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▼ 獅子王司

 昔、I LOVE YOUを、月が綺麗ですねと訳した人がいたらしい。
 今宵の月は欠けている。三日月。よりも痩せこけている。しかし、こんなにも明るい。
 揺れる海面に反射する月の光は、さながら水平線への道しるべの如く輝いている。満月でもないのに、嫌に明るい夜だった。
 ざりざりと粗い砂を踏みしめて海岸を歩いた。海の方へ。灯りは月光のみ。この辺りには集落もなし、人も基本的に寄り付かないから、漣の音に鼓膜が占領されている。
 薄い靴越しに、何か硬いものが足に触れた。砂から顔を覗かせるのは貝殻。暗いために色まではわからなかった。可愛らしい、二枚貝。
 貝を目にすると思い出す。以前、司が話してくれた。人魚姫が大好きな女の子の話と、その子のために貝殻の首飾りを作った男の子の話。
 彼は決して、その男の子が自分であるとは言わなかった。が、彼の妹と対面した時、やっぱりな、と思った。
 格闘技に精通する兄が居て、成り行きで石化を解かれた私と司の関係は、友達というには距離が近かったし、しかし恋人という間柄でもない。彼は女性にモテたし、彼が私を選ぶにしては私は平凡過ぎると思う。
 格闘家の兄が大切にしている妹。司が私を復活させたのは、多分、己と妹の境遇から他人事ではなかったからだ。兄の立場である彼は、妹の立場である私を放ってはおけない。兄という人種は、生まれながらにして妹に優しい。それが私の常識だ。
 一度、不慮の事故で体が密着したことがあった。男女かつ仲が良いという認識を周りにされていたために、ひょうきんな者たちに唆され、体の軽い私は司に抱き止められた。
 学生時代に付き合っていた男性とは、まるで違う体つきだった。本能に告げられる。この獣には、天地がひっくり返っても太刀打ちできない。生物としての敗北感。そして、服従するしかない心地よさ。
 彼が気づいていたかは、今でもわからない。この時、唇が触れ合った。少しだけ。ままごとのような。固くたくましい彼の身体のはずなのに、そこだけは柔かった。


 でも、まさか。あんなに強い司が瀕死の重傷を負い、苦し紛れの延命措置としてコールドスリープを施されるとは。……彼と話すことができなくなるとは、思いもしなかったのだ。昨日まで。全く。粗暴な男たちとなんやかんやと過ごして。石神くん率いる人たちともなんやかんやと打ち解けて。未来ちゃんとも仲良くなって。司ともまた、取り止めもない会話をするのだと。
 彼が眠って、まだ数時間。一日も経っていない。
 最後にした会話はなんだっただろうか。彼の命が危機に瀕していることに心がぐちゃぐちゃになって、何を口走っていたかも思い出せない。視界は涙で滲み、周りの音も彼の声もまともに聞き取れなかった。
 あーあ。二度と会えなくなることが、こんなにも辛く寂しいと思うだなんて、思いもよらなかった。こんなことなら、もう少し、自分が、彼にどんな感情を抱いていたのか、伝えるべきだったのだ。と言っても、つい先日までは兄に対する感情と大差ないと思っていたのだけども。
 川沿いを上って、そのうち彼の眠る滝までたどり着いた。石のように眠っている彼の姿なんて見たくはなかった。装置に近づく勇気がないのだ。
 だから。滝の下で。誰も聞きなどしない言葉をつぶやく。

「今日も月が綺麗だったよ。司くん」


230502



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