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少し前、椎良は彼女に振られた。なんでもおなじ大学のサークルの先輩だかの方が、たくさん構ってくれて傍にいてくれるので、そっちと付き合うことにするということだった。
忙しい、忙しすぎる。最後の会話の中彼女が繰り返し言った。
「そんなに仕事が大事なら、仕事と結婚すればいい」
結婚を意識していた彼女は、そのセリフを最後に椎良に背を向けて行ってしまった。
「はあ」
今年はクリスマスを二人で過ごせるように早いうちから調整していた。そしてクリスマスには、プロポーズするつもりでいたのだ。プロポーズして一緒に指輪を見に行こうと思っていたのに。
プロポーズで行くつもりだったテーマパークのレストランの予約をキャンセルしなくてはならない。
スケジュールを組み直した。今年のクリスマスは去年、一昨年で遊んだ分日本人サラリーマンらしく仕事仕事仕事だ。組頭たちもそうだし、ちょうどよかったのかもしれない。
「椎良さん、今日遅くまで残るんですか?」
伊勢崎さんがデスクから首を伸ばしてこちらを見ている。
「残るよ。終わらないから」
「組頭が手伝えと」
「そりゃ助かる」
彼女が手伝うとなると、もちろん組頭も一緒ということになるがそれでも有難い。たとえ目の前でイチャイチャされても……有難いと思わないと。
「大丈夫ですか?メンタル的に」
「うちの課が全員知っている通り、おれフラれたばっかりだし、目の前でイチャイチャされたら明日の朝首を吊るかもしれないけど、まあたぶん大丈夫」
ペコペコしている伊勢崎さんには悪いけど、もともとこれは一人でやってることだし、今は一人でやる仕事も気が楽だ。
おしゃべりな奴が多い同僚たちは、二年付き合った恋人に突然フラれた男の話をしたがるだろう。伊勢崎さんはそいつらよりずっとマシだと思うけど、けど伊勢崎さんにべったりの組頭が一緒となるとマシはマシじゃなくなる。
基本的に組頭は最高の上司だし、高坂ほどじゃないがおれも組頭のことは尊敬してるしある意味では愛してる。そう、愛してる。
だけど、伊勢崎さんが絡むとなるとさっき言ったとおりマシはマシじゃなくなるんだ。
一人ずつなら最高の二人なのに。
夕方会社の裏にある蕎麦屋で早めに夕食をすませ、帰宅する連中に逆行してロビーを抜けエレベータに乗った。
エレベータで上がるのはおれの他にもう一人。清掃員の制服をきたおばさんだった。うつむき気味で足元にはバケツがあり、手にはモップを持っていた。
制服のダボダボしたズボンは、びっくりするほど足が短く見える。
「降りないんですか」
はっとして顔をあげると、清掃員がボタンを押してドアを開けていた。
「どうも」
ジロジロ後ろ姿を見ていたことを見とがめられたかもと恥ずかしくなり、そそくさとエレベータを出た。
ただなんだか違和感だけが残り、エレベータのドアが締まる直前に中を見る。清掃員の制服を着ていたのは自分と同じくらいかさもなきゃ年下みたいな女の子だった。
違和感は、そんな若い子がああいう仕事をしているのが珍しかったからかもしれない。
オフィスに戻ると組頭が伊勢崎さん相手に我儘を言っていた。
「クリスマスにどうしてあのムカつく親父のとこに行くなんていうの。年寄の我儘なんて無視すればいいじゃない」
「会社の行事に出席するっていうだけです。ここと、ここにはんこください」
「もうどっか行こうって言わないからうちでゆっくりしよう?映画見ながらワイン飲むの」
「じゃああなたの言うとおりにしましょう。我儘は無視します」
「そうこなくちゃ」
「クリスマスはお義父様のところへご挨拶へうかがって、プレゼントを渡すの」
「ファ?!」
「我儘は無視していいって言ったの、もう忘れたの?」
「ぐぬぬ」
会話を聞くのがつらい。小頭だってきっとそうだ。だって小頭は秋に奥さんが出て行っちゃったんだって組頭が言いふらしてた。今度こそ離婚するって。なんでも小頭が二度目の浮気をして、一番下の女の子を連れて実家に帰ったって話だ。
「小頭、年末はどうするんですか」
伊勢崎が隣で文句をいっている雑渡を無視してそういう。年末どうするって酷いことを聞くんだな。だって小頭は。
「年末は妻と娘と三人でハワイだ」
あれ離婚は?
「ハワイ程度で許してもらえてよかったね」
嫌味っぽい組頭に伊勢崎が「メッ」と子供を叱るような顔をしている。おかしいし。だってその人上司じゃん。おまけに十歳以上年上で、ヤクザみたいな強面のおっさんだよ。そういうの相手にする顔じゃない。
「上のお兄さんたちはどうするんですか」
「長男が帰って兄弟水入らず過ごすらしい」
ここでおれはパーテーションで区切られた自分のテリトリーにいながら、まったく仕事をしていないことに気づいた。
キーボードの上に手を載せてみても、仕事は終わらない。
「うぉ〜」
まぬけなおおあくびをして伸び上がる。カーテンの隙間から差す日光の様子からして、たぶん夕方近くだろう。
何か食べるものを買おうかとジャージに上着を羽織った状態で家を出た。
「さーみー」
靴下を履いて、サンダルではなくスニーカーを履けばよかったと思うくらい寒い。近所のスーパーに来たおれは、日持ちするインスタント食品をカゴに満載し、さらに帰って食べる弁当も手に取った。
チキン南蛮おいしそう。
「ままぁ、これ買ってぇ」
甘ったれた小さな女の子の声が真下から聞こえた。いつのまにか自分と陳列棚の前に、聞こえた声のとおり小さな女の子がいた。
「ままぁ」
呼びかけているが、おれと彼女の周囲にはだれもいない。彼女もすぐにそれに気づいた。
「ままぁ?」
呼びかけて返事をしてくれる人はいない。女の子はぐるりと見回し、そして背後におれが立っているのを見てぎょっとしてのけぞった。
「ま、ままぁー!」
まるで自分が変質者扱いされているようだ。しかし心外だ。何もしていないし、何かするつもりもなかった。
ジリジリと横にずれて距離をとると、女の子は口をあけたまま見上げていた。とりあえず驚かせてしまったのは可哀想だし、女の子の親に変質者扱いされるのは嫌だった。
このまま関わらずに行こうとすると、女の子が前に回りこんできた。
「おじさん、それどうしたの?」
「……」
懐につっこんだ組頭人形の頭が、上着の間から少しだけ顔を出している。
「……人寂しい時ってあるだろ」
興味深そうに見上げている女の子を残して行こうとすると、袖を引かれた。
十分後、おれはスーパーの中にあるたこ焼き屋の横で彼女にジュースを奢っていた。
「で、そのとき言われたんだ。彼の方がずっと自分を考えてくれているし、優しいって」
「カノジョ、きっとあなたに飽きたのね。もともと長く付き合うべきじゃなかったんだわ」
「ああ、そう言ってもらえると安心するよ」
幼稚園児をセラピスト代わりにするなんて、思いもしなかった。
アカネちゃんというそうだ。来春小学校に上がる年長さん。
「でも失恋をひきずってぬいぐるみを持ち歩くのはどうかと思う。会社にも持っていってるの?」
「このサイズは自宅用。そういえば君のママは」
「たぶん外で電話してる。いつもそうだから」
「電話が好きなんだね。話聞いてくれてありがとう。アカネちゃん」
「ジュースごちそうさま」
昼休み、組頭人形をまくらに昼寝していたおれは強烈な尿意を感じて飛び起きた。朝眠気が抜けなくてコーヒーをがぶ飲みしたのがよくなかったかもしれない。
トイレに行くと清掃中の立て看板が出ていたが、緊急事態の今は関係ない。
バタバタと飛び込んだおれは、周囲を見る余裕もなかった。
用を済ませて手を洗おうとした時だ。もぞもぞと背後で何か動いた気がして慌てて振り返ると、清掃のおばちゃんが物入れを漁っていた。
「清掃中は別のトイレ使ってください」
おばちゃんにしては若い声だった。どんな顔をしているのか気になって見ていると、物入れの戸を閉めたおばちゃんがこっちに来た。
ごめん。おばちゃんなんて思ってたなんて本当にどうかしてた。あの子だ。この前エレベータで一緒になった子。
「若いのに清掃のバイトって珍しいと思ったんだ」
ちょっと話してみたかったんだ。アカネちゃんだって新しい出会いを探してみるべきだと言っていた。
そしてその出会いは気長に構えるべきだと。
デートに誘うのは難しかった。なにせ僕は忙しいし、彼女はパートタイムで、なかなか顔を会わせることもない。名前だってなかなか教えてもらえなかったのだ。
チヒロさん。湯田チヒロさん。しれっと下の名前で呼んでいる。咎められなかったしいいんじゃないかな。
週末スーパーでアカネちゃんに話を聞いてもらえなかったらと思うと、たぶんこれは恋に昇華する前に霧散していただろう。
「誘った反応はどうだった?」
「困ってたけど、でも喜んでいたと思う。メアド教えてくれたし」
「どういう雰囲気?」
「ミステリアスで、知的で」
「好きなの?」
「好きだね」
「じゃあ何か持って行った方がいい。正攻法がいいと思う。花とか」
「花か」
「小さいのがいい。かわいいやつよ」
「わかった。そういえば、クリスマスが近いけどアカネちゃんにお礼がしたいな。何がいい」
「組頭人形」
会うたび持ち歩く組頭人形を差してそう言われた。
「わかった」
組頭人形は最初小頭の奥さんが作ったものだった。小頭の落書きから奥さんがインスピレーションを受けて作ったというそれは、食事に招かれた時に頼み込んで譲ってもらって以来、真似ていくつも手作りしている。
そういえば、これ作ってると元カノはつまんなそうな顔してたな。
作ってる時、無心になれるのがいいんだけど。
ザクザクと布地を切り、丁寧に縫い合わせて、慎重に綿を詰め込む。アカネちゃんが喜んでくれるように、ただそれだけを考えて。
昼休みに自分の机でそんなことをしていたおれは、周囲がヒソヒソと話しているのも気にならない。なにせ無心だし。
「よし」
出来上がったものはこれまで作ったものの中でも一番の出来だった。
「組頭人形、誰かへのプレゼントですか?」
伊勢崎さんがデスクまで来てそういう。伊勢崎さんにもあげたことがあるが、あげたものはこんなに大きくなかった。胸ポケットに入るサイズにしろと、組頭が言ったからだ。
「そう。セラピストにね」
「ああ。いいセラピストが見つかったんですね」
「へへ」
アカネちゃんならこの人形も可愛がってくれると思う。リボンをかけて紙袋にしまった。
少し前、椎良は彼女に振られた。なんでもおなじ大学のサークルの先輩だかの方が、たくさん構ってくれて傍にいてくれるので、そっちと付き合うことにするということだった。
忙しい、忙しすぎる。最後の会話の中彼女が繰り返し言った。
「そんなに仕事が大事なら、仕事と結婚すればいい」
結婚を意識していた彼女は、そのセリフを最後に椎良に背を向けて行ってしまった。
「はあ」
今年はクリスマスを二人で過ごせるように早いうちから調整していた。そしてクリスマスには、プロポーズするつもりでいたのだ。プロポーズして一緒に指輪を見に行こうと思っていたのに。
プロポーズで行くつもりだったテーマパークのレストランの予約をキャンセルしなくてはならない。
スケジュールを組み直した。今年のクリスマスは去年、一昨年で遊んだ分日本人サラリーマンらしく仕事仕事仕事だ。組頭たちもそうだし、ちょうどよかったのかもしれない。
「椎良さん、今日遅くまで残るんですか?」
伊勢崎さんがデスクから首を伸ばしてこちらを見ている。
「残るよ。終わらないから」
「組頭が手伝えと」
「そりゃ助かる」
彼女が手伝うとなると、もちろん組頭も一緒ということになるがそれでも有難い。たとえ目の前でイチャイチャされても……有難いと思わないと。
「大丈夫ですか?メンタル的に」
「うちの課が全員知っている通り、おれフラれたばっかりだし、目の前でイチャイチャされたら明日の朝首を吊るかもしれないけど、まあたぶん大丈夫」
ペコペコしている伊勢崎さんには悪いけど、もともとこれは一人でやってることだし、今は一人でやる仕事も気が楽だ。
おしゃべりな奴が多い同僚たちは、二年付き合った恋人に突然フラれた男の話をしたがるだろう。伊勢崎さんはそいつらよりずっとマシだと思うけど、けど伊勢崎さんにべったりの組頭が一緒となるとマシはマシじゃなくなる。
基本的に組頭は最高の上司だし、高坂ほどじゃないがおれも組頭のことは尊敬してるしある意味では愛してる。そう、愛してる。
だけど、伊勢崎さんが絡むとなるとさっき言ったとおりマシはマシじゃなくなるんだ。
一人ずつなら最高の二人なのに。
夕方会社の裏にある蕎麦屋で早めに夕食をすませ、帰宅する連中に逆行してロビーを抜けエレベータに乗った。
エレベータで上がるのはおれの他にもう一人。清掃員の制服をきたおばさんだった。うつむき気味で足元にはバケツがあり、手にはモップを持っていた。
制服のダボダボしたズボンは、びっくりするほど足が短く見える。
「降りないんですか」
はっとして顔をあげると、清掃員がボタンを押してドアを開けていた。
「どうも」
ジロジロ後ろ姿を見ていたことを見とがめられたかもと恥ずかしくなり、そそくさとエレベータを出た。
ただなんだか違和感だけが残り、エレベータのドアが締まる直前に中を見る。清掃員の制服を着ていたのは自分と同じくらいかさもなきゃ年下みたいな女の子だった。
違和感は、そんな若い子がああいう仕事をしているのが珍しかったからかもしれない。
オフィスに戻ると組頭が伊勢崎さん相手に我儘を言っていた。
「クリスマスにどうしてあのムカつく親父のとこに行くなんていうの。年寄の我儘なんて無視すればいいじゃない」
「会社の行事に出席するっていうだけです。ここと、ここにはんこください」
「もうどっか行こうって言わないからうちでゆっくりしよう?映画見ながらワイン飲むの」
「じゃああなたの言うとおりにしましょう。我儘は無視します」
「そうこなくちゃ」
「クリスマスはお義父様のところへご挨拶へうかがって、プレゼントを渡すの」
「ファ?!」
「我儘は無視していいって言ったの、もう忘れたの?」
「ぐぬぬ」
会話を聞くのがつらい。小頭だってきっとそうだ。だって小頭は秋に奥さんが出て行っちゃったんだって組頭が言いふらしてた。今度こそ離婚するって。なんでも小頭が二度目の浮気をして、一番下の女の子を連れて実家に帰ったって話だ。
「小頭、年末はどうするんですか」
伊勢崎が隣で文句をいっている雑渡を無視してそういう。年末どうするって酷いことを聞くんだな。だって小頭は。
「年末は妻と娘と三人でハワイだ」
あれ離婚は?
「ハワイ程度で許してもらえてよかったね」
嫌味っぽい組頭に伊勢崎が「メッ」と子供を叱るような顔をしている。おかしいし。だってその人上司じゃん。おまけに十歳以上年上で、ヤクザみたいな強面のおっさんだよ。そういうの相手にする顔じゃない。
「上のお兄さんたちはどうするんですか」
「長男が帰って兄弟水入らず過ごすらしい」
ここでおれはパーテーションで区切られた自分のテリトリーにいながら、まったく仕事をしていないことに気づいた。
キーボードの上に手を載せてみても、仕事は終わらない。
「うぉ〜」
まぬけなおおあくびをして伸び上がる。カーテンの隙間から差す日光の様子からして、たぶん夕方近くだろう。
何か食べるものを買おうかとジャージに上着を羽織った状態で家を出た。
「さーみー」
靴下を履いて、サンダルではなくスニーカーを履けばよかったと思うくらい寒い。近所のスーパーに来たおれは、日持ちするインスタント食品をカゴに満載し、さらに帰って食べる弁当も手に取った。
チキン南蛮おいしそう。
「ままぁ、これ買ってぇ」
甘ったれた小さな女の子の声が真下から聞こえた。いつのまにか自分と陳列棚の前に、聞こえた声のとおり小さな女の子がいた。
「ままぁ」
呼びかけているが、おれと彼女の周囲にはだれもいない。彼女もすぐにそれに気づいた。
「ままぁ?」
呼びかけて返事をしてくれる人はいない。女の子はぐるりと見回し、そして背後におれが立っているのを見てぎょっとしてのけぞった。
「ま、ままぁー!」
まるで自分が変質者扱いされているようだ。しかし心外だ。何もしていないし、何かするつもりもなかった。
ジリジリと横にずれて距離をとると、女の子は口をあけたまま見上げていた。とりあえず驚かせてしまったのは可哀想だし、女の子の親に変質者扱いされるのは嫌だった。
このまま関わらずに行こうとすると、女の子が前に回りこんできた。
「おじさん、それどうしたの?」
「……」
懐につっこんだ組頭人形の頭が、上着の間から少しだけ顔を出している。
「……人寂しい時ってあるだろ」
興味深そうに見上げている女の子を残して行こうとすると、袖を引かれた。
十分後、おれはスーパーの中にあるたこ焼き屋の横で彼女にジュースを奢っていた。
「で、そのとき言われたんだ。彼の方がずっと自分を考えてくれているし、優しいって」
「カノジョ、きっとあなたに飽きたのね。もともと長く付き合うべきじゃなかったんだわ」
「ああ、そう言ってもらえると安心するよ」
幼稚園児をセラピスト代わりにするなんて、思いもしなかった。
アカネちゃんというそうだ。来春小学校に上がる年長さん。
「でも失恋をひきずってぬいぐるみを持ち歩くのはどうかと思う。会社にも持っていってるの?」
「このサイズは自宅用。そういえば君のママは」
「たぶん外で電話してる。いつもそうだから」
「電話が好きなんだね。話聞いてくれてありがとう。アカネちゃん」
「ジュースごちそうさま」
昼休み、組頭人形をまくらに昼寝していたおれは強烈な尿意を感じて飛び起きた。朝眠気が抜けなくてコーヒーをがぶ飲みしたのがよくなかったかもしれない。
トイレに行くと清掃中の立て看板が出ていたが、緊急事態の今は関係ない。
バタバタと飛び込んだおれは、周囲を見る余裕もなかった。
用を済ませて手を洗おうとした時だ。もぞもぞと背後で何か動いた気がして慌てて振り返ると、清掃のおばちゃんが物入れを漁っていた。
「清掃中は別のトイレ使ってください」
おばちゃんにしては若い声だった。どんな顔をしているのか気になって見ていると、物入れの戸を閉めたおばちゃんがこっちに来た。
ごめん。おばちゃんなんて思ってたなんて本当にどうかしてた。あの子だ。この前エレベータで一緒になった子。
「若いのに清掃のバイトって珍しいと思ったんだ」
ちょっと話してみたかったんだ。アカネちゃんだって新しい出会いを探してみるべきだと言っていた。
そしてその出会いは気長に構えるべきだと。
デートに誘うのは難しかった。なにせ僕は忙しいし、彼女はパートタイムで、なかなか顔を会わせることもない。名前だってなかなか教えてもらえなかったのだ。
チヒロさん。湯田チヒロさん。しれっと下の名前で呼んでいる。咎められなかったしいいんじゃないかな。
週末スーパーでアカネちゃんに話を聞いてもらえなかったらと思うと、たぶんこれは恋に昇華する前に霧散していただろう。
「誘った反応はどうだった?」
「困ってたけど、でも喜んでいたと思う。メアド教えてくれたし」
「どういう雰囲気?」
「ミステリアスで、知的で」
「好きなの?」
「好きだね」
「じゃあ何か持って行った方がいい。正攻法がいいと思う。花とか」
「花か」
「小さいのがいい。かわいいやつよ」
「わかった。そういえば、クリスマスが近いけどアカネちゃんにお礼がしたいな。何がいい」
「組頭人形」
会うたび持ち歩く組頭人形を差してそう言われた。
「わかった」
組頭人形は最初小頭の奥さんが作ったものだった。小頭の落書きから奥さんがインスピレーションを受けて作ったというそれは、食事に招かれた時に頼み込んで譲ってもらって以来、真似ていくつも手作りしている。
そういえば、これ作ってると元カノはつまんなそうな顔してたな。
作ってる時、無心になれるのがいいんだけど。
ザクザクと布地を切り、丁寧に縫い合わせて、慎重に綿を詰め込む。アカネちゃんが喜んでくれるように、ただそれだけを考えて。
昼休みに自分の机でそんなことをしていたおれは、周囲がヒソヒソと話しているのも気にならない。なにせ無心だし。
「よし」
出来上がったものはこれまで作ったものの中でも一番の出来だった。
「組頭人形、誰かへのプレゼントですか?」
伊勢崎さんがデスクまで来てそういう。伊勢崎さんにもあげたことがあるが、あげたものはこんなに大きくなかった。胸ポケットに入るサイズにしろと、組頭が言ったからだ。
「そう。セラピストにね」
「ああ。いいセラピストが見つかったんですね」
「へへ」
アカネちゃんならこの人形も可愛がってくれると思う。リボンをかけて紙袋にしまった。