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五年前、蜜夜は大雨で増水した川辺に倒れていたのを発見された。大木雅之助というこの学園で教師をしていた男が、学園近辺の大雨の被害を調査しているときに見つけたそうだ。
(大木先生が見つけてくれたのはここらだったと聞いた)
実際には、誘拐した風の玉三郎らによって直接忍術学園に移されており、この河原にいたことはないのだが蜜夜は知らない。大木から、ここで見つけたと聞いたのを信じていた。
今日は伊作と伏木蔵がこの河原に薬草を採りに行くというので、丁度忍術学園に滞在していた大木に頼み込んで一緒に来た。
「私はどのあたりにいたんですか」
見回しながらそう言い、大木を振り返った蜜夜は大木がまったく話を聞かずにぼんやり川面を眺めているので袖を引いた。
「もう!聞いてますか?」
「あ、ああ。えーっと、確かあのあたりに」
適当に大木が指さした方に蜜夜はふわふわと歩いて行く。なんだか危うい足取りに思えて、大木は不安になった。
「ここでわたしは」
蜜夜はぐるりと辺りを見回して何か自分の痕跡を見つけられないか、ひとつでも思い出せることはないか。そんなことを考えながら、風景や足元の小石を見つめる。
普段はゆったりと流れている川だ。河原には丸い小石がたくさんあって、草履で歩くとその感触が足の裏に伝わって面白い。山の影にかくれるここは、まだ昼を過ぎたばかりだというのにすでに薄暗くなってきていた。
最後に残った陽だまりに立っていた蜜夜が深緑の川面を見ていると、その対岸に誰かがいることに気づいた。黒い闇の中に一つ目がジットリとこちらを見つめている。
そんな風に見られたことが前にもあったような気がしたが、思い出そうとすると恐怖がつま先から駆け上がってきて息ができなくなる。
「はあ、はあ」
肩を揺らして後ずさりすると、背後でパキンと小枝の折れる音がした。振り返ると大木が不安そうに眉間に仕合を寄せて立っていた。
「そろそろ帰ろう。日が落ちる」
「ええ。そうですね」
青ざめ冷や汗までかいている蜜夜を、大木が心配そうに伺う。蜜夜は日が暮れると外を異様に怖がるのだ。
「どうかしたか」
「対岸に、誰かいるの」
囁き声も震えていた。
蜜夜をかばうように対岸を向いた大木は、鋭い目つきでサッと周囲を見回す。だが山の陰になった対岸はすでに木々の枝葉も見えないほど暗くなっていて、蜜夜が怯えているモノを見つけることはできなかった。
「用心して帰ろう」
大木が蜜夜の手を取ってしっかり握った。握られた手を見ると、蜜夜の頭は霞がかったようにぼんやりして物事が見えづらく考えにくくなる。
「大木先生」
「大丈夫だ」
◆
忍務帰り、山本は雑渡の後ろについて走っていた。どこへ行くにも雑渡は蜜夜を探している。彼女が行方不明になってから五年が経っていたが、未だに雑渡は蜜夜を探していた。まるでこの世に蜜夜しか女がいないような有り様だった。
雑渡家が跡取りに子がいないと家が絶えることになると、長期忍務で隣国に潜入していたくノ一を添わせようとしたことがあったがくノ一の方が逃げ出してしまった。今現在の陣左が唯一褥を共にする相手となっている状態はあまりにも好ましくない。
山本はそばでずっと苦しむ雑渡を見守ってきた。苦しみを昇進に向かわせたのは山本や諸泉だ。それまでの荒れた生活をどうにか人間らしくしてやりたいと相談してやったことだ。
お陰で今ではタソガレドキ忍軍百人を束ねる組頭になっている。
急に前を走っていた雑渡が立ち止まった。木の幹に手を付き、右目を見開いて何かを凝視している。その視線を追うと、川を挟んだ対岸のひだまりに誰か立っている。
「蜜夜ちゃんだ……」
飛び出していこうとするのを羽交い締めにして止めた。今までもこんなことが何度もあったのだ。背格好の似た同じ年頃の女に飛びついたこともあったし、面立ちが似た女の時は酷く罵って暴力まで振るおうとした。
「離せ。蜜夜ちゃんだ。絶対に、今度こそ」
もがく雑渡の腕が空を掴む。この状態を一人で抑えこむのは大変だった。
「落ち着け。そういって半年前も赤の他人だったじゃないか」
とにかく様子を見ようとなだめていると、彼女がこちらに気づいたようだった。向こう岸から自分たちがいる森を怯えた顔で見ている。雑渡も同じく怯えた顔で彼女を見返していた。
暫くの間見つめ合っていたが、向こう岸で動きがあった。男が一人蜜夜に近づいて話しかけている。
その男に見覚えはなかったが、蜜夜とは親しいらしく手を握っていた。押さえ込んだ雑渡が暴れるのではと思っていたが、注意深く彼らを観察している様子を見ると、あれが蜜夜の幻だかよく似た他人だかではないと判断しようとしているらしかった。
「陣内、見て」
賑やかな子供の声が響いた。
「蜜夜先生、伊作先輩が川に落ちました」
移動して河原が見渡せるところまで来ると、忍術学園の善法寺伊作と鶴町伏木蔵が足をびしょびしょにして立っている。
彼らの会話を耳を澄ませて聞いていた雑渡は、四人が去っていったのを確認してから静かに口を開いた。
「名前、蜜夜だって」
「あぁ」
雑渡はやっと見つかった喜びが、じわじわと体の芯に染みてくるような気がして落ち着かなかった。一緒にいた男のことはもちろん気になるが、それより何より喜びの方が大きい。
「蜜夜ちゃんだよ。あの子、やっぱり生きていた」
何度も死んだのだから諦めろと言われた。もっと良い嫁を見つけると言われて、連れてきたのは奥勤めをしていたくノ一で、どういうつもりなのか蜜夜に似せた化粧までしていた。一瞬惑わされたのは、それだけ蜜夜が恋しかったからだ。抱こうとして匂いが違うことに気づき、半死半生になるまで殴り終にそのくノ一は二度と仕事ができない体になってしまった。雑渡が仕事に出ている間に逃げ出してそれっきりである。
「陣内」
「ああ、わかっている」
◆
身のこなしをみる限り、蜜夜は立派な忍だった。自分の身を守る程度には体術を会得しているようだし、忍術に関してもそうだ。すべて、雑渡の元にいる時に意図せず身につけたものだった。
くのたまの講師を任せるには丁度いい。その出自さえわからないことを除けばまさに、ぴったりの人物である。
「大木先生はどう思う」
「素晴らしい人物かと思います」
「素晴らしいか」
小さな紙切れを大木の前に差し出した。黙って受け取った大木は、ため息をついてその髪を火鉢に放り込む。
「ここに来た時点で、記憶喪失だったという情報は嘘だったと」
「いや、記憶喪失だったのは間違いない。当時タソガレドキの隠れ里では大騒ぎだったそうだ。その騒ぎに紛れて拉致に成功した。あの時は、タソガレドキの弱体化の要にできればいいと考えておった。あと数年もすれば、また組頭は代替わりするだろう。現在の組頭ほどの人物はもう現れまい。しかしここまで保ったのは想定外じゃった」
「蜜夜先生はどうなるんです」
「どう、とは?」
「タソガレドキ忍軍の組頭が代替わりしたら、彼女は」
「どうもせん。お前さんのいうとおり、彼女は素晴らしい教師じゃ。この学園で教師を続けてもらう。それか……」
長い眉毛で見えなかった目が光った。どうせろくでもないことを考えているのだろう。
「お前さん、蜜夜先生と夫婦になるか?」
柄にもなく赤面してしまった。兄貴分のつもりで彼女に接していたが、すでにその気持ちは変わっている。
「……そのつもりがなかったら、毎回休みのたび家に連れ帰ったりしませんよ」
連れ帰ってはいるが同じ布団で寝るようなことはしていない。未だに抱けずにいるのは、単に大木が意気地なしだからだ。
「ふん。いい年の男がゆでダコみたいに顔を赤くしおって。まったく」
学園長の庵を出た大木は、蜜夜を探してくのたま教室へと向かう。
生け垣を回って庭に出ると、ここにきたばかりのくのたまの一年生が蜜夜に抱かれて眠っている。顔に涙のあとがあるのを見て、家が恋しいのだろうと思った。
「手伝おう」
「ありがとうございます」
長屋に運んで寝かせると、大木は蜜夜と一緒に腰を下ろした。
「今、一番ツライ時だろうな」
「ええ。寂しがる子が多くて」
「……蜜夜先生はどうじゃ」
「わたし?」
「寂しくはないか」
真面目な顔の大木は、何故かはっとして顔をそらす。蜜夜は大木が聞いてしまったことを後悔しているのだと思った。
吹き出して笑い出した蜜夜を、大木が不安そうに見つめる。
「帰りたいと思ってたら帰ってるわ。そうでしょう?」
「もしかして、記憶が」
にこにこしている蜜夜に、大木はそれ以上言えなかった。
「わたし、どうして忘れてしまったのかしら」
記憶喪失になったのは事故ということになるだろうが、雑渡のもとから誘拐したのはオニタケ城と忍術学園の思惑である。記憶を失っても、好いた男のそばにいたほうが幸せだったに違いない。
「蜜夜先生。すまん。すまんのう」
知っていて何も言わない自分が、酷い悪党のように思えた。
◆
大木が学園を辞めると皆が知った時、もちろん蜜夜もここを辞めるのだと思われた。蜜夜が6年前大木に拾われる前の記憶を失っていることを知るのは職員たちだけで、生徒たちは何も知らないのだからそう思うのも無理は無い。
「じゃあ離縁なさったんですか?」
面と向かってそう聞いてきたのは4年の綾部だった。穴掘りを楽しんだ綾部が昼食を取りにきたとき、蜜夜も食堂にいたのだ。
「綾部喜八郎くん。難しい言葉を知っているね」
「知っています。だって姉が一昨年に離縁されて家に戻ってきましたから」
「……そうだったわね」
姉というのはこの学園のくのたま教室卒業生第一期生だ。蜜夜もよく知っている。
「初音さん、お元気?」
「元気ですよ。力ばっかり強くて、今は佐武衆のところでお世話になっています」
「佐武衆に?」
「はい。合戦で見かけた照星さんに一目惚れしたとかで、今は押しかけ女房気取りですよ。父が相手に申し訳ないから戻るように言ってますけど、母がそのまま子供作ってしまえとけしかけていて」
「まぁ」
「離縁された姉は今とっても幸せそうですから、蜜夜先生もきっと幸せになりますよ」
「……うん。でもわたし、離縁するも何も大木先生とは夫婦じゃないから」
「そうですか」
大木は学園を辞めたあとも、何かと顔をだす。作った野菜を届けにきたり、教え子の様子を見に来たり、野村と喧嘩売りに来たりとなかなか忙しいようだ。蜜夜とはいい関係のままで、何かあれば自分のところに来るようにと言ってくれていた。
甘えているのは承知している。大木だってそのうちにいい人を見つけて結婚するだろうし、自分だって早く記憶を取り戻して、いるべきところに帰りたい。
(考えてたら疲れてしまった)
もう寝ようと布団を敷いて寝転がる。うとうとと目を閉じかけて、何かの気配に驚き飛び起きる。すでに明かりは消していて見回してもよくわからない。
だが確実に、何かいた。
「だれ?」
六年のだれかが戯れにここにきたのかと思った。しかし、それにしては気配がなさすぎる。
危険な相手だとしたらくのたまたちが危ない。
だが警笛代わりの呼子笛に手を伸ばしたところで、その気配はプツリと消えた。
「なんだったんだろう」
神経質になっていただけかもしれない。そう考えて、また布団に戻った。
山本が黒鷲隊と共に独自に調べた内容によると、蜜夜はオニタケと忍術学園が結託しタソガレドキの弱体化を狙って起こした事件だとわかっていたが、最近になって前組頭が一枚噛んでいることがわかった。一枚どころではない。土台はこの前組頭が作った計画といっても過言ではないだろう。
現在唯一の良いことといえば、あの日蜜夜と一緒にいた男がすでに忍術学園を辞めて杭瀬村というところに一人でいることだ。蜜夜が一緒に行くようなことになれば、雑渡は凶行に走っていただろう。
「押都長烈。いるか」
黒鷲隊が管轄する保管室に入る。さまざまな情報を統括し、保管している部屋だ。
「おう。ここに」
書類のつまった棚の間から滑り出てきた男は、面をめくり上げて後頭部へ垂らし巻物を読んでいたらしい。
「ついにこれを組頭にお見せするのか」
「ああ」
押都が懐から取り出したのは真っ赤な表紙の和綴じ本だった。これは山本が蜜夜が行方不明になった件をまとめたもので、蜜夜が忍術学園の職員として生きていることもすべて書かれている。拉致の首謀者にも触れており、かなり危険な内容だ。山本が保管すると、雑渡に感付かれるかもしれないと考え押都に預けていた。
「長かったな。居所がわかった時点でさっさと報告すべきと言っただろう」
「ああ。しかし、あの時は戦が続いていた。そんな時にお教えしたらどうなっていたか」
忍術学園を襲っていただろう。幼い子供が死ぬのは見たくない。
そんな時に諸泉が土井にちょっかいをかけ、今回はどういうわけか勝ったと喜んで帰ってきた。
「そして奴は崖から」
報告を聞いた雑渡は、喉を鳴らして笑った。
「あーあ。まだ向こうに接触してないのに、どうすんの」
声を聞いた諸泉はサーッと青ざめて俯く。笑ってはいるが相当怒っているのがわかったのだ。
これまでも忍術学園に出入りしている。しかし、くのたま教室には接触していない。接触していたら、まず一番に蜜夜の存在を知っただろう。先日、蜜夜を見つけてから雑渡は学園に何度か手紙を出そうとしていた。しかし腰を据えてとりかからねばならないこの問題の前に、雑渡はタソガレドキ軍忍び組頭としてこなさなければならない仕事が山ほどある。
苛立つ雑渡をなだめすかし、私事は二の次と誘導してはいたが今回がその時ということだろうと山本は考えていたが、さすがにどうなるのか想像ができない。
雑渡は蜜夜をどうするのだろう。怒り狂い、彼女を殴るだろうか、蹴るだろうか。しかし彼女は今、忍術学園の職員だ。雑渡の玩具ではない。下手を打てば戦の火種になりかねない。
もともと彼女が忍術学園に居ること自体が不穏なことである。
◆
忍術学園には雑渡と山本そして諸泉だけで向かった。高坂は途中で合流することになっている。
忍び込むと、どういうわけか事務員と書かれた札を胸に縫い付けたボケっとした顔の青年が諸泉を追いかけていった。
「まったく、あいつは」
「情報通りです」
山本が淡々と言う。
前からここに忍び込んでは、ああして追いかけ回されていると聞いていた。
蜜夜がここにいると知ってからは、くのたま長屋にまで入り込もうとしていたらしく、その度罠にもかかっていたらしい。
「放っておきましょう。職員室はあちらです」
職員室に向かう道すがら、そこかしこに子供の気配を感じる。雑渡はもともと子供が好きだし、山本も家の子らを思い出していた。
「かわいいね」
「ええ」
「……あのくらいの子がいてもおかしくなかったんだよな」
最近よく言うセリフだ。五年経った今でも蜜夜が忘れられずいる。
「組頭」
ここで蜜夜を見つけたら、雑渡はどうするだろう。蜜夜に詫びるだろうか、それとも。
「わたしのところの長子が生まれたのは、今のあなたくらいの年でした。遅いなんてことはありません」
慰めになったかどうかわからないが、雑渡の雰囲気がいくらか和らいだようだった。
◆
香ばしい匂いと、包帯のあの感触、そして薄気味悪い顔の崩れた男。
最近見る夢にいつもでてくるのものだ。目を覚ましても目眩がひどく起き上がることができないので布団を握りしめて吐き気を堪えるしかない。
いつもは少しすれば動けるようになるのだが、今日はなかなか動けなかった。早く身支度をして食堂に行かなければ朝食を食べそこねてしまうとわかっているのに、まるで布団に縫い付けられたようだ。
「蜜夜先生、おるか」
静かに障子を開いて顔を出したのは大木だった。今日来るとは聞いていたが、これほど早い時間とは思わなかった。
「新野先生には診てもらったのか」
「いえ……」
手を借りて体を起こすと、大木が湯冷ましを注いだ茶碗を手渡してきた。
「しばらくこっちに来ないか。あんたは働き過ぎだ」
昼夜関係なく休みもない。くのたま長屋で暮らす子供たちの世話をしている蜜夜は、くのたまの母と一部で呼ばれている。
「学園長にはわしから話す。だから」
「大木先生は優しいですね」
礼のつもりでそういった蜜夜は大木がどんな顔をしているのか見ていなかった。
もし見ていたら、大木がぐっと喉をつまらせて後ろめたげに顔を逸らす意味を考えることになっただろう。
学園長は快く蜜夜を大木のところへ送り出してくれた。
「早い方がいい。今から出れば夕暮れ間に合う」
「職員室に資料を置きっぱなしなんです。それだけ片付けさせてください」
「わかった」
その時丁度山田と土井の部屋の前を通りかかった。
バシッと障子が破れそうなくらい勢い良く開かれ、覆面と包帯で顔のほとんどを覆った背の高い男が立っていた。後ろにはもう一人同じ忍び装束の男と山田がおり、山田は懐に手を差し入れて身構えていた。
蜜夜は一瞬のうちに大木によってその背にかばわれ、殺気立つ周囲にただ驚いている。
「あの、何が」
「蜜夜」
名前を呼ばれて大木の後ろから首を伸ばしてみると、男がぬっと蜜夜に手をのばそうとして大木に払いのけられていた。
「なんでこんなところに」
大木はまるで死人が蘇ったような口ぶりで叫び、蜜夜を守ろうとする。しかし大男はいとも簡単に大木をポイっと庭に投げ捨てた。。
「探したよ。蜜夜ちゃん」
男は蜜夜をしっかりと胸に抱いて座り込む。
「よかったぁ。よかった。本当によかった」
なにがどうよかったのかわからない。庭に投げ捨てられた大木が心配だったし、いきなり見ず知らずの大男に抱き締められて怖かった。
「こんなところにいたんだね。もう大丈夫。帰ろう。部屋はあのままにしてあるよ」
ぺらぺら喋りながら覆面を下ろした男の顔を見た蜜夜は、今朝みた夢を思い出した。まさか正夢になるなんて誰が予想できただろう。
「どうしたの、顔色が悪いよ」
「やめて」
「蜜夜ちゃん?」
「触らないで!」
押しのけて庭に転がるようにして降りた蜜夜は、大木に抱えられて気を失った。
◆
朝方、まだ空が明け切らないうちの紫色の靄の中。蜜夜は寝巻きに羽織だけ肩に引っ掛けて庭に降りた。
この長屋の庭には、蜜夜が作った菜園がある。菜園とは名ばかりで、あるのはツワブキやムラサキなどの薬草ばかりの小さな畑だった。
(この畑が火傷に効く薬草ばかりだって、気づいてた)
人に指摘されたことはない。だが自分で選んでいるのだから、その規則性にはすぐわかった。
(あの人、喜んでいた)
昨日、蜜夜は雑渡に会った。『会った』というより『遭った』という字の方が正しいかもしれない。
すべて思い出そうとすると、また吐き気がする。無理矢理に記憶を引き出そうとすれば、目眩と頭痛が酷いのだ。それでも一晩かけてなんとか思い出せたのは、自分が雑渡昆奈門に家族を殺されて囚われ、長く彼の玩具として過ごしてきたということだった。
いつか見た気味の悪い夢の通りだったのだ。具合さえよければ忍術学園から逃げ出していた。大木と一緒に杭瀬村で、ラビちゃんと一緒に畑仕事をしていただろう。大木は蜜夜を部屋に寝かせると、何も言わずに帰ってしまっていた。
朝露で濡れたツワブキの葉を何枚か選んで摘み取り、それをもって立ち上がると山の脇から朝日が少しずつ昇ってきているのが見えた。
温かい光が顔を照らして目を閉じると、まっくらになった。ゆっくり目を開くと、雑渡が目の前に立ってなにか言いたげな目でこちらを見ていた。
「何か」
「……土井先生が見つかるまで、私がその穴埋めをすることになった」
きつく拳を握った雑渡の手は震えている。この大男が、まるで蜜夜に脅えているようにみえた。昨日の印象とはまったく違うことに驚いたが、何か考えがあるのだろう。
「見舞いだ」
懐から引っ張りだしたのは、いつか殿さまにもらったといって蜜夜に食べさせた豆菓子だった。あの時と同じ袋に入っている。
「ありがとうございます」
「……具合はどうだ」
「もう大丈夫です」
「そうか……私は」
「存じております。タソガレドキ軍忍び組頭雑渡昆奈門様」
昆奈門様と呼んだ時、雑渡が伏せ気味だった顔を上げて蜜夜を正面からじっと見つめてきた。何か期待したような、そしてその期待を自身で打ち消すような逡巡さえ感じて、蜜夜はどうしようもなく辛くなってしまった。
復讐を果たさねばならない。そうしなければこれまでの苦労が水の泡だし、死んだ親兄弟に申し訳ない。
自分が幸せになれるなんて思ってはいけないのだ。
「寝間着で失礼しました。では」
頭を下げてまた顔をあげるともう雑渡の姿はなかった。
「はあ」
どっと疲れてしまったように思う。そっと手を開くと、手の中にあったツワブキの葉は握りしめていたせいですっかり折れ曲がってしまっていた。
今日は授業がない日だった。くのたまたちの様子でも見てこようかと障子を開くと、ちょうど事務のおばちゃんがきた。
「蜜夜先生、職員会議が始まるわ」
「はい。議題って」
「土井先生とタソガレドキ忍者のことよ」
廊下に出ようとすると、おばちゃんはさっと周囲を見回して中に入って後ろでに障子を閉めた。
「どうしたんです?」
「先に伝えておこうと思って。昨日のこと」
「タソガレドキ忍組頭のことですか?」
思い当たることはそれしかない。おばちゃんは大きく頷いた。
「今朝、学園長にあなたが行方不明の自分の妻だと話したの。学園長は何も仰らなかった」
「……何も」
おばちゃんは囁き声で「蜜夜先生」と呼びかけた。慰めるような表情だ。
「あなたはこれまで、学園の重要な情報は何一つ知らないでしょう。焔硝蔵がどこにあるのかさえ、あなたは」
しゃべっていておばちゃんは蜜夜があまり興味なさそうな顔をしていることに気づいたようだった。そしてそれ以上はもう言わず、会議が始まるからとそそくさと部屋を出て行く。
「ありがとうございます。でも、わたしもう大丈夫です」
「大丈夫って」
「大丈夫なんです。だって、わたしの『家族』が見つかったんですもの」
◆
どういうことだとおばちゃんが聞きたそうなのはよくわかった。チクチクした視線を背中に感じたし、なんども咳払いで注意をひこうとしていた。
職員室に入ると皆が蜜夜を振り返って見た。蜜夜が雑渡の妻という情報は、すでに皆の知るところらしい。
「蜜夜先生はこちらに」
「はい」
山田の言う儘に彼の隣に座った。閉め切られた部屋は、耳鳴りがするほど静かだ。どうして誰も口を開かないのかと思っていたら、部屋の奥の暗がりに雑渡ともう一人若い青年が座っている。部下のようだ。青年は腰を浮かし気味にして蜜夜を見つめ、雑渡と見比べている。
(尊、大きくなっちゃったのね)
知っている姿の面影はある。蜜夜の腰にくっついてメソメソしていたのが懐かしい。
「揃ったな。蜜夜先生、具合はどうじゃ」
部屋に入るなり学園長は朗らかにそう言い、腰を下ろした。
「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です」
「それはよかった」
職員会議ということで、円座になって座っている。議題は聞いていた通り土井のことだった。土井はそこにいる諸泉と果たし合いをして行方不明になっているのだそうだ。
「今後、土井先生が見つかるまでその穴埋めをタソガレドキ軍忍び組頭にしてもらうことになった。そしてその忍び組頭は、蜜夜先生の夫でもある」
どよめき全員の目が蜜夜に向く。蜜夜はシャンと背筋を伸ばして座ってはいたが顔をあげられずにいた。
「しかし蜜夜先生は五年より前のことを覚えていない」
日向が確かめるように言うと、厚木が頷いている。蜜夜に集中していた目が雑渡に向くのを感じ、蜜夜はやっと顔をあげた。
「妻は五年前、土砂崩れに巻き込まれて行方不明になりました。これまで探しておりましたがこちらに保護されていると昨日知り、学園長先生に事情をお話したのです」
明るい声の雑渡は一気にそれだけいうと、蜜夜に微笑みかけた。
「記憶がないのは残念なことですが、共に過ごすうちに思い出すでしょう」
すでに思い出していると知ったら彼はどんなふうになるのだろう。喜ぶだろうか、それとも思い出しているのに今まで帰らなかったのかと罵るだろうか。これまでそうだったように殴るか蹴るかもしれない。
もう殴られるのも蹴られるのも嫌だ。だからやはり、黙っているのが正しいだろう。
ぼんやりしているうちに会議は終わっていた。皆が立ち上がるのに混じって蜜夜も部屋を出ていこうとすると、目の前が暗くなった。雑渡が正面に立ち、蜜夜を見下ろしている。
「なにか?」
「……妻、だろう」
さっき自分でそう言ったのに、蜜夜に同意を求めるなんてよほど自信がないのだろうか。ならば記憶が無いことになっている蜜夜はこう答えるだけだ。
「わかりません」
◆
夫だからといって蜜夜の長屋にまで行くのは咎められた。なにせそこはくノたま長屋のそばだし、普段からしても男子が入ることは禁じられている。
朝忍び込んでいた雑渡はまた忍び込めばいいと思ったらしいが、タソガレドキ忍者がうろつくことになったので警備を厳しく改めると吉野にきつく言い含められた。
「あのあたりには立ち入らないでください。金持ちの子女も多くいますので、問題は困りますから」
「しかし自分の妻の部屋に行くのに」
「本当にあなたの奥さんなんですか?そういうふうには見えなかった」
「蜜夜がそういったんですか」
噛み付くように言い返せば、吉野はフンと鼻を鳴らした。
「見えなかったといったでしょう。まるで虐げられていたように怯えていたじゃありませんか」
のっぺりした瓜実顔をしかめると、雑渡はこれ以上何を言っても無駄だと口をつぐんだ。
「とにかく問題は困ります。それだけは肝に銘じておいてください」
職員室で充てがわれた机の上には「忍たまの友」が一冊置いてある。
「ではそろそろ時間です。子供たちをあまり威圧しないように」
威圧するなと言われたが、こんな精神状態ではそれも難しい。怖がらせないようにと気を遣うのも面倒だった。
授業が終わると、元気だった子供たちは随分消耗したようでぐったりと机に伸びていた。それを横目に教室を出た。
実技の授業のために運動場へ出ると、蜜夜が薬草を入れたカゴを抱えて目の前を横切っていった。
「おい」
振り返った蜜夜が雑渡をまじまじと見つめて首をかしげた。まさかさっき会ったばかりなのにまた忘れられたのかと身構えると、蜜夜は愛想笑いを浮かべて会釈する。まるで他人のようだ。
「御用でしょうか」
「お前の部屋に行くなと言われた」
「男子禁制ですから」
「わかってるならお前が来い。授業が終わったら、わたしのところに」
言うだけ言って蜜夜に背を向けて歩いた。返事を聞くのが怖かったのだ。拒否されたらと思うと膝が笑う気がする。
そんな無様な姿、何も覚えていない彼女には見せたくなかった。どうせなら、また愛してもらえるようなかっこいいところを見せたい。
(そうだ。考えていたじゃないか。同じ轍を踏むまねはしない)
だったらあんなふうに命令するようではダメだ。やり方を考えなければ。
◆
来いといったのに来なかった。今日はもう授業は終わっているはずだ。夕食前には来ると思っていたのに、まったく来る様子がない。
一年は組の授業を行う間、雑渡は敷地内にある客を泊めるための離れ座敷に泊まることになっている。夕食は他の職員と同じように食堂で食べたが、蜜夜と一緒に食べるつもりだった雑渡は機嫌が悪かった。
離れ座敷にいることは蜜夜も知っているだろう。なのに来ないのだ。
「組頭。蜜夜さま、来ませんね」
「探して来い」
「あっちは男子禁制って」
「早く」
「は。」
飛び出していった諸泉が戻る前に、蜜夜がやってきた。二人きりになると知るや、部屋の中には入ろうとしない。
入り口に立ち尽くし、どうしようかと迷っている。
「はあ」
雑渡がため息をつくと蜜夜はビクビクしながら中に入ってきた。
「随分待たせたが、そんなに仕事が忙しいのか」
「申し訳ありません」
「それともわたしのところに来たくなかったのか」
「……」
「否定しないんだな」
「お食事はもうお済みですか」
あからさまな話題のすり替えだが声が聞けるだけで嬉しい。蜜夜の顔をもっとよく見たいと顔を近づけると、蜜夜もこちらを見返してきた。
目を丸くして、そしてさっと顔を逸らす。
最後に交わした彼女の会話を思い出す。蜜夜は雑渡を怖がっていた。化け物と、雑渡のことを化け物と言ったのだ。
頭を撫でようと持ち上げていた手を下ろす。
「組頭!蜜夜さまは、あ!」
入ってきた諸泉が蜜夜を見るなり嬉しそうな顔をする。
「蜜夜さま、蜜夜さま!」
昔のように飛びつこうとして蜜夜が避けると、照れくさそうに諸泉は笑った。
「そうですよね。もう子供じゃないんだった。次は高坂さんを連れてきます。きっと喜びますよ」
◆
あれから毎朝毎晩、運が悪ければずっと雑渡のそばにいなければならない。そばにいる間、雑渡はジロジロと蜜夜を見たり、触ろうとしてやめたり、いるのにいないように振る舞ったりする。
そばにいなければならない理由はというと、学園長から命ぜられたからだ。
「自分の仕事もあるんです。授業の用意だってこのままじゃ」
「タソガレドキへ帰るんじゃ。少しずつ仕事は減らさねば」
「わたしは」
「家族のことを知りたがっていたじゃろう。お前さん、夫や子供がいるかもしれんと言っておったな。夫には家族のことを聞いたのか」
「まだ再会して三日です」
「別にわしらに気を使わんでもいい。夫婦らしく過ごせばよかろう」
「では遠慮無く」
真下から聞こえた声に蜜夜はぞっとして立ち上がる。床下に潜み、会話を聞いていたのだ。
「あ、あの私仕事に戻らなくちゃ」
学園長の庵を飛び出したが、逃げ切れるはずもなく捕まってしまった。雑渡は進路を塞ぐように正面に立ち、ニヤニヤと見下ろしてきた。
「夫婦らしく過ごそうじゃないか」
「雑渡様、授業の準備はお済みなのですか」
「ああ。もう宿題も作った」
手を掴まれてひっぱられる。誰かに見られたら、拐かされそうになっていると思われたかもしれない。
「わたしはまだなんです。テストの採点だってあるし」
「なら手伝おう。お前の部屋に行こうか」
「あそこは男子禁制で」
「他の教師たちは入っているだろう」
とうとうくのたま長屋にまで来てしまった。雑渡はあの日蜜夜に豆菓子を渡しに来た日以来、ここには来ていない。部屋に上げるのも初めてだった。
「ここがお前の部屋か」
ぐるりと見回し、箪笥や文机をジロジロと見る。文机に置きっぱなしにしていた歯のかけた櫛を見つけると、雑渡はごそごそと懐を漁って昔蜜夜に送ったあの櫛を引っ張りだした。
「お前が大事にしていたものだ」
渡された櫛は、蜜夜が唯一望んで買ってもらった櫛だった。雑渡が裏返すと、『蜜夜』と名前が彫り込まれている。何度も撫でたらしく、すっかり馴染んでいた。きっと雑渡もこの櫛を大事にしていたらしいことがわかる。
(どうしてこの櫛を大事にしていたように、私を大事にしてくれなかったのだろう)
あの日突き飛ばしたりしなければ、蜜夜は記憶を失わずに済んだ。何もかも忘れて、愛していた男のことを化け物なんて呼ばなくて済んだのだ。
何もかも、この男の我儘のせいだ。そしてまた、この男の我儘で連れ戻されようとしている。家族を奪い、蜜夜まで奪おうとしている。
(そういえば、家族のこと何か言ったのかな)
雑渡は蜜夜が櫛をもてあそぶのをホッとした様子で眺めていた。いらないと突き返されたらどうしようかと思っていたのだ。
「あの、先ほど学園長が家族のことを聞いたかと仰ったんです」
蜜夜の家族は雑渡に殺された。子供もいない。雑渡の実家から渡されていた秘薬を服用していたし、望まなかったからだ。
「父母はどうしていますか?兄弟や姉妹はいたのでしょうか?あの、子供は?」
質問攻めというわけではないが矢継ぎ早に問いかければ、雑渡はみるみるうちに不機嫌そうに目を細めた。
「雑渡さま?」
「……お前の父母も兄弟も姉妹も亡くなっている。子供は」
なんと説明するのか、一言だって聞き漏らさないように雑渡に集中した。
「子供は、まだいない」
「どうしてですか」
「それは」
言いかけたセリフの続きは容易に想像できる。
どうせ蜜夜の所為だ。親兄弟を殺したことも、子供がいないことも、蜜夜が記憶を失って姿を消したことも、雑渡がこんな情けない男になったのも全て。
だが雑渡はそう言わなかった。
「わたしがこんな体になってしまったから」
蜜夜の知る雑渡は、どうやら大人になったらしい。
◆
雑渡は蜜夜が記憶を取り戻さなくてもいいと思っていた。何も覚えていない方が以前よりもっと良い関係になれれると思っていたからだ。
山本たちにもそう考えていることは伝えてある。諸泉だけは、やはり思い出してほしいと言っていたが雑渡の望みであるといえば納得するしかない。
記憶を失う原因が自分なのだ。普段から暴力をふるい、むりやりに抱いていたことを思い出してしまったらまた化け物と呼ばれてしまうのではないかとそれだけが恐ろしかった。
自分は化け物だ。身も心も化け物である。
人の道に外れたことをしつづけたのだから、そう呼ばれるのが似合いだろう。
「お前はわたしの世話をよくしてくれた。祝言はわたしが回復したらと言っていたんだ」
嘘はついていない。
「お前が見つかってよかった」
触っても嫌われないだろうか。口付けても怒らないだろうか。
「よかった」
握りしめた拳が震える。俯いて情けない自分を恥じていると、
蜜夜の動く気配がした。
「子供もいないようですし、タソガレドキへ戻らなくてもよくはありませんか」
言っている意味がわからなかった。背を向ける彼女が遠くにいる。
「誰かに吹きこまれたのか。学園長か、それとも誰か」
誰か他に好いた男でもできたのか。そういうと、蜜夜は鼻で笑った。
「忍び組頭の妻であったなら、特殊な情報でも知っていたんでしょうね。ならば抜忍も同じこと。どこの隠れ里も、抜忍は殺すのが当たり前ですもの。わたしのこと、殺さねば部下に示しがつきませんわね」
「お前を殺しにきたというのか」
ゆっくり振り返った蜜夜は雑渡の手元をちらりと見る。いつの間にか、彼女に向けて振り上げていた。
「殴りなさるか。自分の妻を」
「違う、これは」
慌てて手を下ろすが、どうしていいのかわからない。どちらも黙っていると、山本が外から声をかけてきた。
「組頭、そろそろ」
「ああ」
助かったと思ったがこのままにはしておけない。
一瞬頭に血がのぼったが、落ち着いてみれば蜜夜は記憶がないのだ。突然現れた『夫』に驚いているのだろう。
今日初めてきちんと彼女のことを話した。もっと、もっともっと多く話さねばならないのだ。
「殺すために探していたと思っているのなら、それは間違いだ」
「ならばなぜ」
「言わねばわからないだろうな」
わからないわけではない。忘れてしまったフリをしているだけだ。雑渡を苦しめたい一心でこんな馬鹿げたことをしている。これは復讐なのだ。
「わかりません」
「お前がわたしを愛し、わたしもお前を愛したからさ」
◆
授業が終わると雑渡の威圧に半泣きの子たちの様子を見て回るのが日課になりつつある。誰に頼まれたわけではないが、見ていられないのだ。もともと鍛錬所で子供たちに教えていたが、今の雑渡には昔のとっつきやすさのようなものが皆無なのだ。
「あの人怖い」
「僕もうヤダ」
しんべえと喜三太はいつものことだが、少し離れたところに座るきり丸は思いつめた顔で考えこんでいる。
「きり丸、おいで」
「はい」
蜜夜の部屋につれてくると、座らせて飴湯の準備をした。
「一人で飲むのはつまらないから、あなた一緒にどうかしら」
「えっと」
「みんなには内緒よ」
「……雑渡先生にもですか?」
急いで振り返ると、いつの間にか雑渡がいてきり丸の隣に座っている。
「知られたからには買収するしかないわね」
きり丸に飴湯を継いだ湯のみをもたせると、もう一つ自分の湯のみを雑渡に渡す。
「子供の好むものですから、あなたには甘すぎるかもしれません」
覆面をしていても雑渡の表情が緩むのがわかった。その横顔を、きり丸が驚いた顔で見つめていた。
すぐにきり丸は飲み終えて、アルバイトがあるからと出て行った。
「土井先生が世話していた子です」
「ああ。そういえば」
「あまり威圧しないようにと、吉野先生が仰ったそうですね」
「どうだったかな」
湯のみを片付けようと中をのぞくと、雑渡もすっかり飴湯を飲み干していた。
「うまかった」
「よかった」
気づかぬうちに微笑んでいたらしい。雑渡は目を皿のようにして食い入る様に見つめている。
「私には笑ってくれぬのかと思っていた」
「……楽しければ笑います」
「もっと見せろ」
ふわりと温かい手が頭に乗った。柔らかく頭を撫で、そして頬までその手は降りるとフニフニと指先でつついた。
(ほっぺた、前はどうだったかな)
しばらくつついていたが、蜜夜がやんわりとその手を抑える。
「そろそろ戻る時間では?」
「ああ」
雑渡が出て行くと、蜜夜は緊張のあまりその場にへたり込んでしまった。
明日から、また会うのが恐ろしくなるだろうと思った。だが楽しみに思うところもある。
「はぁ」
◆
二日間の休みの間、雑渡はタソガレドキへ戻ることになっていた。いまだ土井は見つからず、子供たちも疲れている。山田が一日おきに戻ってきてはいるが、それでも教科を教えるのは雑渡か諸泉なのだから緊張は続いていた。
その緊張は蜜夜も同じだった。日に日に雑渡は弱っていく。蜜夜の前では追い詰められた目をして息苦しそうに肩を揺らすのだ。見兼ねた山本が学園の休日に合わせて雑渡に一度タソガレドキに戻るよう進言したのだった。
蜜夜が自室の前に作った菜園の世話をしていると、山本が忍んでやってきた。
「蜜夜殿も一度こちらにお戻りいただけないだろうか」
「わたしは生活指導の仕事もありますし」
「ここではゆっくり話もできないと組頭は仰っています」
「どこでお話しても、きっとあの方は黙りこむように思いますけど」
「蜜夜殿」
腹からのため息をついた山本は居住まいを正して話し始めた。
「すでにご存知かと思いますが、このままではあなたを抜忍として処理しなければならない。組頭はそれだけは避けたいのです。タソガレドキに一度お戻りください。長老らも本人と一度話したいとお考えです」
「ふふ。あの人に殺されるなら本望だわ」
そこまで言ってしまって慌てて口を抑えたがもう遅い。山本はギョロリと目を動かし蜜夜をまじまじと見つめた。
「やはり、覚えているのか。答えろ。いつからだ。何故こんな真似を」
黙っている蜜夜の肩を、山本が強く掴んで揺する。
「まだ復讐なぞ続けているつもりか!」
怒鳴りつけると蜜夜は山本の手を振りはらって怒鳴り返した。
「そうよ!復讐よ!あいつの玩具にされるなんてもう嫌なの!あの時殺してくれてれば、こんな馬鹿な真似しなかったわ!」
興奮しすぎて口がうまく動かない。涙まででてきて、ぶざまにしゃくりあげていた。
「酷いことをしてしまったんです。たぶんあの人は、私のことすごく大事にしてくれていたのに忘れてしまって」
「あれは昆が悪かったんだ。昆だけじゃない、俺も陣左も里のみんなの責任だ」
乱暴するのはやめるように言っていたのに、根本的な問題を正そうとはしなかった。
「だから昆はこの五年ずっと。お前もそうだろう」
「あの人がまた『蜜夜ちゃん、ごめんね』って、そういうならやめようと思った」
持ち歩いているあの櫛を手にしてうつむいた蜜夜はその櫛を山本に投げつける。受け止めて蜜夜を見返すと、彼女は隠し持っていた護り刀を喉に突きつけていた。
「山本さま、ごめんなさい」
「謝る相手が違う」
「ごめんなさい」
震える声が他人の口から聞こえるようだ。
手首を少し横に動かせば、このバカバカしい復讐は終わる。
本当は雑渡に殺させるつもりだった。なのにあの男は、触れようともしない。抱いて口付けることも、昔のように畳に押し付けて殴ることも。
「ごめんなさい」
◆
タソガレドキへ帰る前に、授業日誌をきっちり書き終えた雑渡は、蜜夜のところへ行き癒やされようと職員室を出た。
(今日こそ抱っこしたい。抱っこ抱っこ)
そばに居られない時は今度こそ蜜夜をと思うのだが、目の前に来ると手が引っ込んでしまう。無理矢理にしてまた化け物と言われたらとそればかり思い出してしまってダメだった。
(蜜夜ちゃんて呼んでみようかな。そしたら思い出すかも)
ウキウキしながら彼女の部屋に向かうと、庭先から話し声が聞こえた。
「酷いことをしてしまったんです。たぶんあの人は、私のことすごく大事にしてくれていたのに忘れてしまって」
「わかってる。あれは昆が悪かったんだ。だから昆はこの五年ずっと。お前もそうだろう」
「あの人がまた『蜜夜ちゃん、ごめんね』って、そういうならやめようと思った」
庭に飛び出すと、蜜夜が首に護り刀を押し当てているのがわかった。
「ごめんなさい」
蜜夜は雑渡を見てそういった。そして微笑んだ。
いつもそうやって微笑みかけてくれていたのを思い出し、雑渡はその微笑みの意味を知った。
あれは自嘲していたのだ。復讐相手である雑渡を愛し、自分を偽って復讐しようと試みる愚かさを嘲笑っていたのだ。
「勝手に死ぬってどういうこと。またわたしから逃げるの。もう何回逃げれば気が済むの」
「ごめんなさい」
「謝るのはわたし。親兄弟殺して、君を玩具にして、それでも君は愛してくれたのに、受け止めてくれたのに、たった一度『化物』なんて言われて嫌いになりそうになった自分を許してほしい」
ちゃんと言わなければならない。好きというだけでは伝わらないのだ。
「蜜夜ちゃん、ごめんね」
大粒の涙が蜜夜の頬を流れていく。護り刀を取り上げると、崩れ落ちてわっと泣きだした。
「化物だけど愛してくれる?」
「昆奈門さま」
彼女の横に膝をつき覆いかぶさるように抱きつくと、蜜夜も雑渡の胸に顔を押し付けてくる。
「好きです。あなたが好き。昆奈門さま」
◆
蜜夜の部屋では誰が来るかわからないので、雑渡が寝起きする離れ座敷に連れ込まれた。
「昆奈門さま」
「大丈夫。優しくできる。できるから」
口ではそういいながら、雑渡は乱暴に蜜夜の来ていた装束の帯を引きちぎっている。
今も彼が変わったとは思えない。そして自分も。
「顔を見せてください」
「……別に見なくても」
「あなたの顔、まだ見ていない」
手をのばそうとすると、雑渡は腕立て伏せするように上半身を上げて逃げた。
「怒ってるんですか」
「怒ってるわけじゃない。ただ」
怖いのだ。化物と呼ばなくても、怯えていない振りをしてみせても。雑渡は思い込みの激しい性質だと蜜夜もよくわかっている。
そうっと指を覆面に引き下ろす。雑渡の震える息が蜜夜の額にかかった。
「火傷、だいぶんよくなりましたね」
「うん」
「誰が手当を続けてくれたんですか」
「陣左が」
「あの子は本当にあなたのこと、大好きですね」
「わたしは蜜夜ちゃんが一番好きだよ」
蜜夜の胸を枕にしてくすんくすんと鼻を鳴らす。泣いているのかと思ったら、笑っていた。笑いながら、蜜夜の体をまさぐる。
「あっあっ」
「ここ好きだよね」
蜜夜の中に指が入った。曲げたり伸ばしたりされると腰が浮いてしまう。その様子を見ていた雑渡は、蜜夜に口付けて笑った。
大きく足を開かせて押入れようと雑渡が腰を突き出した時だった。蜜夜は引き裂かれるような痛みに飛び上がった。
「どうしたの?」
「痛いです、痛い」
「もしかして」
この五年、蜜夜は誰にも体を許していなかった。
「こうなったらあなただけと決めていたんです」
「蜜夜ちゃん」
ジリジリと体重をかけてやっと全て収まった。息も絶え絶えの蜜夜の上で、雑渡は最後の我慢を強いられていた。
「動いてもいい?」
聞きながら蜜夜を引き寄せると、蜜夜は目を細めて舌を雑渡に向けて突き出した。
「いいですよ。前のように抱いてください」
その頃蜜夜を探して大木が歩き回っていた。
「うーむ。もしかしたら外出しているのかもしれんなあ」
そうなれば目当ては蜜夜ではなく、今この学園に滞在しているタソガレドキ忍び組頭の雑渡昆奈門に変わる。
「西の離れ座敷だったかな」
会ってはっきりと言うつもりだった。もう蜜夜に関わるなと。
話してわかりあえるとも思えなかったが、平和的に行くならまずは対話するしかない。
「失礼する。わたしは大木という。話しがしたい」
座敷の表から声をかけると、閉め切られていた障子が開いた。
「大木先生」
蜜夜の声に驚いて目を凝らすと、薄暗い部屋の中に蜜夜がいた。せわしなく髪を撫で付けているのを見ると、何をしていたのか想像せずにはいられない。
「蜜夜先生、ここで何を」
上ずる声に笑ったのは彼女ではなく雑渡だった。
「蜜夜。お前のことを心配しているようだぞ」
「茶化さないでください。大木先生、わたしはもう行きますからどうぞお上がりになって」
まるで部屋の主のような口ぶりだった。そういうところにも、蜜夜と雑渡の距離感を感じて大木は残念に思う。
◆
夕食を食べに食堂へ行くと、山田が食べ終えてお茶を飲んでいるところだった。
「蜜夜先生、タソガレドキへは行かなかったのか」
「はい。残る生徒もいますから」
「旦那さんは嫌がっただろう」
「今回は自分も忙しいからと言われましたよ」
「……大木先生のことだが」
「さっき雑渡先生のところへ来て何かお話していましたが」
「そうか」
お茶をいれて飲んでいると、ちらほらいた教師たちはいなくなりいつの間にかきた大木と蜜夜がいるだけになった。
「夫には大事にされているようだな」
「内縁の夫みたいなものですよ。祝言はまだあげていなかったですから」
「記憶も戻ったか」
「はい」
蜜夜から茶碗を受け取った大木は、ずるりと茶をすすって息を吐く。
「戻らんでもよかったがな」
ひざに載せていた蜜夜の手をとると、大木はぎゅっと握りしめて顔を覗きこんできた。残念そうというよりは悔しがっているようだ。
「わしと杭瀬村に来んか」
「行けません」
「もう泣かんですむぞ」
「それは」
「記憶が戻ったならわかるだろう。あの雑渡昆奈門という男はお前さんに酷いことをしつづけてきた。親兄弟を殺し、あんたを」
「玩具に本気になるような人です。馬鹿ですよ」
「あんた、本気で」
「馬鹿です」
◆
無事に土井が見つかり、雑渡は忍術学園に来なくてもよくなった。その時雑渡はもちろん蜜夜も一緒にタソガレドキへ連れ帰るつもりだったのだが、なんと学園長が待ったをかけた。
「蜜夜先生がいなければくのたまたちはどうなる」
確かにくのたまたちは困るだろう。蜜夜もそれがわかっていてわざわざ辞めることはない。
「しかし妻は」
「ずっと働かせるというわけではない。そうさな、つぎの春までということにしよう。今の最高学年たちの卒業に合わせるのはどうか」
「わかりました。では休暇ごと、妻はタソガレドキに帰してもらう」
正門まで見送りにきた蜜夜に、雑渡は不満そうな顔をした。
「蜜夜ちゃんが帰りたいって言わないから」
「言ったら連れて帰ったと?」
「もちろんそうだよ。今だって一言言ってくれればわたしは」
そこまで言ってしまったと雑渡は蜜夜を振り返る。我儘を言うのはもう止そうと思っていたのだ。なのに、顔を見れば我儘ばかり言っている。
「そうじゃなくて、あの」
蜜夜の方を見ると、にっこり笑った彼女がいた。
「昆奈門さま、我儘ばかり仰っていては山本さまの心労が増すばかりです」
「蜜夜ちゃん」
「また遊びに来てください」
最後にぎゅうっと抱きしめて雑渡はタソガレドキへ帰っていった。
五年前、蜜夜は大雨で増水した川辺に倒れていたのを発見された。大木雅之助というこの学園で教師をしていた男が、学園近辺の大雨の被害を調査しているときに見つけたそうだ。
(大木先生が見つけてくれたのはここらだったと聞いた)
実際には、誘拐した風の玉三郎らによって直接忍術学園に移されており、この河原にいたことはないのだが蜜夜は知らない。大木から、ここで見つけたと聞いたのを信じていた。
今日は伊作と伏木蔵がこの河原に薬草を採りに行くというので、丁度忍術学園に滞在していた大木に頼み込んで一緒に来た。
「私はどのあたりにいたんですか」
見回しながらそう言い、大木を振り返った蜜夜は大木がまったく話を聞かずにぼんやり川面を眺めているので袖を引いた。
「もう!聞いてますか?」
「あ、ああ。えーっと、確かあのあたりに」
適当に大木が指さした方に蜜夜はふわふわと歩いて行く。なんだか危うい足取りに思えて、大木は不安になった。
「ここでわたしは」
蜜夜はぐるりと辺りを見回して何か自分の痕跡を見つけられないか、ひとつでも思い出せることはないか。そんなことを考えながら、風景や足元の小石を見つめる。
普段はゆったりと流れている川だ。河原には丸い小石がたくさんあって、草履で歩くとその感触が足の裏に伝わって面白い。山の影にかくれるここは、まだ昼を過ぎたばかりだというのにすでに薄暗くなってきていた。
最後に残った陽だまりに立っていた蜜夜が深緑の川面を見ていると、その対岸に誰かがいることに気づいた。黒い闇の中に一つ目がジットリとこちらを見つめている。
そんな風に見られたことが前にもあったような気がしたが、思い出そうとすると恐怖がつま先から駆け上がってきて息ができなくなる。
「はあ、はあ」
肩を揺らして後ずさりすると、背後でパキンと小枝の折れる音がした。振り返ると大木が不安そうに眉間に仕合を寄せて立っていた。
「そろそろ帰ろう。日が落ちる」
「ええ。そうですね」
青ざめ冷や汗までかいている蜜夜を、大木が心配そうに伺う。蜜夜は日が暮れると外を異様に怖がるのだ。
「どうかしたか」
「対岸に、誰かいるの」
囁き声も震えていた。
蜜夜をかばうように対岸を向いた大木は、鋭い目つきでサッと周囲を見回す。だが山の陰になった対岸はすでに木々の枝葉も見えないほど暗くなっていて、蜜夜が怯えているモノを見つけることはできなかった。
「用心して帰ろう」
大木が蜜夜の手を取ってしっかり握った。握られた手を見ると、蜜夜の頭は霞がかったようにぼんやりして物事が見えづらく考えにくくなる。
「大木先生」
「大丈夫だ」
◆
忍務帰り、山本は雑渡の後ろについて走っていた。どこへ行くにも雑渡は蜜夜を探している。彼女が行方不明になってから五年が経っていたが、未だに雑渡は蜜夜を探していた。まるでこの世に蜜夜しか女がいないような有り様だった。
雑渡家が跡取りに子がいないと家が絶えることになると、長期忍務で隣国に潜入していたくノ一を添わせようとしたことがあったがくノ一の方が逃げ出してしまった。今現在の陣左が唯一褥を共にする相手となっている状態はあまりにも好ましくない。
山本はそばでずっと苦しむ雑渡を見守ってきた。苦しみを昇進に向かわせたのは山本や諸泉だ。それまでの荒れた生活をどうにか人間らしくしてやりたいと相談してやったことだ。
お陰で今ではタソガレドキ忍軍百人を束ねる組頭になっている。
急に前を走っていた雑渡が立ち止まった。木の幹に手を付き、右目を見開いて何かを凝視している。その視線を追うと、川を挟んだ対岸のひだまりに誰か立っている。
「蜜夜ちゃんだ……」
飛び出していこうとするのを羽交い締めにして止めた。今までもこんなことが何度もあったのだ。背格好の似た同じ年頃の女に飛びついたこともあったし、面立ちが似た女の時は酷く罵って暴力まで振るおうとした。
「離せ。蜜夜ちゃんだ。絶対に、今度こそ」
もがく雑渡の腕が空を掴む。この状態を一人で抑えこむのは大変だった。
「落ち着け。そういって半年前も赤の他人だったじゃないか」
とにかく様子を見ようとなだめていると、彼女がこちらに気づいたようだった。向こう岸から自分たちがいる森を怯えた顔で見ている。雑渡も同じく怯えた顔で彼女を見返していた。
暫くの間見つめ合っていたが、向こう岸で動きがあった。男が一人蜜夜に近づいて話しかけている。
その男に見覚えはなかったが、蜜夜とは親しいらしく手を握っていた。押さえ込んだ雑渡が暴れるのではと思っていたが、注意深く彼らを観察している様子を見ると、あれが蜜夜の幻だかよく似た他人だかではないと判断しようとしているらしかった。
「陣内、見て」
賑やかな子供の声が響いた。
「蜜夜先生、伊作先輩が川に落ちました」
移動して河原が見渡せるところまで来ると、忍術学園の善法寺伊作と鶴町伏木蔵が足をびしょびしょにして立っている。
彼らの会話を耳を澄ませて聞いていた雑渡は、四人が去っていったのを確認してから静かに口を開いた。
「名前、蜜夜だって」
「あぁ」
雑渡はやっと見つかった喜びが、じわじわと体の芯に染みてくるような気がして落ち着かなかった。一緒にいた男のことはもちろん気になるが、それより何より喜びの方が大きい。
「蜜夜ちゃんだよ。あの子、やっぱり生きていた」
何度も死んだのだから諦めろと言われた。もっと良い嫁を見つけると言われて、連れてきたのは奥勤めをしていたくノ一で、どういうつもりなのか蜜夜に似せた化粧までしていた。一瞬惑わされたのは、それだけ蜜夜が恋しかったからだ。抱こうとして匂いが違うことに気づき、半死半生になるまで殴り終にそのくノ一は二度と仕事ができない体になってしまった。雑渡が仕事に出ている間に逃げ出してそれっきりである。
「陣内」
「ああ、わかっている」
◆
身のこなしをみる限り、蜜夜は立派な忍だった。自分の身を守る程度には体術を会得しているようだし、忍術に関してもそうだ。すべて、雑渡の元にいる時に意図せず身につけたものだった。
くのたまの講師を任せるには丁度いい。その出自さえわからないことを除けばまさに、ぴったりの人物である。
「大木先生はどう思う」
「素晴らしい人物かと思います」
「素晴らしいか」
小さな紙切れを大木の前に差し出した。黙って受け取った大木は、ため息をついてその髪を火鉢に放り込む。
「ここに来た時点で、記憶喪失だったという情報は嘘だったと」
「いや、記憶喪失だったのは間違いない。当時タソガレドキの隠れ里では大騒ぎだったそうだ。その騒ぎに紛れて拉致に成功した。あの時は、タソガレドキの弱体化の要にできればいいと考えておった。あと数年もすれば、また組頭は代替わりするだろう。現在の組頭ほどの人物はもう現れまい。しかしここまで保ったのは想定外じゃった」
「蜜夜先生はどうなるんです」
「どう、とは?」
「タソガレドキ忍軍の組頭が代替わりしたら、彼女は」
「どうもせん。お前さんのいうとおり、彼女は素晴らしい教師じゃ。この学園で教師を続けてもらう。それか……」
長い眉毛で見えなかった目が光った。どうせろくでもないことを考えているのだろう。
「お前さん、蜜夜先生と夫婦になるか?」
柄にもなく赤面してしまった。兄貴分のつもりで彼女に接していたが、すでにその気持ちは変わっている。
「……そのつもりがなかったら、毎回休みのたび家に連れ帰ったりしませんよ」
連れ帰ってはいるが同じ布団で寝るようなことはしていない。未だに抱けずにいるのは、単に大木が意気地なしだからだ。
「ふん。いい年の男がゆでダコみたいに顔を赤くしおって。まったく」
学園長の庵を出た大木は、蜜夜を探してくのたま教室へと向かう。
生け垣を回って庭に出ると、ここにきたばかりのくのたまの一年生が蜜夜に抱かれて眠っている。顔に涙のあとがあるのを見て、家が恋しいのだろうと思った。
「手伝おう」
「ありがとうございます」
長屋に運んで寝かせると、大木は蜜夜と一緒に腰を下ろした。
「今、一番ツライ時だろうな」
「ええ。寂しがる子が多くて」
「……蜜夜先生はどうじゃ」
「わたし?」
「寂しくはないか」
真面目な顔の大木は、何故かはっとして顔をそらす。蜜夜は大木が聞いてしまったことを後悔しているのだと思った。
吹き出して笑い出した蜜夜を、大木が不安そうに見つめる。
「帰りたいと思ってたら帰ってるわ。そうでしょう?」
「もしかして、記憶が」
にこにこしている蜜夜に、大木はそれ以上言えなかった。
「わたし、どうして忘れてしまったのかしら」
記憶喪失になったのは事故ということになるだろうが、雑渡のもとから誘拐したのはオニタケ城と忍術学園の思惑である。記憶を失っても、好いた男のそばにいたほうが幸せだったに違いない。
「蜜夜先生。すまん。すまんのう」
知っていて何も言わない自分が、酷い悪党のように思えた。
◆
大木が学園を辞めると皆が知った時、もちろん蜜夜もここを辞めるのだと思われた。蜜夜が6年前大木に拾われる前の記憶を失っていることを知るのは職員たちだけで、生徒たちは何も知らないのだからそう思うのも無理は無い。
「じゃあ離縁なさったんですか?」
面と向かってそう聞いてきたのは4年の綾部だった。穴掘りを楽しんだ綾部が昼食を取りにきたとき、蜜夜も食堂にいたのだ。
「綾部喜八郎くん。難しい言葉を知っているね」
「知っています。だって姉が一昨年に離縁されて家に戻ってきましたから」
「……そうだったわね」
姉というのはこの学園のくのたま教室卒業生第一期生だ。蜜夜もよく知っている。
「初音さん、お元気?」
「元気ですよ。力ばっかり強くて、今は佐武衆のところでお世話になっています」
「佐武衆に?」
「はい。合戦で見かけた照星さんに一目惚れしたとかで、今は押しかけ女房気取りですよ。父が相手に申し訳ないから戻るように言ってますけど、母がそのまま子供作ってしまえとけしかけていて」
「まぁ」
「離縁された姉は今とっても幸せそうですから、蜜夜先生もきっと幸せになりますよ」
「……うん。でもわたし、離縁するも何も大木先生とは夫婦じゃないから」
「そうですか」
大木は学園を辞めたあとも、何かと顔をだす。作った野菜を届けにきたり、教え子の様子を見に来たり、野村と喧嘩売りに来たりとなかなか忙しいようだ。蜜夜とはいい関係のままで、何かあれば自分のところに来るようにと言ってくれていた。
甘えているのは承知している。大木だってそのうちにいい人を見つけて結婚するだろうし、自分だって早く記憶を取り戻して、いるべきところに帰りたい。
(考えてたら疲れてしまった)
もう寝ようと布団を敷いて寝転がる。うとうとと目を閉じかけて、何かの気配に驚き飛び起きる。すでに明かりは消していて見回してもよくわからない。
だが確実に、何かいた。
「だれ?」
六年のだれかが戯れにここにきたのかと思った。しかし、それにしては気配がなさすぎる。
危険な相手だとしたらくのたまたちが危ない。
だが警笛代わりの呼子笛に手を伸ばしたところで、その気配はプツリと消えた。
「なんだったんだろう」
神経質になっていただけかもしれない。そう考えて、また布団に戻った。
山本が黒鷲隊と共に独自に調べた内容によると、蜜夜はオニタケと忍術学園が結託しタソガレドキの弱体化を狙って起こした事件だとわかっていたが、最近になって前組頭が一枚噛んでいることがわかった。一枚どころではない。土台はこの前組頭が作った計画といっても過言ではないだろう。
現在唯一の良いことといえば、あの日蜜夜と一緒にいた男がすでに忍術学園を辞めて杭瀬村というところに一人でいることだ。蜜夜が一緒に行くようなことになれば、雑渡は凶行に走っていただろう。
「押都長烈。いるか」
黒鷲隊が管轄する保管室に入る。さまざまな情報を統括し、保管している部屋だ。
「おう。ここに」
書類のつまった棚の間から滑り出てきた男は、面をめくり上げて後頭部へ垂らし巻物を読んでいたらしい。
「ついにこれを組頭にお見せするのか」
「ああ」
押都が懐から取り出したのは真っ赤な表紙の和綴じ本だった。これは山本が蜜夜が行方不明になった件をまとめたもので、蜜夜が忍術学園の職員として生きていることもすべて書かれている。拉致の首謀者にも触れており、かなり危険な内容だ。山本が保管すると、雑渡に感付かれるかもしれないと考え押都に預けていた。
「長かったな。居所がわかった時点でさっさと報告すべきと言っただろう」
「ああ。しかし、あの時は戦が続いていた。そんな時にお教えしたらどうなっていたか」
忍術学園を襲っていただろう。幼い子供が死ぬのは見たくない。
そんな時に諸泉が土井にちょっかいをかけ、今回はどういうわけか勝ったと喜んで帰ってきた。
「そして奴は崖から」
報告を聞いた雑渡は、喉を鳴らして笑った。
「あーあ。まだ向こうに接触してないのに、どうすんの」
声を聞いた諸泉はサーッと青ざめて俯く。笑ってはいるが相当怒っているのがわかったのだ。
これまでも忍術学園に出入りしている。しかし、くのたま教室には接触していない。接触していたら、まず一番に蜜夜の存在を知っただろう。先日、蜜夜を見つけてから雑渡は学園に何度か手紙を出そうとしていた。しかし腰を据えてとりかからねばならないこの問題の前に、雑渡はタソガレドキ軍忍び組頭としてこなさなければならない仕事が山ほどある。
苛立つ雑渡をなだめすかし、私事は二の次と誘導してはいたが今回がその時ということだろうと山本は考えていたが、さすがにどうなるのか想像ができない。
雑渡は蜜夜をどうするのだろう。怒り狂い、彼女を殴るだろうか、蹴るだろうか。しかし彼女は今、忍術学園の職員だ。雑渡の玩具ではない。下手を打てば戦の火種になりかねない。
もともと彼女が忍術学園に居ること自体が不穏なことである。
◆
忍術学園には雑渡と山本そして諸泉だけで向かった。高坂は途中で合流することになっている。
忍び込むと、どういうわけか事務員と書かれた札を胸に縫い付けたボケっとした顔の青年が諸泉を追いかけていった。
「まったく、あいつは」
「情報通りです」
山本が淡々と言う。
前からここに忍び込んでは、ああして追いかけ回されていると聞いていた。
蜜夜がここにいると知ってからは、くのたま長屋にまで入り込もうとしていたらしく、その度罠にもかかっていたらしい。
「放っておきましょう。職員室はあちらです」
職員室に向かう道すがら、そこかしこに子供の気配を感じる。雑渡はもともと子供が好きだし、山本も家の子らを思い出していた。
「かわいいね」
「ええ」
「……あのくらいの子がいてもおかしくなかったんだよな」
最近よく言うセリフだ。五年経った今でも蜜夜が忘れられずいる。
「組頭」
ここで蜜夜を見つけたら、雑渡はどうするだろう。蜜夜に詫びるだろうか、それとも。
「わたしのところの長子が生まれたのは、今のあなたくらいの年でした。遅いなんてことはありません」
慰めになったかどうかわからないが、雑渡の雰囲気がいくらか和らいだようだった。
◆
香ばしい匂いと、包帯のあの感触、そして薄気味悪い顔の崩れた男。
最近見る夢にいつもでてくるのものだ。目を覚ましても目眩がひどく起き上がることができないので布団を握りしめて吐き気を堪えるしかない。
いつもは少しすれば動けるようになるのだが、今日はなかなか動けなかった。早く身支度をして食堂に行かなければ朝食を食べそこねてしまうとわかっているのに、まるで布団に縫い付けられたようだ。
「蜜夜先生、おるか」
静かに障子を開いて顔を出したのは大木だった。今日来るとは聞いていたが、これほど早い時間とは思わなかった。
「新野先生には診てもらったのか」
「いえ……」
手を借りて体を起こすと、大木が湯冷ましを注いだ茶碗を手渡してきた。
「しばらくこっちに来ないか。あんたは働き過ぎだ」
昼夜関係なく休みもない。くのたま長屋で暮らす子供たちの世話をしている蜜夜は、くのたまの母と一部で呼ばれている。
「学園長にはわしから話す。だから」
「大木先生は優しいですね」
礼のつもりでそういった蜜夜は大木がどんな顔をしているのか見ていなかった。
もし見ていたら、大木がぐっと喉をつまらせて後ろめたげに顔を逸らす意味を考えることになっただろう。
学園長は快く蜜夜を大木のところへ送り出してくれた。
「早い方がいい。今から出れば夕暮れ間に合う」
「職員室に資料を置きっぱなしなんです。それだけ片付けさせてください」
「わかった」
その時丁度山田と土井の部屋の前を通りかかった。
バシッと障子が破れそうなくらい勢い良く開かれ、覆面と包帯で顔のほとんどを覆った背の高い男が立っていた。後ろにはもう一人同じ忍び装束の男と山田がおり、山田は懐に手を差し入れて身構えていた。
蜜夜は一瞬のうちに大木によってその背にかばわれ、殺気立つ周囲にただ驚いている。
「あの、何が」
「蜜夜」
名前を呼ばれて大木の後ろから首を伸ばしてみると、男がぬっと蜜夜に手をのばそうとして大木に払いのけられていた。
「なんでこんなところに」
大木はまるで死人が蘇ったような口ぶりで叫び、蜜夜を守ろうとする。しかし大男はいとも簡単に大木をポイっと庭に投げ捨てた。。
「探したよ。蜜夜ちゃん」
男は蜜夜をしっかりと胸に抱いて座り込む。
「よかったぁ。よかった。本当によかった」
なにがどうよかったのかわからない。庭に投げ捨てられた大木が心配だったし、いきなり見ず知らずの大男に抱き締められて怖かった。
「こんなところにいたんだね。もう大丈夫。帰ろう。部屋はあのままにしてあるよ」
ぺらぺら喋りながら覆面を下ろした男の顔を見た蜜夜は、今朝みた夢を思い出した。まさか正夢になるなんて誰が予想できただろう。
「どうしたの、顔色が悪いよ」
「やめて」
「蜜夜ちゃん?」
「触らないで!」
押しのけて庭に転がるようにして降りた蜜夜は、大木に抱えられて気を失った。
◆
朝方、まだ空が明け切らないうちの紫色の靄の中。蜜夜は寝巻きに羽織だけ肩に引っ掛けて庭に降りた。
この長屋の庭には、蜜夜が作った菜園がある。菜園とは名ばかりで、あるのはツワブキやムラサキなどの薬草ばかりの小さな畑だった。
(この畑が火傷に効く薬草ばかりだって、気づいてた)
人に指摘されたことはない。だが自分で選んでいるのだから、その規則性にはすぐわかった。
(あの人、喜んでいた)
昨日、蜜夜は雑渡に会った。『会った』というより『遭った』という字の方が正しいかもしれない。
すべて思い出そうとすると、また吐き気がする。無理矢理に記憶を引き出そうとすれば、目眩と頭痛が酷いのだ。それでも一晩かけてなんとか思い出せたのは、自分が雑渡昆奈門に家族を殺されて囚われ、長く彼の玩具として過ごしてきたということだった。
いつか見た気味の悪い夢の通りだったのだ。具合さえよければ忍術学園から逃げ出していた。大木と一緒に杭瀬村で、ラビちゃんと一緒に畑仕事をしていただろう。大木は蜜夜を部屋に寝かせると、何も言わずに帰ってしまっていた。
朝露で濡れたツワブキの葉を何枚か選んで摘み取り、それをもって立ち上がると山の脇から朝日が少しずつ昇ってきているのが見えた。
温かい光が顔を照らして目を閉じると、まっくらになった。ゆっくり目を開くと、雑渡が目の前に立ってなにか言いたげな目でこちらを見ていた。
「何か」
「……土井先生が見つかるまで、私がその穴埋めをすることになった」
きつく拳を握った雑渡の手は震えている。この大男が、まるで蜜夜に脅えているようにみえた。昨日の印象とはまったく違うことに驚いたが、何か考えがあるのだろう。
「見舞いだ」
懐から引っ張りだしたのは、いつか殿さまにもらったといって蜜夜に食べさせた豆菓子だった。あの時と同じ袋に入っている。
「ありがとうございます」
「……具合はどうだ」
「もう大丈夫です」
「そうか……私は」
「存じております。タソガレドキ軍忍び組頭雑渡昆奈門様」
昆奈門様と呼んだ時、雑渡が伏せ気味だった顔を上げて蜜夜を正面からじっと見つめてきた。何か期待したような、そしてその期待を自身で打ち消すような逡巡さえ感じて、蜜夜はどうしようもなく辛くなってしまった。
復讐を果たさねばならない。そうしなければこれまでの苦労が水の泡だし、死んだ親兄弟に申し訳ない。
自分が幸せになれるなんて思ってはいけないのだ。
「寝間着で失礼しました。では」
頭を下げてまた顔をあげるともう雑渡の姿はなかった。
「はあ」
どっと疲れてしまったように思う。そっと手を開くと、手の中にあったツワブキの葉は握りしめていたせいですっかり折れ曲がってしまっていた。
今日は授業がない日だった。くのたまたちの様子でも見てこようかと障子を開くと、ちょうど事務のおばちゃんがきた。
「蜜夜先生、職員会議が始まるわ」
「はい。議題って」
「土井先生とタソガレドキ忍者のことよ」
廊下に出ようとすると、おばちゃんはさっと周囲を見回して中に入って後ろでに障子を閉めた。
「どうしたんです?」
「先に伝えておこうと思って。昨日のこと」
「タソガレドキ忍組頭のことですか?」
思い当たることはそれしかない。おばちゃんは大きく頷いた。
「今朝、学園長にあなたが行方不明の自分の妻だと話したの。学園長は何も仰らなかった」
「……何も」
おばちゃんは囁き声で「蜜夜先生」と呼びかけた。慰めるような表情だ。
「あなたはこれまで、学園の重要な情報は何一つ知らないでしょう。焔硝蔵がどこにあるのかさえ、あなたは」
しゃべっていておばちゃんは蜜夜があまり興味なさそうな顔をしていることに気づいたようだった。そしてそれ以上はもう言わず、会議が始まるからとそそくさと部屋を出て行く。
「ありがとうございます。でも、わたしもう大丈夫です」
「大丈夫って」
「大丈夫なんです。だって、わたしの『家族』が見つかったんですもの」
◆
どういうことだとおばちゃんが聞きたそうなのはよくわかった。チクチクした視線を背中に感じたし、なんども咳払いで注意をひこうとしていた。
職員室に入ると皆が蜜夜を振り返って見た。蜜夜が雑渡の妻という情報は、すでに皆の知るところらしい。
「蜜夜先生はこちらに」
「はい」
山田の言う儘に彼の隣に座った。閉め切られた部屋は、耳鳴りがするほど静かだ。どうして誰も口を開かないのかと思っていたら、部屋の奥の暗がりに雑渡ともう一人若い青年が座っている。部下のようだ。青年は腰を浮かし気味にして蜜夜を見つめ、雑渡と見比べている。
(尊、大きくなっちゃったのね)
知っている姿の面影はある。蜜夜の腰にくっついてメソメソしていたのが懐かしい。
「揃ったな。蜜夜先生、具合はどうじゃ」
部屋に入るなり学園長は朗らかにそう言い、腰を下ろした。
「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です」
「それはよかった」
職員会議ということで、円座になって座っている。議題は聞いていた通り土井のことだった。土井はそこにいる諸泉と果たし合いをして行方不明になっているのだそうだ。
「今後、土井先生が見つかるまでその穴埋めをタソガレドキ軍忍び組頭にしてもらうことになった。そしてその忍び組頭は、蜜夜先生の夫でもある」
どよめき全員の目が蜜夜に向く。蜜夜はシャンと背筋を伸ばして座ってはいたが顔をあげられずにいた。
「しかし蜜夜先生は五年より前のことを覚えていない」
日向が確かめるように言うと、厚木が頷いている。蜜夜に集中していた目が雑渡に向くのを感じ、蜜夜はやっと顔をあげた。
「妻は五年前、土砂崩れに巻き込まれて行方不明になりました。これまで探しておりましたがこちらに保護されていると昨日知り、学園長先生に事情をお話したのです」
明るい声の雑渡は一気にそれだけいうと、蜜夜に微笑みかけた。
「記憶がないのは残念なことですが、共に過ごすうちに思い出すでしょう」
すでに思い出していると知ったら彼はどんなふうになるのだろう。喜ぶだろうか、それとも思い出しているのに今まで帰らなかったのかと罵るだろうか。これまでそうだったように殴るか蹴るかもしれない。
もう殴られるのも蹴られるのも嫌だ。だからやはり、黙っているのが正しいだろう。
ぼんやりしているうちに会議は終わっていた。皆が立ち上がるのに混じって蜜夜も部屋を出ていこうとすると、目の前が暗くなった。雑渡が正面に立ち、蜜夜を見下ろしている。
「なにか?」
「……妻、だろう」
さっき自分でそう言ったのに、蜜夜に同意を求めるなんてよほど自信がないのだろうか。ならば記憶が無いことになっている蜜夜はこう答えるだけだ。
「わかりません」
◆
夫だからといって蜜夜の長屋にまで行くのは咎められた。なにせそこはくノたま長屋のそばだし、普段からしても男子が入ることは禁じられている。
朝忍び込んでいた雑渡はまた忍び込めばいいと思ったらしいが、タソガレドキ忍者がうろつくことになったので警備を厳しく改めると吉野にきつく言い含められた。
「あのあたりには立ち入らないでください。金持ちの子女も多くいますので、問題は困りますから」
「しかし自分の妻の部屋に行くのに」
「本当にあなたの奥さんなんですか?そういうふうには見えなかった」
「蜜夜がそういったんですか」
噛み付くように言い返せば、吉野はフンと鼻を鳴らした。
「見えなかったといったでしょう。まるで虐げられていたように怯えていたじゃありませんか」
のっぺりした瓜実顔をしかめると、雑渡はこれ以上何を言っても無駄だと口をつぐんだ。
「とにかく問題は困ります。それだけは肝に銘じておいてください」
職員室で充てがわれた机の上には「忍たまの友」が一冊置いてある。
「ではそろそろ時間です。子供たちをあまり威圧しないように」
威圧するなと言われたが、こんな精神状態ではそれも難しい。怖がらせないようにと気を遣うのも面倒だった。
授業が終わると、元気だった子供たちは随分消耗したようでぐったりと机に伸びていた。それを横目に教室を出た。
実技の授業のために運動場へ出ると、蜜夜が薬草を入れたカゴを抱えて目の前を横切っていった。
「おい」
振り返った蜜夜が雑渡をまじまじと見つめて首をかしげた。まさかさっき会ったばかりなのにまた忘れられたのかと身構えると、蜜夜は愛想笑いを浮かべて会釈する。まるで他人のようだ。
「御用でしょうか」
「お前の部屋に行くなと言われた」
「男子禁制ですから」
「わかってるならお前が来い。授業が終わったら、わたしのところに」
言うだけ言って蜜夜に背を向けて歩いた。返事を聞くのが怖かったのだ。拒否されたらと思うと膝が笑う気がする。
そんな無様な姿、何も覚えていない彼女には見せたくなかった。どうせなら、また愛してもらえるようなかっこいいところを見せたい。
(そうだ。考えていたじゃないか。同じ轍を踏むまねはしない)
だったらあんなふうに命令するようではダメだ。やり方を考えなければ。
◆
来いといったのに来なかった。今日はもう授業は終わっているはずだ。夕食前には来ると思っていたのに、まったく来る様子がない。
一年は組の授業を行う間、雑渡は敷地内にある客を泊めるための離れ座敷に泊まることになっている。夕食は他の職員と同じように食堂で食べたが、蜜夜と一緒に食べるつもりだった雑渡は機嫌が悪かった。
離れ座敷にいることは蜜夜も知っているだろう。なのに来ないのだ。
「組頭。蜜夜さま、来ませんね」
「探して来い」
「あっちは男子禁制って」
「早く」
「は。」
飛び出していった諸泉が戻る前に、蜜夜がやってきた。二人きりになると知るや、部屋の中には入ろうとしない。
入り口に立ち尽くし、どうしようかと迷っている。
「はあ」
雑渡がため息をつくと蜜夜はビクビクしながら中に入ってきた。
「随分待たせたが、そんなに仕事が忙しいのか」
「申し訳ありません」
「それともわたしのところに来たくなかったのか」
「……」
「否定しないんだな」
「お食事はもうお済みですか」
あからさまな話題のすり替えだが声が聞けるだけで嬉しい。蜜夜の顔をもっとよく見たいと顔を近づけると、蜜夜もこちらを見返してきた。
目を丸くして、そしてさっと顔を逸らす。
最後に交わした彼女の会話を思い出す。蜜夜は雑渡を怖がっていた。化け物と、雑渡のことを化け物と言ったのだ。
頭を撫でようと持ち上げていた手を下ろす。
「組頭!蜜夜さまは、あ!」
入ってきた諸泉が蜜夜を見るなり嬉しそうな顔をする。
「蜜夜さま、蜜夜さま!」
昔のように飛びつこうとして蜜夜が避けると、照れくさそうに諸泉は笑った。
「そうですよね。もう子供じゃないんだった。次は高坂さんを連れてきます。きっと喜びますよ」
◆
あれから毎朝毎晩、運が悪ければずっと雑渡のそばにいなければならない。そばにいる間、雑渡はジロジロと蜜夜を見たり、触ろうとしてやめたり、いるのにいないように振る舞ったりする。
そばにいなければならない理由はというと、学園長から命ぜられたからだ。
「自分の仕事もあるんです。授業の用意だってこのままじゃ」
「タソガレドキへ帰るんじゃ。少しずつ仕事は減らさねば」
「わたしは」
「家族のことを知りたがっていたじゃろう。お前さん、夫や子供がいるかもしれんと言っておったな。夫には家族のことを聞いたのか」
「まだ再会して三日です」
「別にわしらに気を使わんでもいい。夫婦らしく過ごせばよかろう」
「では遠慮無く」
真下から聞こえた声に蜜夜はぞっとして立ち上がる。床下に潜み、会話を聞いていたのだ。
「あ、あの私仕事に戻らなくちゃ」
学園長の庵を飛び出したが、逃げ切れるはずもなく捕まってしまった。雑渡は進路を塞ぐように正面に立ち、ニヤニヤと見下ろしてきた。
「夫婦らしく過ごそうじゃないか」
「雑渡様、授業の準備はお済みなのですか」
「ああ。もう宿題も作った」
手を掴まれてひっぱられる。誰かに見られたら、拐かされそうになっていると思われたかもしれない。
「わたしはまだなんです。テストの採点だってあるし」
「なら手伝おう。お前の部屋に行こうか」
「あそこは男子禁制で」
「他の教師たちは入っているだろう」
とうとうくのたま長屋にまで来てしまった。雑渡はあの日蜜夜に豆菓子を渡しに来た日以来、ここには来ていない。部屋に上げるのも初めてだった。
「ここがお前の部屋か」
ぐるりと見回し、箪笥や文机をジロジロと見る。文机に置きっぱなしにしていた歯のかけた櫛を見つけると、雑渡はごそごそと懐を漁って昔蜜夜に送ったあの櫛を引っ張りだした。
「お前が大事にしていたものだ」
渡された櫛は、蜜夜が唯一望んで買ってもらった櫛だった。雑渡が裏返すと、『蜜夜』と名前が彫り込まれている。何度も撫でたらしく、すっかり馴染んでいた。きっと雑渡もこの櫛を大事にしていたらしいことがわかる。
(どうしてこの櫛を大事にしていたように、私を大事にしてくれなかったのだろう)
あの日突き飛ばしたりしなければ、蜜夜は記憶を失わずに済んだ。何もかも忘れて、愛していた男のことを化け物なんて呼ばなくて済んだのだ。
何もかも、この男の我儘のせいだ。そしてまた、この男の我儘で連れ戻されようとしている。家族を奪い、蜜夜まで奪おうとしている。
(そういえば、家族のこと何か言ったのかな)
雑渡は蜜夜が櫛をもてあそぶのをホッとした様子で眺めていた。いらないと突き返されたらどうしようかと思っていたのだ。
「あの、先ほど学園長が家族のことを聞いたかと仰ったんです」
蜜夜の家族は雑渡に殺された。子供もいない。雑渡の実家から渡されていた秘薬を服用していたし、望まなかったからだ。
「父母はどうしていますか?兄弟や姉妹はいたのでしょうか?あの、子供は?」
質問攻めというわけではないが矢継ぎ早に問いかければ、雑渡はみるみるうちに不機嫌そうに目を細めた。
「雑渡さま?」
「……お前の父母も兄弟も姉妹も亡くなっている。子供は」
なんと説明するのか、一言だって聞き漏らさないように雑渡に集中した。
「子供は、まだいない」
「どうしてですか」
「それは」
言いかけたセリフの続きは容易に想像できる。
どうせ蜜夜の所為だ。親兄弟を殺したことも、子供がいないことも、蜜夜が記憶を失って姿を消したことも、雑渡がこんな情けない男になったのも全て。
だが雑渡はそう言わなかった。
「わたしがこんな体になってしまったから」
蜜夜の知る雑渡は、どうやら大人になったらしい。
◆
雑渡は蜜夜が記憶を取り戻さなくてもいいと思っていた。何も覚えていない方が以前よりもっと良い関係になれれると思っていたからだ。
山本たちにもそう考えていることは伝えてある。諸泉だけは、やはり思い出してほしいと言っていたが雑渡の望みであるといえば納得するしかない。
記憶を失う原因が自分なのだ。普段から暴力をふるい、むりやりに抱いていたことを思い出してしまったらまた化け物と呼ばれてしまうのではないかとそれだけが恐ろしかった。
自分は化け物だ。身も心も化け物である。
人の道に外れたことをしつづけたのだから、そう呼ばれるのが似合いだろう。
「お前はわたしの世話をよくしてくれた。祝言はわたしが回復したらと言っていたんだ」
嘘はついていない。
「お前が見つかってよかった」
触っても嫌われないだろうか。口付けても怒らないだろうか。
「よかった」
握りしめた拳が震える。俯いて情けない自分を恥じていると、
蜜夜の動く気配がした。
「子供もいないようですし、タソガレドキへ戻らなくてもよくはありませんか」
言っている意味がわからなかった。背を向ける彼女が遠くにいる。
「誰かに吹きこまれたのか。学園長か、それとも誰か」
誰か他に好いた男でもできたのか。そういうと、蜜夜は鼻で笑った。
「忍び組頭の妻であったなら、特殊な情報でも知っていたんでしょうね。ならば抜忍も同じこと。どこの隠れ里も、抜忍は殺すのが当たり前ですもの。わたしのこと、殺さねば部下に示しがつきませんわね」
「お前を殺しにきたというのか」
ゆっくり振り返った蜜夜は雑渡の手元をちらりと見る。いつの間にか、彼女に向けて振り上げていた。
「殴りなさるか。自分の妻を」
「違う、これは」
慌てて手を下ろすが、どうしていいのかわからない。どちらも黙っていると、山本が外から声をかけてきた。
「組頭、そろそろ」
「ああ」
助かったと思ったがこのままにはしておけない。
一瞬頭に血がのぼったが、落ち着いてみれば蜜夜は記憶がないのだ。突然現れた『夫』に驚いているのだろう。
今日初めてきちんと彼女のことを話した。もっと、もっともっと多く話さねばならないのだ。
「殺すために探していたと思っているのなら、それは間違いだ」
「ならばなぜ」
「言わねばわからないだろうな」
わからないわけではない。忘れてしまったフリをしているだけだ。雑渡を苦しめたい一心でこんな馬鹿げたことをしている。これは復讐なのだ。
「わかりません」
「お前がわたしを愛し、わたしもお前を愛したからさ」
◆
授業が終わると雑渡の威圧に半泣きの子たちの様子を見て回るのが日課になりつつある。誰に頼まれたわけではないが、見ていられないのだ。もともと鍛錬所で子供たちに教えていたが、今の雑渡には昔のとっつきやすさのようなものが皆無なのだ。
「あの人怖い」
「僕もうヤダ」
しんべえと喜三太はいつものことだが、少し離れたところに座るきり丸は思いつめた顔で考えこんでいる。
「きり丸、おいで」
「はい」
蜜夜の部屋につれてくると、座らせて飴湯の準備をした。
「一人で飲むのはつまらないから、あなた一緒にどうかしら」
「えっと」
「みんなには内緒よ」
「……雑渡先生にもですか?」
急いで振り返ると、いつの間にか雑渡がいてきり丸の隣に座っている。
「知られたからには買収するしかないわね」
きり丸に飴湯を継いだ湯のみをもたせると、もう一つ自分の湯のみを雑渡に渡す。
「子供の好むものですから、あなたには甘すぎるかもしれません」
覆面をしていても雑渡の表情が緩むのがわかった。その横顔を、きり丸が驚いた顔で見つめていた。
すぐにきり丸は飲み終えて、アルバイトがあるからと出て行った。
「土井先生が世話していた子です」
「ああ。そういえば」
「あまり威圧しないようにと、吉野先生が仰ったそうですね」
「どうだったかな」
湯のみを片付けようと中をのぞくと、雑渡もすっかり飴湯を飲み干していた。
「うまかった」
「よかった」
気づかぬうちに微笑んでいたらしい。雑渡は目を皿のようにして食い入る様に見つめている。
「私には笑ってくれぬのかと思っていた」
「……楽しければ笑います」
「もっと見せろ」
ふわりと温かい手が頭に乗った。柔らかく頭を撫で、そして頬までその手は降りるとフニフニと指先でつついた。
(ほっぺた、前はどうだったかな)
しばらくつついていたが、蜜夜がやんわりとその手を抑える。
「そろそろ戻る時間では?」
「ああ」
雑渡が出て行くと、蜜夜は緊張のあまりその場にへたり込んでしまった。
明日から、また会うのが恐ろしくなるだろうと思った。だが楽しみに思うところもある。
「はぁ」
◆
二日間の休みの間、雑渡はタソガレドキへ戻ることになっていた。いまだ土井は見つからず、子供たちも疲れている。山田が一日おきに戻ってきてはいるが、それでも教科を教えるのは雑渡か諸泉なのだから緊張は続いていた。
その緊張は蜜夜も同じだった。日に日に雑渡は弱っていく。蜜夜の前では追い詰められた目をして息苦しそうに肩を揺らすのだ。見兼ねた山本が学園の休日に合わせて雑渡に一度タソガレドキに戻るよう進言したのだった。
蜜夜が自室の前に作った菜園の世話をしていると、山本が忍んでやってきた。
「蜜夜殿も一度こちらにお戻りいただけないだろうか」
「わたしは生活指導の仕事もありますし」
「ここではゆっくり話もできないと組頭は仰っています」
「どこでお話しても、きっとあの方は黙りこむように思いますけど」
「蜜夜殿」
腹からのため息をついた山本は居住まいを正して話し始めた。
「すでにご存知かと思いますが、このままではあなたを抜忍として処理しなければならない。組頭はそれだけは避けたいのです。タソガレドキに一度お戻りください。長老らも本人と一度話したいとお考えです」
「ふふ。あの人に殺されるなら本望だわ」
そこまで言ってしまって慌てて口を抑えたがもう遅い。山本はギョロリと目を動かし蜜夜をまじまじと見つめた。
「やはり、覚えているのか。答えろ。いつからだ。何故こんな真似を」
黙っている蜜夜の肩を、山本が強く掴んで揺する。
「まだ復讐なぞ続けているつもりか!」
怒鳴りつけると蜜夜は山本の手を振りはらって怒鳴り返した。
「そうよ!復讐よ!あいつの玩具にされるなんてもう嫌なの!あの時殺してくれてれば、こんな馬鹿な真似しなかったわ!」
興奮しすぎて口がうまく動かない。涙まででてきて、ぶざまにしゃくりあげていた。
「酷いことをしてしまったんです。たぶんあの人は、私のことすごく大事にしてくれていたのに忘れてしまって」
「あれは昆が悪かったんだ。昆だけじゃない、俺も陣左も里のみんなの責任だ」
乱暴するのはやめるように言っていたのに、根本的な問題を正そうとはしなかった。
「だから昆はこの五年ずっと。お前もそうだろう」
「あの人がまた『蜜夜ちゃん、ごめんね』って、そういうならやめようと思った」
持ち歩いているあの櫛を手にしてうつむいた蜜夜はその櫛を山本に投げつける。受け止めて蜜夜を見返すと、彼女は隠し持っていた護り刀を喉に突きつけていた。
「山本さま、ごめんなさい」
「謝る相手が違う」
「ごめんなさい」
震える声が他人の口から聞こえるようだ。
手首を少し横に動かせば、このバカバカしい復讐は終わる。
本当は雑渡に殺させるつもりだった。なのにあの男は、触れようともしない。抱いて口付けることも、昔のように畳に押し付けて殴ることも。
「ごめんなさい」
◆
タソガレドキへ帰る前に、授業日誌をきっちり書き終えた雑渡は、蜜夜のところへ行き癒やされようと職員室を出た。
(今日こそ抱っこしたい。抱っこ抱っこ)
そばに居られない時は今度こそ蜜夜をと思うのだが、目の前に来ると手が引っ込んでしまう。無理矢理にしてまた化け物と言われたらとそればかり思い出してしまってダメだった。
(蜜夜ちゃんて呼んでみようかな。そしたら思い出すかも)
ウキウキしながら彼女の部屋に向かうと、庭先から話し声が聞こえた。
「酷いことをしてしまったんです。たぶんあの人は、私のことすごく大事にしてくれていたのに忘れてしまって」
「わかってる。あれは昆が悪かったんだ。だから昆はこの五年ずっと。お前もそうだろう」
「あの人がまた『蜜夜ちゃん、ごめんね』って、そういうならやめようと思った」
庭に飛び出すと、蜜夜が首に護り刀を押し当てているのがわかった。
「ごめんなさい」
蜜夜は雑渡を見てそういった。そして微笑んだ。
いつもそうやって微笑みかけてくれていたのを思い出し、雑渡はその微笑みの意味を知った。
あれは自嘲していたのだ。復讐相手である雑渡を愛し、自分を偽って復讐しようと試みる愚かさを嘲笑っていたのだ。
「勝手に死ぬってどういうこと。またわたしから逃げるの。もう何回逃げれば気が済むの」
「ごめんなさい」
「謝るのはわたし。親兄弟殺して、君を玩具にして、それでも君は愛してくれたのに、受け止めてくれたのに、たった一度『化物』なんて言われて嫌いになりそうになった自分を許してほしい」
ちゃんと言わなければならない。好きというだけでは伝わらないのだ。
「蜜夜ちゃん、ごめんね」
大粒の涙が蜜夜の頬を流れていく。護り刀を取り上げると、崩れ落ちてわっと泣きだした。
「化物だけど愛してくれる?」
「昆奈門さま」
彼女の横に膝をつき覆いかぶさるように抱きつくと、蜜夜も雑渡の胸に顔を押し付けてくる。
「好きです。あなたが好き。昆奈門さま」
◆
蜜夜の部屋では誰が来るかわからないので、雑渡が寝起きする離れ座敷に連れ込まれた。
「昆奈門さま」
「大丈夫。優しくできる。できるから」
口ではそういいながら、雑渡は乱暴に蜜夜の来ていた装束の帯を引きちぎっている。
今も彼が変わったとは思えない。そして自分も。
「顔を見せてください」
「……別に見なくても」
「あなたの顔、まだ見ていない」
手をのばそうとすると、雑渡は腕立て伏せするように上半身を上げて逃げた。
「怒ってるんですか」
「怒ってるわけじゃない。ただ」
怖いのだ。化物と呼ばなくても、怯えていない振りをしてみせても。雑渡は思い込みの激しい性質だと蜜夜もよくわかっている。
そうっと指を覆面に引き下ろす。雑渡の震える息が蜜夜の額にかかった。
「火傷、だいぶんよくなりましたね」
「うん」
「誰が手当を続けてくれたんですか」
「陣左が」
「あの子は本当にあなたのこと、大好きですね」
「わたしは蜜夜ちゃんが一番好きだよ」
蜜夜の胸を枕にしてくすんくすんと鼻を鳴らす。泣いているのかと思ったら、笑っていた。笑いながら、蜜夜の体をまさぐる。
「あっあっ」
「ここ好きだよね」
蜜夜の中に指が入った。曲げたり伸ばしたりされると腰が浮いてしまう。その様子を見ていた雑渡は、蜜夜に口付けて笑った。
大きく足を開かせて押入れようと雑渡が腰を突き出した時だった。蜜夜は引き裂かれるような痛みに飛び上がった。
「どうしたの?」
「痛いです、痛い」
「もしかして」
この五年、蜜夜は誰にも体を許していなかった。
「こうなったらあなただけと決めていたんです」
「蜜夜ちゃん」
ジリジリと体重をかけてやっと全て収まった。息も絶え絶えの蜜夜の上で、雑渡は最後の我慢を強いられていた。
「動いてもいい?」
聞きながら蜜夜を引き寄せると、蜜夜は目を細めて舌を雑渡に向けて突き出した。
「いいですよ。前のように抱いてください」
その頃蜜夜を探して大木が歩き回っていた。
「うーむ。もしかしたら外出しているのかもしれんなあ」
そうなれば目当ては蜜夜ではなく、今この学園に滞在しているタソガレドキ忍び組頭の雑渡昆奈門に変わる。
「西の離れ座敷だったかな」
会ってはっきりと言うつもりだった。もう蜜夜に関わるなと。
話してわかりあえるとも思えなかったが、平和的に行くならまずは対話するしかない。
「失礼する。わたしは大木という。話しがしたい」
座敷の表から声をかけると、閉め切られていた障子が開いた。
「大木先生」
蜜夜の声に驚いて目を凝らすと、薄暗い部屋の中に蜜夜がいた。せわしなく髪を撫で付けているのを見ると、何をしていたのか想像せずにはいられない。
「蜜夜先生、ここで何を」
上ずる声に笑ったのは彼女ではなく雑渡だった。
「蜜夜。お前のことを心配しているようだぞ」
「茶化さないでください。大木先生、わたしはもう行きますからどうぞお上がりになって」
まるで部屋の主のような口ぶりだった。そういうところにも、蜜夜と雑渡の距離感を感じて大木は残念に思う。
◆
夕食を食べに食堂へ行くと、山田が食べ終えてお茶を飲んでいるところだった。
「蜜夜先生、タソガレドキへは行かなかったのか」
「はい。残る生徒もいますから」
「旦那さんは嫌がっただろう」
「今回は自分も忙しいからと言われましたよ」
「……大木先生のことだが」
「さっき雑渡先生のところへ来て何かお話していましたが」
「そうか」
お茶をいれて飲んでいると、ちらほらいた教師たちはいなくなりいつの間にかきた大木と蜜夜がいるだけになった。
「夫には大事にされているようだな」
「内縁の夫みたいなものですよ。祝言はまだあげていなかったですから」
「記憶も戻ったか」
「はい」
蜜夜から茶碗を受け取った大木は、ずるりと茶をすすって息を吐く。
「戻らんでもよかったがな」
ひざに載せていた蜜夜の手をとると、大木はぎゅっと握りしめて顔を覗きこんできた。残念そうというよりは悔しがっているようだ。
「わしと杭瀬村に来んか」
「行けません」
「もう泣かんですむぞ」
「それは」
「記憶が戻ったならわかるだろう。あの雑渡昆奈門という男はお前さんに酷いことをしつづけてきた。親兄弟を殺し、あんたを」
「玩具に本気になるような人です。馬鹿ですよ」
「あんた、本気で」
「馬鹿です」
◆
無事に土井が見つかり、雑渡は忍術学園に来なくてもよくなった。その時雑渡はもちろん蜜夜も一緒にタソガレドキへ連れ帰るつもりだったのだが、なんと学園長が待ったをかけた。
「蜜夜先生がいなければくのたまたちはどうなる」
確かにくのたまたちは困るだろう。蜜夜もそれがわかっていてわざわざ辞めることはない。
「しかし妻は」
「ずっと働かせるというわけではない。そうさな、つぎの春までということにしよう。今の最高学年たちの卒業に合わせるのはどうか」
「わかりました。では休暇ごと、妻はタソガレドキに帰してもらう」
正門まで見送りにきた蜜夜に、雑渡は不満そうな顔をした。
「蜜夜ちゃんが帰りたいって言わないから」
「言ったら連れて帰ったと?」
「もちろんそうだよ。今だって一言言ってくれればわたしは」
そこまで言ってしまったと雑渡は蜜夜を振り返る。我儘を言うのはもう止そうと思っていたのだ。なのに、顔を見れば我儘ばかり言っている。
「そうじゃなくて、あの」
蜜夜の方を見ると、にっこり笑った彼女がいた。
「昆奈門さま、我儘ばかり仰っていては山本さまの心労が増すばかりです」
「蜜夜ちゃん」
「また遊びに来てください」
最後にぎゅうっと抱きしめて雑渡はタソガレドキへ帰っていった。