▼ 東雲荘一郎
やわく温かな手をそっと握る。その手が思いの外小さいことを、泉谷は知っていたはずなのに、まるで知らなかったかのように力が入ってしまう。
「……明日、やっと真犯人と接触ができる。これが最後のチャンスだ」
「はい。知っています」
東京のネオンはまばゆく、夜空の星さえも照らしてしまう。月も高く風も冷たい。ビル屋上なのだから、尚更だ。手すりを掴む彼女の手は、どんどん体温を奪われていくかのようで。泉谷はいっとう、握る力を強めた。
「この事件が終わったら、俺のために時間を作ってくれ。今度は、二人きりで」
「……はい。待ってます」
泉谷と彼女の視線は交わる。触れ合っているのは、たった手だけだ。
男性スタッフの「カット!」と通る声が響く。一気に視界が開けて、そこは想い人の探偵さんと二人きりの夜の屋上から、寒空の中敢行されるドラマの撮影風景へと様変わりする。
はぁ。緊張した。ドラマの中でも後半、特に盛り上がるシーンの撮影は本当に気が休まらない。些細な何気ない細かい動作も、見ている人にとっては意味のあるものになりかねないのだ。それでいて演じている人間の心情にも寄り添わなければならない。
大手事務所に所属しているとはいえほぼ無名の役者である私が、コアなファンを獲得しているという配信ドラマ『街角探偵の事件簿』の新シリーズにてレギュラーをオーディションで勝ち取ったことは、本当に幸運なことだ。前シリーズから離脱した刑事の後釜として配属された新人刑事役。加えて主人公である探偵さんと親密な関係になるような役柄なので、緊張も一入である。
「お疲れさまです。寒くはないですか?」
映像チェックも終わり、次のシーンへの準備に取り掛かる慌ただしいスタッフさんを尻目に、演じる人間は邪魔にならない位置で待機中だ。真冬の、それも夜中の撮影なためにとにかく寒さとの戦いで、もこもこのコートを衣装の上から羽織って縮こまっていると、声をかけられた。
「スタッフさんから温かいコーヒーを頂いてきました。二つあるので、良ければ」
「あ、ありがとうございます。いただきます!」
ドラマの主人公である探偵役、東雲荘一郎さんは、演じている泉谷先生とはうってかわって、とても丁寧で柔らかい物腰の人だ。……これで本業は俳優ではなくアイドルであり、現役のパティシエでもあるらしいからすごい。驚きだ。神はこの人に何物も与えている。
東雲さんから頂いた缶コーヒーは温かい。かじかんだ指先に痺れるように温かさを伝えてくれた。わざわざ私の分まで貰ってきて頂いて、頭が上がらない。
「すみません、こういう時、若い私の方こそ動かないといけないのに…」
「いえ。お気になさらず。若いと言っても、そんな歳変わらないじゃないですか」
「あー、確かに。うーんと、えー、ほら、東雲さんは他にもお仕事なされてますし、そちらに支障が出ても困りますから…」
「え? ああいや。そんな、かしこまらなくても。存外、丈夫なものですよ。お菓子を作っていると、熱いのも冷たいのも慣れますし」
「そうなんですか。やっぱり、すごいですね東雲さん。三足の草鞋じゃないですか」
「そうは言いますが、私からしてみれば芝居の道を極める貴女は美しいですよ。こんなに寒いのに、お芝居の間はそんなこともおくびにも出さないわけですし」
「うつく、なん……?」
「……今度、新作を食べてくれませんか。できれば二人きりで。なんて。ちょっと雑な口説き文句過ぎますかね?」
冗談なのか本気なのか。測りかねて東雲さんの表情を伺うも、まだ親交が深まっていないせいで何もわからない。おかしい。寒さがどこかへ行ってしまった。
240106