◇叶わぬ恋
静寂に満ちた部室。テニスをする前のなんとも言えない緊張感、高鳴る鼓動、イマジネーションが入り混じる中でのこの静けさは、俺にとっても心地よい。
……はずだった。おかしい。いつも何かとギャーぎゃーやらキャーキャーやら煩い久木先輩が、今日は怖いくらいに静かだ。もしかして、落ちているものを食べてお腹が痛い、ということも。いや、この人ならば、そんなことよりも、もっと馬鹿らしいことかもしれない。部室に入ってきた向日さんが、「よーっ」と先輩に声をかけたのにも関わらず、久木先輩は、机に突っ伏している。
「おいおい、茜どうしたんだよ」
「知りませんよ」
「お前が冷たいから病んでんじゃねえの?」
「冷たいのは今に始まったことじゃありません」
それに、今日俺は今初めて先輩と会ったのだ。だから、俺が何かをしてしまったという線は薄い。というか全く無い。まあ、マネージャーでもある先輩が、朝の練習に来なかったのは、正直驚いたのだが。……一体何事なんだ。
「おい。もしかしてさ、茜いじめにあってんじゃね?」
妙に深刻そうな顔をした向日さんがこそこそと俺の耳元で話してくる。いつもならば、こんな所を見て「きゃああああ、若と向日君も、最近ブームなのよねっ、どっちも可愛い系だから、どっちが受けでも攻めでもいけるしっ、あ、今いい小説が書ける気がするっ、若っ、楽しみにしててねっ」なんて叫びだすはずだ。「いじめ?」まさか。この人がイジメに……。いや、絶対にありえない。
この人を虐めたら、何かとめんどくさそうだ。
この人ならバケツで水をかけられても靴箱に画鋲を入れられても、「小説の良い案になったわ」とか喜びそうだし、色々と酷いことを言われたとしても「今の言葉もう一回言って! 若に言わせたいっ」とか普通に言い出しそうだ。
つまり、自分が虐められていても確実に頭の中では妙な事を考え出すに違いない。
それゆえに、俺がイジメの主犯格だったら絶対にこの人だけは虐めない。ひどく面倒だ。
って、そういう話じゃない。一応それは確認しておくか。
「先輩?」
「……」
声はかけてみたものの、全く無反応。本当にどうしたんだ。
向日さんは「後は彼氏に任せたっ」とか言ってめちゃくちゃ深刻そうな顔をしたままでテニスコートに行ってしまったし。まあ、忍足さんや跡部さんみたいにカラカイの対象にされても困るから、向日さんくらい純粋なほうが俺としても助かるのだけど。
そんなことをぼんやり考えながら、急いで着替える。マネージャーであるこの人は俺たちの着がえなど全く興味が無いらしいので、俺としても気楽にできる。……まあ、付き合ってからは「若の筋肉素敵っ、きゃああ、やっぱり今日は、若の攻めで書くっ」とかなんとか言われ続けているのだが。
すると、今まで机に突っ伏していた久木先輩が急に何かを思い立ったように立ち上がり、突然、頭を撫でられた。いや、それ以上に驚いたのは。
「な……なんで泣いてるんですか」
いつもは眼鏡をつけているが、泣いているからなのか今は外している分瞳が大きく見える。その大きな瞳から惜しげもなくぼろぼろと涙をこぼしながらも先輩は俺の頭を撫で続けている。なんなんだ。本当にこの人はどうしてしまったのだろう。正直、何も言えずに困りきっていると、がちゃりと。
「おう、日吉お疲れ……ってうおっ」
宍戸さんだ。それに俺より先に反応したのは……。
「し……ししどおおおおおっ」
「う、うおっ?」
久木先輩だった。制服姿の宍戸さんが入ってきた瞬間に、久木先輩が、瞳から涙をボロボロ零したまま、眉を吊り上げて、宍戸さんにおもいっきり……。殴りかかった。……え。一体何故そんなことになってるんだ。まさか、今まで泣いてたのは宍戸さんのせいなのか?? それよりまず久木先輩を止めたほうがいい。じゃないと、宍戸さんが危険だ。
「久木先輩っ!! 何してるんですかっ」
「止めないで若っ!! 若の無念は私が晴らすからっ」
「貴女が言っている意味がわかりません」
なんで俺の無念だ。大体、宍戸さんに無念を感じたことなどないし、久木先輩が泣きながら言う理由も全く分からない。とりあえず、久木先輩の体を宍戸さんから離すと、急に静かになった久木先輩は、ペタリとその場に座りこんだ。
これにはさすがの宍戸さんも驚いたようで、思いっきり殴られて赤くなった頬を押さえながら、眉をひそめて困っている。
「……なにが俺の無念なんですか??」
「……失恋」
「は??」
ま泣きだしそうな久木先輩を見ながら何やら少し嫌な予感がした。失恋って。
「確かに何も言わずに、諦める若も悪いわよ?? だけど、若の気持ちに気付かずに、あんな笑顔を見せるんだから宍戸のほうが百倍悪いわよっ!!」
「おっ、おい……なんの話しだよ」
「宍戸さん、気にしないほうがいいです」
やっぱりか。いや、この人のことだから嫌な予感はしていたのだが。
「お、俺がなんかしちまったなら悪かったな」
「そうよっ。しっ、宍戸のせいでっ……宍戸が鳳を選んだせいでっ……。若はっ、若はああっ」
「ちょっと待ってください」
また宍戸さんを殴りそうな勢いの久木先輩をなんとか止めて、静止させる。
「宍戸さん気にしないで練習に行ってください。俺はこの人をどうにかしてから行きますから」
「あ、ああ」
さすがに宍戸さんが着替える中で久木先輩を宥めるわけにもいかず、部室の中にある別の部屋に移る。この時ばかりは、部室が無駄に広くてよかったと思う。「今度はなんの小説ですか……」「みんなも『とりしし』派だもんっ!! 私は断固反対っ!! 若のほうが宍戸を想ってたのにどうしてよ宍戸っ!!!」「ああ、やっぱり」ほらみろ。俺は当たってた。
とりししってなんだ。なんかの暗号か。ああ、また余計な単語を覚えてしまった気がしてしまう。深いため息をつくと、やっとこさ落ち着いてきた久木先輩が、唇を尖らせた。
「私は、若に幸せになってほしいんだよ??」
「だからって宍戸さんを殴るなんて最低ですよ」
「う……暴力は悪かったなと思うけど……」
今度はやけに大人しくなったものだ。この人も大人しくしていれば、それなりにモテるだろうに。……まあ、大人しいこの人なんて気持ち悪くて困るが。まだ涙の残る瞳にタオルを押し付けると、なにやら今度はニヤニヤしだした。
「なんですか」
「若がちょっと優しい」
「……鼻水汚いから俺のタオルでは拭かないで下さいね」
照れ隠しで言った言葉さえ、久木先輩は気づいているようにまだニヤニヤしている。さっきまで泣いてたのに、本当に百面相な人だ。
「ねえ若」
「なんです」
「部活行こうか」
「貴女のせいで遅刻です」
ごめんね。一緒に怒られようね。と少し子供扱いしだした先輩に、何故だか反抗できず、そっぽを向いたままでラケットの準備をするために再びロッカールームに向かおうとした。その俺の背中に、小さな衝突。
「っ、な……なんです」
「若のために、若が幸せになる小説書くね」
「……結構です」
「相手は、宍戸で、甘甘のハッピーエンドにしてあげるね」
「お願いですから人を題材にしないで下さい」
「分かった。切甘にするね」
この人に日本語は通じない。だけど、まあいいか。今に始まったことでもないし。そう考えてしまう俺はまだまだこの人に甘いのかもしれない。
「若、今日も若しか見ないからね」
「マネージャー失格ですよ」
「だって若のためのマネージャーだもんっ」
眼鏡をかけていない分、あまりよく焦点の定まっていない目で俺を見つめてくる久木先輩の手を払いながら、俺は部室を後にする。どうか、頬が赤くなっているのがばれないように、早めにアップを始めなければ。
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