▼ 尾形百之助
昔、I LOVE YOUを、月が綺麗ですねと訳した人がいたらしい。そのことを思い出したのは、ベランダに出て空を見上げて、金星が月の傍で輝いてるってニュースで言ってたことを思い出し、思わず「月が綺麗だなぁ」と口に出してから、隣りのベランダから香る煙草の匂いに気付いて数秒経った後だった。
「あー……、こんばんは」
「おう」
聞かれてたかな。聞かれてただろうな。静かな住宅地だし。大きい道路も近くに無いし。夜だし。隔て板越しとはいえ一メートル先にいるし。
「……夜更けには沈んでしまいますよ」
「はい?」
尾形さんの口から、私に向かって敬語を使われたことなんて無かった。だから聞き返してしまった。というか、月が沈むなんてそんな、何を当たり前のことを。
「はっ、わからねぇならいい」
「え、今馬鹿にされました?」
「それはわかんだな」
声の主を睨む。が、すっぴんの顔を晒したくはなかったので、板越しに。向こうからも見えない角度にいるから、視界に映るのは彼がくゆらす煙草の煙だけだ。
夜の匂いに混じる、煙草の匂い。ベランダでお風呂上がりに涼む習慣に、欠かせないものになりそうでやめて欲しい。
「あれですか。月が綺麗ですねの返しってやつですか。どういう意味ですか」
というか、別に、あんたに告白する意図はなかったんですけど。
「自分で調べな」
尾形さんがベランダから引っ込んだ気配。ガラガラとガラス戸の引かれる音。……なんだったんだ。
癪だったが気になったので言われた言葉の意味を調べたが、後悔した。なんで間接的に振られたことになってんだ。そもそも告って無いんだが?
230427