◇貴方の存在の
次の日部活に行けば、そこにはちゃんと久木先輩の姿。だけど、彼女が俺を見ることも、俺の名を呼ぶことも無い。
さすがに、それには誰もが一瞬にして気付くほどで、あの忍足さんでさえ俺に声をかけてこなかった。
問いただすべきか。
だけど、別れを切り出してきたのはあっちなのだから、そのようなことをしては、少々未練がましいかもしれない。もう、こんなことを考えている時点で未練がましいのだが……。
「……なんですか跡部さん」
「てめえがここまで白状な男とは思ってなかったぜ」
「意味が分かりませんね。俺は振られたんですよ?」
「お前は馬鹿か」
周りが見えてねえ。なんて言いながらも、どこかへ言った跡部さんに悪態をつきたくなった。
見えていない。そんなの分かっている。
理由さえ分からないままで終わったなんて、俺としても不愉快だ。
……だが。自分でも馬鹿らしいほどに、彼女を問いただすだけの口実も、勇気もない。
いままでの俺の彼女に対する態度なんて、カップルの態度ではない、なんて俺じゃなくても皆思うだろう。
それが、嫌になったのだろうか。
……それとも、本当に愛想をつかされたか。自嘲気味に出た吐息。
気がつけば、朝の練習は終わっていて、響くチャイムが耳障りに思えた。
「日吉……」
「なんでお前がそんな顔をする必要がある」
「いいの? 久木先輩可愛いから、誰かと付き合っちゃうかもしれないだろ?」
「そんなの俺の知った事じゃない」
そうだ。もとはと言えば、あの人に告白なんてした俺が間違っていたんだ。
見た目だけは十分にいいが、あの人の頭の中なんてどうせ俺と誰かのカップリング。俺のことが好きだから付き合っていたのではなくて、俺という材料で楽しんでいたのかもしれないだろ。
そこまで考えがいきついた時。ぬそりと出てきたのは。
「か、樺地っ……お前、いきなりそんなとこに立ってどうし」
「好きです」
「は?」
こいつまでついに、頭がいかれてしまったのかと思えば、彼は小さく眉をひそめた。
「だから、離れないといけない、です」
全くもって意味がわからない。
それだけ言って、俺は席を立った。もともと、あの人がいない静かな生活が俺にはあっている。
煩いのは嫌いだ。そうだ、あの人なんて、俺の好みの正反対のような人じゃないか。
だけど。
『若っ』
だけど。
『若ー、大好きーっ』
あの人は……誰よりも、俺を……。その時俺の耳に届いたのは、廊下を通る女子の声。いつもは気に障るほどに迷惑なその声は。
「あはは、まじでうけるよねあいつ」
「『別れてもいいけど、だからって若に迷惑はかけないで』だっけ? うけるんですけど」
「おたくのくせに、調子乗るから……っ!ひ、日吉君っ」
どういうことだ。どういうことだ。気がつけば、動く体と放たれた声。
「あんたたち……あの人に何を言った!!」
私達、日吉君のためを思って言ったのよ。だって、あんなヲタクと付き合うなんて、日吉君がかわいそうでしょ? だから、あんたがいると迷惑するって日吉君が言ってたって言ったの。あんたのせいで日吉君がテニスに集中できないってね。そしたら、あの女、私達に向かって、若の邪魔だけはさせないって。私は、ちゃんと別れるから、若に迷惑かけないでって。
なによあの言い方。まるで、私達が邪魔してるみたいで馬鹿みたい。
ベラベラと話すその顔に拳をいれてしまおうかと思った。しかしそれを抑え込む。
「……言いたいのは、そんだけか?」
「な、なによっ、日吉君はあの女に騙されてるって」
「そうそう。あんな女どこがいいのよ」
「日吉君とは住む世界違うって自覚すればいいのにさ。まじ、違う人種って感じでしょ」
ああ、俺は取り返しの着かない事をした。それを考える頭はひどく冷静で、何故か彼女たちにはむかってまで俺の邪魔をするな、なんてことを言ってくれた久木先輩への愛おしさが、止まらない。
浮かぶ、笑顔。本当にあの人は……。
「たしかに、貴方たちとはあの人は違いますよ」
「そうでしょ? まじきもちわ……」
「あの人を、あんたらと一緒にしないでもらおうか」
「!!」
あの人は。誰よりも優しく、誰よりも愛おしいあの人は。
『若ー、頑張れーっ』
「もう少し静かに出来ないんですか」
『だって、若かっこいいんだもんっ! きゃあ、跡部君ー、もっと若に寄って!』
「……まったく……」
たとえ、どんな人だろうと。
たとえ、誰がなんと言おうと。
「俺の、何よりも大切なあの人を今後傷つけたら、絶対に許さない」
俺にとって、かけがえのないものだから。
.