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▼ 柳生比呂士

 ご飯が炊けた。炊飯器の軽快な音楽が、広くはない部屋に広がる。噴き出る蒸気と共に炊き立ての香しいお米の匂いが鼻に届く。夕飯時には少し遅い程度の時間だが、柳生の腹はあまり空いておらず、食欲も湧き上がらなかった。

「とりあえず、1合炊き上がりましたよ。ちゃんとご飯、食べてくださいね」

 パステルカラーの2人がけソファーに寝そべる彼女へ声をかけるも、返事はない。
 異性を一人暮らしの家に上げておいて、無防備にもこの人は眠ってしまえるのか。日頃、自分のことをあれだけ男性として意識しているような素振りを見せておいて、この人はそんな残酷なことを軽々しく行なえる人間だと。そう思うと、心内は掻きむしられたように穏やかではいられない。いや。柳生はこれまでの彼女とのやり取りを思い返してみても、翻弄されてばかりだったことを思い出す。

「寝るならば、何かかけてください」

 リビングと壁一枚隔たれた寝室へ繋がる扉へと目を向けた。流石にその向こうへ踏み入り、寝床から何か羽織レルものを頂戴できるほどのデリカシーの無さも、……度胸も柳生には無かった。
 部屋一面を見渡しても暖を取れるものは見当たらない。代わりに目に入るのは、柳生でも知っているようなブランド品の鞄や、乱雑に放っておくには勿体無いであろう値段のする衣服の数々。自分たちの年齢、学生である身分を踏まえると、その高級品たちを手に入れるための金銭はどこから湧いてくるのか。彼女の『お金の稼ぎ方』を知っている手前、あまり視界に映したくはない代物たちだ。
 仕方があるまい。何も無いよりはマシだろう。そういえば部屋に上がってから脱いでいなかったジャケットを、彼女にかけてやろうと片腕から脱ぎ始めた。

「ん。比呂士くん、ありがとね」
「……起きてるじゃないですか」
「なに、急に脱いで。寝てる私に何か、悪戯でもしようとしてるの?」

 比呂士くんのえっち。むっつり。
 いつもより細められたまあるい瞳。桃色に色付いた頬。血色の良い唇は柔く、弧を描いている。もう秋だというのにやたらと薄い襟口は、彼女が今まで寝そべっていたためによれてはだけ、白く綺麗な鎖骨をいつもよりも露わにしていた。下着のストラップも見えてしまっている。色は、薄い紫。
 柳生が生唾を飲み込み、ジャケットを脱ぎかける手に力が入り、彼女の肌を凝視していることに気付いた時。その時にはもう、彼女の柔らかく小さな手はジャケットを脱がし終えていた。

「いいよ。比呂士くんなら。私。何されても」
「なっ……にを、」

 落ち着け。落ち着くんだ柳生比呂士。内なる紳士を呼びおこせ。今日は休日では無いはずだ。仮に休日だとしても、今日は、今は、何がなんでも出勤してもらわなければ困る。
 体の芯からガチガチに固まってしまったかのようだった。背中はソファーに沈められ、腹上には彼女の重みを感じる。まずい体勢だ。
 長い髪が彼女の表情を隠している。彼女の真意が上手く読み取れないのは日常的ではあったが、どうにも腑に落ちない。思わせぶりな態度を向けられることはあっても、ここまで露骨な肉体の接触をされたことは一切無い。
 酷く疲れきった様子で電話をしてきたのは彼女の方だった。携帯電話に彼女の名前が映し出た瞬間、反射的と言っても良いほどの速さで通話を開始した。名前を呼びかけても、彼女の返事はなく、か細い声で名前を呼ばれた時、柳生は居ても立っても居られずに彼女の居場所を聞き出して押しかけた。何も話そうとしない彼女がボソリと「お腹空いたかも」とこぼしたのを聞き逃さず、とりあえず家主の許可を取ってお米を炊いたのだ。
 彼女の上半身が、柳生の腹と密着した。柔らかい感触に理性が遠のきそうになる。それでも、体勢が変わったおかげで髪の隙間から覗いた彼女の表情を、柳生は見逃せない。

「……そんなひどい顔をして、何があったのか、伺っても?」
「…………」

 先日、付き合いも長くなったクラブメイトでありダブルスパートナーでもある彼から、「あいつと会う」とは聞いていた。彼女は先ほどまで会っていたのだ、彼と。そこで何かがあったのか。彼女のこの浮かない表情と何か関係があるのか。彼……仁王雅治も、彼女を異性として好いているのは柳生だってわかっていた。だというのに、彼は彼女にこんな表情をさせるのか。彼だって彼女を大切に想っているはずなのに、どうして。

「やはり、話していただけませんか」
「比呂士くんには、言いたくない。ごめん」

 その口ぶりではまるで、自分にだけは伝えたくないかのようではないか。柳生の胎の底は沸騰した。親友とすら思っている友人が、恋敵としてどんどん憎くなる。大切にしたくてたまらない彼女を傷付け、あまつさえ自分だけを除け者にし共通の秘密を作っている。駄目だ、怒りを向ける矛先を誤ってはならないと理性がサイレンを鳴らす。耳鳴りのように頭に鳴る。ああ、うるさいな。とてもうるさい。
 見慣れぬ天井から、泣き腫らした瞳でこちらを怯えて見つめる彼女の愛らしい顔へ、柳生の視界が変わった。そう気付いた時には、もう止まれなかった。止まれない場所まで、柳生はいつの間にか、のこのこと来てしまっていた。
 20年そこそこの人生。今まで、好きになった異性もいたし、女性とお付き合いをしたことも、愛情表現の一環で、唇を重ね合わせたことも、体を許してもらったことも勿論あった。年齢の割に、経験を積んでいた自負もある。しかし、今まさに感じている唇の熱、柔らかさ、味、どれをとっても今までの経験は全ておままごとだったかのように鮮烈だった。
 彼女に脱がされてそのままになっていたジャケットが、どうやら今は柳生と彼女の間にあるらしい。くちゃくちゃになって、とにかく邪魔だ。しかし、取り払う余裕は無い。
 貪る唇の間から、彼女の可愛くそしていやらしくもある苦しげな吐息が柳生の耳に届いた。今まで全く聞こえていなかったが、もしかしたら柳生の余裕が無いために聞こえてこなかっただけかもしれない。これ以上に無茶をさせれば、呼吸が困難か。ピッタリと重なりあっていた唇同士を、名残惜しくも離した。
 絶え絶えな彼女の荒い息遣いが唇を掠めていく。頼むから、軽蔑した眼差しで睨み殺してほしい。浅ましくも己の欲望に、本能に抗えなかったこの私を、恐れ、心底嫌って、離れていってほしい。
 そう思っていたのだ。本当に。彼女を見るまでは。

「……なんて目で見てるんですか」
「言ったじゃん。私、比呂士くんになら何されてもいいって」

 なまじ、今までの経験値があるせいだ。柳生の目に映る彼女の瞳の色、表情の機微は一体何なのか。目は口ほどに物を言う。なんて偉大な言葉だろう。
 わかってしまった途端、柳生は全身が発汗し、このまま燃えてしまうのではと錯覚するほどに体が熱くなった。勝手に焦がれ、勝手に嫉妬心を爆発させたのも、全ては1人相撲だったとでも?

「あはは、絶望的な顔してるのに体は正直だね」

 彼女の手は、今最も触れられたくない箇所へと伸びており、絶妙な力加減で触れてくる。

「やめなさい。これ以上は、絶対に駄目です。せめてご両親に挨拶を済ませてからでないと……」
「うわ、重。しかもめっちゃお堅い。さっきまでめちゃくちゃにベロチューしてたのに」
「くっ……」


240204



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