Twitterあります
蜜夜が組頭のもとに帰らないまま、季節がまた変わろうとしている。
「帰ったら蜜夜さまのところへ行きます。必ず説得してみせます」
「わかったから早く行け」
見もせず手を振る雑渡に深く頭を下げて高坂は詰め所を出た。
忍務はとある寺に一時的に保管された唐渡の皿を取り戻すことだ。もともと殿が買うはずだったものを、山賊に奪われてしまったのだ。
早くしなければ他所の連中に嗅ぎつけられてしまう。
寺に来るとなんだか様子がおかしい。妙に静かなのだ。
(ここには住職と坊主、それに山賊3人いるはずだが)
住職と坊主は出かけているのかもしれない。だが山賊はいるはずだ。
様子を見るかと潜んでいた高坂は、男たちの怒号を聞いた。
「追いかけろ!」
どういうことかとほんの少し顔を上げた時だった。朽葉色が自分の上を飛び越えて行く。
「?!」
振り返ると、小さな背中が木々の隙間を縫うように駆けていった。
「皿を持って行きやがった!」
(皿って、あの皿か)
出遅れたがまだ間に合う。ここらの地形はしっかり覚えている。自分ならやすやすと飛び越えられる川も、あの小さな体躯ではできないはずだ。
(いた)
迂回しようと上流を向いた奴を狙って手裏剣を投げた。タイミングをずらしてもう一枚。避けそこねて左袖を引き裂かれた相手は、川に落ちそうになって岩に手をつく。覆面で覆った顔がこちらを向いて動きを止めた。
「そいつをこっちによこせ」
「……」
「腕、しびれてきてるだろう。解毒を早くしないと腐るぞ」
懐から風呂敷包みを引っ張りだした。静かにそれを足元に置くと、ジリジリと後ずさりする。
「中を見せろ」
包んでいた風呂敷をめくると、たしかにあの皿だ。
「行け。後は追わん」
「……」
「早く、」
ふにゃふにゃと相手が座り込む。駆け寄ると、相手が頭巾を解いた。その顔を見て、高坂は肝を冷やす。
「若菜殿、なぜ」
真っ青になって脱力した若菜を支えて脈をみると、どうやら毒が効きすぎているらしいことがわかった。小柄な彼女には用量が多すぎたとのだろう。
「今解毒剤をやる。しっかりしろ」
一応は二人共追われている。急ぎ若菜と皿を抱えてその場を離れた。
崖下にちょうど良さそうなくぼみを見つけたのでそこに若菜を座らせようとしたが、体勢を維持することも難しいようだった。
「若菜殿、若菜」
抱きかかえたまま薬を飲ませて体をさすった。しばらくそうしていると、若菜がひとつくしゃみをした。
「大丈夫か?」
「はい。敵なのにありがとうございます」
「そのことなんだが、どうしてあそこにいたんだ」
「そういう依頼だったからですけど」
そんなことは言われなくてもわかっている。その依頼主を知りたかったのだが、彼女もプロだ。言わないだろう。
「皿は元々我殿のものだ。返してもらう」
「どうぞ、お持ちください」
若菜は立ち上がろうとしたが、まだ足がふらつく。手を離すと倒れてしまうような気がして腕を掴んでいて正解だった。
「この山をその足で降りるのは大変だろう」
「これ以上情けをかけていただくのはご迷惑でしょ」
まだ具合が悪そうな若菜を見ていると、どうも腹のそこがぞわぞわする。
(この感じ)
筆おろしは雑渡が蜜夜にやらせるといったのに、蜜夜がその気になったと思ったら雑渡は高坂を殴って追い出してそれっきり。よくわからないまま、そういうことが得意な大年増にぶん殴られて昏倒しているうちに終わっていた。別に気持ちいいとかそういう意識もなかった。雑渡の性処理をするほうがよっぽど気持ちいいし、気持ちも満たされる。
しかし舞巫女姿の若菜を見て以来、彼女を思い一人ですることも増えていた。何度も想像したのだ。そしてその想像を打ち消そうとがむしゃらに鍛錬に励んだ。
足が動くようになったからと若菜が離れようとすると、高坂は反射的に掴んでいた腕を引き寄せていた。
「痛」
「わ、悪い」
謝罪したが手は離さなかった。若菜も高坂の様子がおかしいことに気づいたようで、怯えた顔をしている。
「もういいでしょ。お皿は渡したわ」
「ダメだ。……えっと、依頼主をまだ聞いていない」
「あたし、これでも一応プロです。言うわけないじゃない」
「じゃ、じゃあ言いたくさせるだけだ」
雑渡が蜜夜にしたようにするだけだ。
とりあえず連れて帰ることにした。雑渡が蜜夜を連れ帰ったように。だが無理やり乱暴するようなことはしなかった。蜜夜が雑渡にしたことが、今蜜夜と雑渡を引き離している原因だとわかっていたからだ。
周囲には怪我をさせたからと説明した。忍術学園にも連絡してある。若菜に怪我をさせてしまったため、こちらで動けるようになるまで面倒を見るという内容だ。返ってきた返事は彼女の兄からだった。
『妹をよろしくお願いします』
手紙を読んだ山本が、高坂に苦い顔をする。
「お前、自分が何をしているのかわかっているのか」
「……申し訳ありません」
「組頭の真似だけはやめろと、あれほど言っただろう。お前の実家は嫁にすると言っている。解毒してすぐに帰せばよかったんだ」
「しかし、依頼主の名を聞かねばまた」
「盗人の一人が値をつりあげようと方方に話していたらしい。どうせその話を聞いた好事家だろう」
げんこつ一つもらって、返してこいと追い出されてしまった。
実際に反対しているのは山本だけである。高坂が雑渡にべったりだったので、どうすれば女に興味を持つかなんて真剣に話しあおうとしていた矢先だったし、高坂の両親は娘のようにかわいがっていた蜜夜がいなくなってしまって寂しかった穴埋めのように思っていた。
自宅に帰ると、両親が若菜を相手に菓子だの茶だのと振舞っている。酒を出さなかったのは、きっと見た目通り彼女が幼いと思ったからだろう。
「高坂さま、ごめんなさい。すぐに帰ります」
「こちらこそ無理やり連れ帰ってしまってすまなかった。毒のこともある。しばらく休んでいくといい」
さっそく山本の小言は無視していた。どうせ送り届けるのは高坂なのだ。
いつの間にか二人きりになっていた。ドキドキしながら彼女の隣に座る。若菜は高坂が包帯を巻いた腕を首から攣っていて、あまり動かせないようだ。
「腕、大丈夫か」
「ええ。しびれが残ってるけど」
包帯を解こうとするので止めると、若菜は目を丸くして高坂を見上げた。妙に近いのだ。おまけに怖い顔をしている。もともと眼力の強い顔をしていたが、今は腹でも空かせたような顔で若菜を見る。
「傷が残らないといいんだが」
なんとなく腕をさすろうとして慌てて飛び退いた。
(今俺は何を)
考えていたことを実行しようとした。雑渡が蜜夜にしたようにしようと。
「すまない。俺は……仕事だ。戻らないと」
顔も見ず逃げるように飛び出していた。
「お世話になりました」
頭を下げて、礼をいい家を後にした若菜は忍務を失敗したことを思い出し気が重くなった。
高坂に保護されたと連絡が行っているにもかかわらず、兄の野村は妹をよろしくと呑気な返事を返してきていた。外面のいい兄のことが、いまだによくわからない。
忍術学園に近道しようと街道から外れて森に一歩入った時だった。若菜はぞっとするような気配を感じて身を低くする。
(何?いまさら追手?)
このまま逃げ切ろうと茂みの影から顔を出すと、異様な雰囲気の男が周囲を見回しながら足早に近づいてくる。
(通り魔でも出たみたい。やりすごすか)
たまに、ああいうやつがいる。いくら身なりがまともでも、狂っている部分がある人間。そういうものを通り魔という。およそ常人には理解できないものだ。
(黄昏時に最悪だわ)
日が沈んで月も星もでないような薄暗い時間帯だ。武器になるものはそこらに落ちている木の枝くらいだし、一瞬見えた男の体格からして剣術くらい学んでいるだろう。刀は腰に帯びていないが若菜では敵いっこない。
(早く行って。気持ち悪い)
緊張で吐き気までして口元を抑えようとしたときだった。ぬっと知らない手が伸びてきて若菜の手首を掴む。
「ひっ」
「俺だ。陣左だ」
そろりと顔をあげてよく見てみると、たしかに高坂だった。さっき感じた気味の悪い雰囲気はない。情けない顔をして若菜を見つめている。
「どうしてここに」
「……送ろうと思って」
「でも、もう近くだし」
「蜜夜さまにもお会いしたいから」
もごもごとそういうと、若菜を立たせる。丁寧に着物の裾を払うと、手をつないだまま森の奥へと進んでいった。
「やっぱり向こうの道を行きませんか」
「こっちのほうが近い」
近いと言っていたのに、どんどん忍術学園からそれて行っている。まるで腕を引く高坂の迷いがそのまま歩みに現れているようだ。
「……そういえば、いつの間にか呼び捨てていた。すまない」
「いいんです。情けをかけていただいたからこそ、今生きてるんだし」
あまりいい話ではないが、しかし若菜はもともと高坂を好いているのだ。助けてもらったことは純粋に嬉しい。
「ありがとうございました。お礼は、あらためて」
途端高坂がピタリと歩くのを止めて振り返る。ギクシャクとした動きに若菜が驚くと、高坂は握っていた若菜の手をさらに強く握りしめた。
「痛」
「あっ」
大げさに手を離して後ずさりする。
若菜もやはりおかしいと思った。
「す、すまない。おれは」
「大丈夫です。もう、ここで大丈夫ですから。蜜夜先生にはきちんと話を聞いておきますね。また、手紙を書きます」
早口でまくしたて、逃げるように背を向けた若菜は背後にまたあの嫌な雰囲気を感じて硬直する。
「……あ、う」
「待て。送ると言っているだろう」
肩を掴んだ手の重みにビクリと肩を揺らすと、高坂が一瞬で前に回りこんできた。
「やはりまだ具合が悪いようだ」
首を横に振るにもやっとだった。高坂の手が肩から背中をなぞり、腰に降りてくる。いやらしい触り方をされて思わず振り払ってしまった。
「触らないで!」
逃げるのは得意だ。得意だからこそ、八年前も助かった。野村のところに来れた。
一歩踏み出せばいけると思ったが、若菜は高坂がいうとおりまだ具合が悪かったのかもしれない。
後ろで一つに結い上げた髪の先を掴まれて、そして思い切り引っ張られた。
「きゃあっ」
べしゃっと腐葉土の上に倒れ、痛みに呻いて目を開けると高坂が馬乗りになっていた。月明かりを真後ろからうけている高坂の顔は見えない。ただ、ぬらりと目玉が光って化け物みたいだった。
「何するんですか」
「……だ、……して……」
「え?」
ブツブツ言っているのが聞こえたと思ったら顔の横に握りこぶしが落ちてきた。
「そうだ、昆奈門さまはこうして」
蜜夜との初めての晩のことは何度も聞かされた。痛めつけると言ったのはそれ以上怪我を増やさないためだったと雑渡は言っていたはずだ。
顔を殴るわけではない。拳を振り下ろして見せるだけだ。
そうすれば、きっと若菜も蜜夜のようにおとなしくなって言うことを聞くと思った。だが若菜は蜜夜とは違った。
高坂がふとももを撫でまわしていた手をさらに奥へと差し入れようとすると、若菜は高坂の股間を思い切り蹴りあげたのだ。
「おぐ?!」
「離れろ。気色悪い変態め!」
さらに横っ面を引っ叩かれる。だが高坂も必死だった。もみ合ううちに若菜の襟も裾も乱れて肌が見えると、高坂は力づくで抑えこもうとする。
「頼む。頼むから」
もはや哀願である。しかし若菜は断固として拒否した。
「嫌だってば!」
ここまで嫌がられてはさすがに雑渡と同じようにはできないとわかった。離れると若菜はその隙に逃げ出していった。
「くそ」
逃げられてしまったのも悔しいが、こんな愚かな真似をした自分に苛立っていた。
もう二度とあってもらえないかもしれないと思うと、情けなくて涙が出てくる。
「くそう。くそう。くそう。くそぉ」
握りこぶしで何度も地面を殴った。
「必ず、必ず若菜を俺のものに。俺の妻にするぞ」
蜜夜が組頭のもとに帰らないまま、季節がまた変わろうとしている。
「帰ったら蜜夜さまのところへ行きます。必ず説得してみせます」
「わかったから早く行け」
見もせず手を振る雑渡に深く頭を下げて高坂は詰め所を出た。
忍務はとある寺に一時的に保管された唐渡の皿を取り戻すことだ。もともと殿が買うはずだったものを、山賊に奪われてしまったのだ。
早くしなければ他所の連中に嗅ぎつけられてしまう。
寺に来るとなんだか様子がおかしい。妙に静かなのだ。
(ここには住職と坊主、それに山賊3人いるはずだが)
住職と坊主は出かけているのかもしれない。だが山賊はいるはずだ。
様子を見るかと潜んでいた高坂は、男たちの怒号を聞いた。
「追いかけろ!」
どういうことかとほんの少し顔を上げた時だった。朽葉色が自分の上を飛び越えて行く。
「?!」
振り返ると、小さな背中が木々の隙間を縫うように駆けていった。
「皿を持って行きやがった!」
(皿って、あの皿か)
出遅れたがまだ間に合う。ここらの地形はしっかり覚えている。自分ならやすやすと飛び越えられる川も、あの小さな体躯ではできないはずだ。
(いた)
迂回しようと上流を向いた奴を狙って手裏剣を投げた。タイミングをずらしてもう一枚。避けそこねて左袖を引き裂かれた相手は、川に落ちそうになって岩に手をつく。覆面で覆った顔がこちらを向いて動きを止めた。
「そいつをこっちによこせ」
「……」
「腕、しびれてきてるだろう。解毒を早くしないと腐るぞ」
懐から風呂敷包みを引っ張りだした。静かにそれを足元に置くと、ジリジリと後ずさりする。
「中を見せろ」
包んでいた風呂敷をめくると、たしかにあの皿だ。
「行け。後は追わん」
「……」
「早く、」
ふにゃふにゃと相手が座り込む。駆け寄ると、相手が頭巾を解いた。その顔を見て、高坂は肝を冷やす。
「若菜殿、なぜ」
真っ青になって脱力した若菜を支えて脈をみると、どうやら毒が効きすぎているらしいことがわかった。小柄な彼女には用量が多すぎたとのだろう。
「今解毒剤をやる。しっかりしろ」
一応は二人共追われている。急ぎ若菜と皿を抱えてその場を離れた。
崖下にちょうど良さそうなくぼみを見つけたのでそこに若菜を座らせようとしたが、体勢を維持することも難しいようだった。
「若菜殿、若菜」
抱きかかえたまま薬を飲ませて体をさすった。しばらくそうしていると、若菜がひとつくしゃみをした。
「大丈夫か?」
「はい。敵なのにありがとうございます」
「そのことなんだが、どうしてあそこにいたんだ」
「そういう依頼だったからですけど」
そんなことは言われなくてもわかっている。その依頼主を知りたかったのだが、彼女もプロだ。言わないだろう。
「皿は元々我殿のものだ。返してもらう」
「どうぞ、お持ちください」
若菜は立ち上がろうとしたが、まだ足がふらつく。手を離すと倒れてしまうような気がして腕を掴んでいて正解だった。
「この山をその足で降りるのは大変だろう」
「これ以上情けをかけていただくのはご迷惑でしょ」
まだ具合が悪そうな若菜を見ていると、どうも腹のそこがぞわぞわする。
(この感じ)
筆おろしは雑渡が蜜夜にやらせるといったのに、蜜夜がその気になったと思ったら雑渡は高坂を殴って追い出してそれっきり。よくわからないまま、そういうことが得意な大年増にぶん殴られて昏倒しているうちに終わっていた。別に気持ちいいとかそういう意識もなかった。雑渡の性処理をするほうがよっぽど気持ちいいし、気持ちも満たされる。
しかし舞巫女姿の若菜を見て以来、彼女を思い一人ですることも増えていた。何度も想像したのだ。そしてその想像を打ち消そうとがむしゃらに鍛錬に励んだ。
足が動くようになったからと若菜が離れようとすると、高坂は反射的に掴んでいた腕を引き寄せていた。
「痛」
「わ、悪い」
謝罪したが手は離さなかった。若菜も高坂の様子がおかしいことに気づいたようで、怯えた顔をしている。
「もういいでしょ。お皿は渡したわ」
「ダメだ。……えっと、依頼主をまだ聞いていない」
「あたし、これでも一応プロです。言うわけないじゃない」
「じゃ、じゃあ言いたくさせるだけだ」
雑渡が蜜夜にしたようにするだけだ。
とりあえず連れて帰ることにした。雑渡が蜜夜を連れ帰ったように。だが無理やり乱暴するようなことはしなかった。蜜夜が雑渡にしたことが、今蜜夜と雑渡を引き離している原因だとわかっていたからだ。
周囲には怪我をさせたからと説明した。忍術学園にも連絡してある。若菜に怪我をさせてしまったため、こちらで動けるようになるまで面倒を見るという内容だ。返ってきた返事は彼女の兄からだった。
『妹をよろしくお願いします』
手紙を読んだ山本が、高坂に苦い顔をする。
「お前、自分が何をしているのかわかっているのか」
「……申し訳ありません」
「組頭の真似だけはやめろと、あれほど言っただろう。お前の実家は嫁にすると言っている。解毒してすぐに帰せばよかったんだ」
「しかし、依頼主の名を聞かねばまた」
「盗人の一人が値をつりあげようと方方に話していたらしい。どうせその話を聞いた好事家だろう」
げんこつ一つもらって、返してこいと追い出されてしまった。
実際に反対しているのは山本だけである。高坂が雑渡にべったりだったので、どうすれば女に興味を持つかなんて真剣に話しあおうとしていた矢先だったし、高坂の両親は娘のようにかわいがっていた蜜夜がいなくなってしまって寂しかった穴埋めのように思っていた。
自宅に帰ると、両親が若菜を相手に菓子だの茶だのと振舞っている。酒を出さなかったのは、きっと見た目通り彼女が幼いと思ったからだろう。
「高坂さま、ごめんなさい。すぐに帰ります」
「こちらこそ無理やり連れ帰ってしまってすまなかった。毒のこともある。しばらく休んでいくといい」
さっそく山本の小言は無視していた。どうせ送り届けるのは高坂なのだ。
いつの間にか二人きりになっていた。ドキドキしながら彼女の隣に座る。若菜は高坂が包帯を巻いた腕を首から攣っていて、あまり動かせないようだ。
「腕、大丈夫か」
「ええ。しびれが残ってるけど」
包帯を解こうとするので止めると、若菜は目を丸くして高坂を見上げた。妙に近いのだ。おまけに怖い顔をしている。もともと眼力の強い顔をしていたが、今は腹でも空かせたような顔で若菜を見る。
「傷が残らないといいんだが」
なんとなく腕をさすろうとして慌てて飛び退いた。
(今俺は何を)
考えていたことを実行しようとした。雑渡が蜜夜にしたようにしようと。
「すまない。俺は……仕事だ。戻らないと」
顔も見ず逃げるように飛び出していた。
「お世話になりました」
頭を下げて、礼をいい家を後にした若菜は忍務を失敗したことを思い出し気が重くなった。
高坂に保護されたと連絡が行っているにもかかわらず、兄の野村は妹をよろしくと呑気な返事を返してきていた。外面のいい兄のことが、いまだによくわからない。
忍術学園に近道しようと街道から外れて森に一歩入った時だった。若菜はぞっとするような気配を感じて身を低くする。
(何?いまさら追手?)
このまま逃げ切ろうと茂みの影から顔を出すと、異様な雰囲気の男が周囲を見回しながら足早に近づいてくる。
(通り魔でも出たみたい。やりすごすか)
たまに、ああいうやつがいる。いくら身なりがまともでも、狂っている部分がある人間。そういうものを通り魔という。およそ常人には理解できないものだ。
(黄昏時に最悪だわ)
日が沈んで月も星もでないような薄暗い時間帯だ。武器になるものはそこらに落ちている木の枝くらいだし、一瞬見えた男の体格からして剣術くらい学んでいるだろう。刀は腰に帯びていないが若菜では敵いっこない。
(早く行って。気持ち悪い)
緊張で吐き気までして口元を抑えようとしたときだった。ぬっと知らない手が伸びてきて若菜の手首を掴む。
「ひっ」
「俺だ。陣左だ」
そろりと顔をあげてよく見てみると、たしかに高坂だった。さっき感じた気味の悪い雰囲気はない。情けない顔をして若菜を見つめている。
「どうしてここに」
「……送ろうと思って」
「でも、もう近くだし」
「蜜夜さまにもお会いしたいから」
もごもごとそういうと、若菜を立たせる。丁寧に着物の裾を払うと、手をつないだまま森の奥へと進んでいった。
「やっぱり向こうの道を行きませんか」
「こっちのほうが近い」
近いと言っていたのに、どんどん忍術学園からそれて行っている。まるで腕を引く高坂の迷いがそのまま歩みに現れているようだ。
「……そういえば、いつの間にか呼び捨てていた。すまない」
「いいんです。情けをかけていただいたからこそ、今生きてるんだし」
あまりいい話ではないが、しかし若菜はもともと高坂を好いているのだ。助けてもらったことは純粋に嬉しい。
「ありがとうございました。お礼は、あらためて」
途端高坂がピタリと歩くのを止めて振り返る。ギクシャクとした動きに若菜が驚くと、高坂は握っていた若菜の手をさらに強く握りしめた。
「痛」
「あっ」
大げさに手を離して後ずさりする。
若菜もやはりおかしいと思った。
「す、すまない。おれは」
「大丈夫です。もう、ここで大丈夫ですから。蜜夜先生にはきちんと話を聞いておきますね。また、手紙を書きます」
早口でまくしたて、逃げるように背を向けた若菜は背後にまたあの嫌な雰囲気を感じて硬直する。
「……あ、う」
「待て。送ると言っているだろう」
肩を掴んだ手の重みにビクリと肩を揺らすと、高坂が一瞬で前に回りこんできた。
「やはりまだ具合が悪いようだ」
首を横に振るにもやっとだった。高坂の手が肩から背中をなぞり、腰に降りてくる。いやらしい触り方をされて思わず振り払ってしまった。
「触らないで!」
逃げるのは得意だ。得意だからこそ、八年前も助かった。野村のところに来れた。
一歩踏み出せばいけると思ったが、若菜は高坂がいうとおりまだ具合が悪かったのかもしれない。
後ろで一つに結い上げた髪の先を掴まれて、そして思い切り引っ張られた。
「きゃあっ」
べしゃっと腐葉土の上に倒れ、痛みに呻いて目を開けると高坂が馬乗りになっていた。月明かりを真後ろからうけている高坂の顔は見えない。ただ、ぬらりと目玉が光って化け物みたいだった。
「何するんですか」
「……だ、……して……」
「え?」
ブツブツ言っているのが聞こえたと思ったら顔の横に握りこぶしが落ちてきた。
「そうだ、昆奈門さまはこうして」
蜜夜との初めての晩のことは何度も聞かされた。痛めつけると言ったのはそれ以上怪我を増やさないためだったと雑渡は言っていたはずだ。
顔を殴るわけではない。拳を振り下ろして見せるだけだ。
そうすれば、きっと若菜も蜜夜のようにおとなしくなって言うことを聞くと思った。だが若菜は蜜夜とは違った。
高坂がふとももを撫でまわしていた手をさらに奥へと差し入れようとすると、若菜は高坂の股間を思い切り蹴りあげたのだ。
「おぐ?!」
「離れろ。気色悪い変態め!」
さらに横っ面を引っ叩かれる。だが高坂も必死だった。もみ合ううちに若菜の襟も裾も乱れて肌が見えると、高坂は力づくで抑えこもうとする。
「頼む。頼むから」
もはや哀願である。しかし若菜は断固として拒否した。
「嫌だってば!」
ここまで嫌がられてはさすがに雑渡と同じようにはできないとわかった。離れると若菜はその隙に逃げ出していった。
「くそ」
逃げられてしまったのも悔しいが、こんな愚かな真似をした自分に苛立っていた。
もう二度とあってもらえないかもしれないと思うと、情けなくて涙が出てくる。
「くそう。くそう。くそう。くそぉ」
握りこぶしで何度も地面を殴った。
「必ず、必ず若菜を俺のものに。俺の妻にするぞ」