長身の方がこちらへ近付いてきた。ベンチの目の前で足を止める。話しかけられるような気がして、仁王は顔を隠すようにうつむいた。これで後頭部しか見えないはず。

「お前……。仁王か?」

 この声は、参謀だ。中学の同級生であり部活仲間の、柳蓮二。面倒な男に見つかってしまった。彼の前では中途半端な誤魔化しは通用しない。なまじ付き合いが長い弊害だ。
 仁王は勿体ぶるように顔を上げた。元々長身だというのに、飽きもせずまた身長を伸ばした参謀を座りながら見上げるのはなかなか首が痛い。どうにでもなれ、という感情で、仁王は柳を睨みつけた。

「いえ。私は紳士、柳生比呂士です。仁王くんなどと間違えないでいただきたい」
「……そうか。それは失礼した。てっきり仁王が柳生に変装しているように見えてな」

 ほらな。面倒な男だ。子供騙しは通用しない。

「ところで柳くん、お連れの女性がそちらでお待ちのようですが?」
「急用ができたようだ。たまたま見つけた凹んでいる友人と話してこいと、送り出されてしまった」

 自分とのデートよりも友人を優先させるような彼女。なんていい女だろうか。

「それは……。随分とできた女性なのですね」
「ああ。俺には勿体無いくらいにな」

 畜生。どいつもこいつも乳繰り合いやがって。

「それで? 柳生は何故、こんな場所で浮かない顔をしているんだ?」
「おや。ご自慢のデータで推察もできるのではないですか?」

 挑発のつもりだった。腹いせとも言う。足を組んで体勢を楽にした。参謀はしばし考え込んだ後、仁王の右隣に腰を下ろす。そして足を組む。身長差のせいで、柳の方が幾分か足を持て余していた。

「ふむ。女連れの俺を見た途端、視線を逸らしていたな。となると女性関係で上手くいかないこともあったのだろう。しかし、おかしいな。俺の見立てでは、柳生の意中である彼女とは相思相愛と踏んでいたが。それが何故、まるで振られたかのような振る舞いをしているのか」

 本当にこいつは意地が悪い。

「傷心ならヤケ酒にでも付き合うか」
「やめてください。まだ10代ですよ」
「ほう? 今は11月だ。柳生の誕生日は10月。未だ酒が非合法なわけはないのだが。今ここにいる柳生は、12月生まれか?」
「……あー、負けじゃ参謀」

 掌を見せながら腕を上げる。降参ポーズをとっておどけて見せたが、柳はちっとも笑わなかった。

「仁王。お前まさか、柳生が好きな女の前にその姿で、」
「…………プリッ」
「……悪手が過ぎるな。それならば、そのくっきり付いた手形も納得だ」

 わかっていた。好いた女が自分を向いていないことは。その熱烈な視線が己ではなく、よりにもよって唯一無二の親友に向いていることも。その親友も、彼女へ向ける視線に熱がこもっていることも。誰よりも近くで見続けていた2人の動向に、仁王が気付かないわけはなかった。
 それでも、彼女との関係を先に深めることができたのは仁王の方だった。彼女の生き方を、これまでそうやって生きてくることしかできなかった彼女の在り方を利用した、最低最悪の方法で。しかし悲しいかな、一向に柳生に勝てる気はしなかった。彼女の恋人には、仁王は決してなれなかった。その関係だけは、決して許されなかった。
 魔が差したのか。この状況を打開するための行動だったのか。仁王自身、早く諦めを着けたかったのか。わからない。決して好転はしないであろうことは容易に想像ができたはずだった。それでも行動に移してしまった。
 彼女の前にこの姿で立った時、彼女が焦がれる柳生比呂士ではないと、わかっていることが仁王にもわかっていた。その状態で、この顔で、その仕草で、このままに迫った。途端、彼女の顔つきが変わった。今まで何度も関係を持ったのに、全く見たことのない視線を向けられた。いや、その視線の先が己ではないということを、仁王は重々承知していた。なのにも関わらず、止まれなかった。
 熱視線。高揚する頬。赤らむ顔は何度も見た。あられもない姿も見た。声だって聞いた。なのに。一度たりとも自分の前では見せなかった、まるで恋に落ちた乙女のような表情で。たった一言。自分ではない男の名前を呼ばれた。その男が好いた女にどんな口付けを落とすかなど、知る由もない。知りたくもない。だが、おおよそあの男がしないような、乱暴で力任せのおよそ暴力のように唇をぶつけた。
 彼女からの重たい一撃は、仁王の酩酊を醒ますのにはうってつけだった。

「のう参謀。あまり彼女を待たしなさんな。はよ行きんしゃい」

 仁王は眼鏡を外し、忌々しくも整えられた前髪をぐしゃぐしゃにした。

「あまり長居はするなよ。風邪を引くからな」
「体調管理も選手の努め、じゃろ。耳にタコできとる」
「わかっているなら良い。柳生にもよろしく言っておいてくれ」

 今、柳生の話をするのかこの男は。信じられん。目は口ほどに物を言っていたらしい、仁王の視線に柳はクスリと静かに笑った。
 参謀と彼女が立ち去った後も、しばらくは仁王はその場にいた。変わらず黒い海を眺める。地獄には、竹馬の友もその辺を彼女とほっつき歩いているらしい。意外と悪い場所でもないもんじゃな。
 相変わらず空腹だった。仕方があるまい。コンビニに寄って、何か食い物を買って帰ろう。
 そうしてちんたら歩いて最寄りのコンビニで買い物をしている最中、絶妙に距離感の近い柳生と件の彼女が来店し、更なる地獄を味わうのはまた別のお話。


240208



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