◇欠如する日常
今日も一日平凡な日々だった。
いつものように朝一番にコートにつき、先輩達が来る前に一人きりのコートを満喫しながらも、下剋上の為にラケットを振り、昼休みも早めに昼食を取った後に、ラケットの整備をしつつテニス雑誌に目を落す。放課後は、補修をしっかりと済ませた後でユニフォームに着替え、テニスボールを手にする。
いつもどおり。
な、わけがない。おかしい。何かがおかしい。
「なに、どうしたん?」
伊達眼鏡をくい、と上にあげた忍足さんが俺の肩を叩く。
コートの外では相変わらず黄色い声が飛び交うが、今の俺はそれどころじゃない。
何か、調子が悪い。
といっても、別に具合が悪いわけではない。どこか、なにかが胸につっかえたような気持ち悪さがモヤモヤとしている。
「別に、気にしなくてもいいですよ」
「冷たいなあ、若は」
「勝手に名前を呼ばないで下さい」
「ええやんか、茜ちゃんも呼んどるし」
「あの人は勝手に、…………あ」
そこでようやく気付いた。
あ、そうだ。今日は奇妙なことに一度もあの人に会っていない。
俺が会っていないということなら、もしかして学校に来ていないのかもしれない。
何ていっても、あの人はたとえ微熱があろうと俺に会いに学校に来て「若、私の熱貰って! そして、跡部君に看病されてっ」なんて言うような人だ。
どうして、そこで俺が跡部さんに看病されないといけないんだ。
普通なら、自分から看病すると申し出るのが彼女だというのが世間一般的意見だと思うのだが……。
それにしても、なんとかは風邪を引かないと聞いたが、どうやら迷信か。
そんなことをぼんやり考えながら不意に目が合ったのは。
「……跡部さん?」
「……」
なんでこんなに俺は睨まれているんだろうか。跡部さんにこんなに反感を買われるようなことをした覚えはないのだが。
なんて、考えていた瞬間に、胸倉を掴まれた。一気に呼吸と心臓音が高鳴り、危険音がなる。
「っ!?」
「てめえはっ、……っ」
「あ、とべ、さん?」
理解できないままで名前を呼ぶと、跡部さんはあからさまに舌打ちをして俺を突き放した。
そのまま部員に指示を飛ばす彼の背中が、いつも以上に殺気立っているのが、なんだか嫌な予感がした。
だからだろうか。
柄にもなく、久木先輩に電話をかけようとしているなんて。
練習後の部室。
いつもならば、跡部さんが残っていて、久木先輩が残っていて、そして俺がいる。その時間に慣れているからなのか、奇妙な静けさに顔をしかめた。
携帯の画面に浮かぶ電話番号は、一度も自分からはかけたことがないナンバー。しかし、風邪をひいて家にいるとなれば、少しくらいは心配もする。
どうせ、キンキン声で「わーかしーっ」とか叫ぶんだろうな。ああ、頭痛がしてきた。でも、告白したのは俺だったわけで、俺もあの人のことを嫌っているわけではない。
一人になった部室。
通話ボタンを押そうとしたとき、かちゃりとドアノブが回った。
大方、向日さんが忘れ物でもしたか、鳳がやっぱり練習の続きをするなんて言い出して宍戸さんと戻ってきたのだろう。
「え……」
しかし、そこに立っていたのは、一人。
向日さんでも、鳳でも宍戸さんでも。ましてや跡部さんでもない。
大きな瞳。
白い肌。ほんのり紅い頬、を……覆う白いガーゼ。
「久木、先輩?」
思わず掠れかけた声に、久木先輩は、びくりと大きく跳ね上がった後に勢いよく扉を閉めた。
「なっ、なんで逃げるんですか!」
その背中を急いで追いかける。
もちろん、運動をしていない久木先輩に俺が体力で負けるわけがなく、あっけなく捕まった先輩の腕は、ひどく震えていた。
そういえば、真面目に手を繋いだ事もない。……それにしても、俺を見て逃げるなんて初めてだ。
タックルされた記憶はあるが、逃げられた記憶は皆無に等しい。
気味が悪い。
こんなこの人知らない。
どうせ、俺と誰かの悲恋やらの妄想をして、俺の顔を見るのが辛いのだろう。
なんて。
そう自分に言い聞かせる。
そうでもしないと、その頬を覆う白いガーゼと震える先輩に話しかけることさえ出来なくなりそうな自分がひどく馬鹿らしい。
「なんですか……今度は、誰とのカップリングを妄想してるんですか」
『……して……』
「はい?」
離して、日吉君。
その単語が耳に届いた時には、さらりと。暗闇の中に先輩の髪が舞った。
眼鏡の中で動く。大きな瞳。
「久木せん、ぱ……」
『別れよう、日吉君。私、もう十分楽しかった』
もう、いいよ。これからも、部活頑張ってね。
そう言って、続いて口先でありがとう、をこぼしたまま、去っていく。
追いかけるべきだ。
頭の中がそう叫ぶ反面、状況判断が出来ずに乾いた喉がからからと言っているだけだ。
あまりにも、あまりにも急な展開。意味が分からない。もう、いいよ? なにが。なにがいいんだ。
「久木先輩っ」
やっと振り絞って溢れた声音にあの人は振り返ることはない。黒い闇の中に、小さな背中が消えていく。
ただ、ただ。動くことも、その背中を追いかけることも出来なかった俺は、夜の闇に侵食されていった。
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