気分が悪い。
頭の中が何かを必至で思い出そうとしている。思い出す? 私は何か忘れているんだろうか。
分からないままで、気付けばそこは景吾が呼んでおいたらしい黒塗りの車の中で、景吾の吐息が真上から聞こえた時に初めて私は目を意識を取り戻したように瞬いた。
『……け、ご』
「……なんだ」
『なんで、怒ってるの?』
「……怒って……ねえ」
ぎち、と音がして、景吾が私の体を自分に引き寄せた。
景吾の視線はさっきからずっと窓の外を見ていて、その顔は何処と無く顔色が悪い。
一体どうしたのだろうか、と体を動かそうとしても景吾はそれを許してくれず、さらに腰を強く引かれた。
景吾のことが心配だ。
こんなに冷や汗をかいている景吾は久しく見ていなかったから。
だけど、頭の中に響く彼の声が離れない。
「玲華」
たしかに幸村君はそう呼んだ。
いや、別に下の名前で呼ばれたくない、ってことじゃない。
でもその声があまりにも懐かしく感じてしまったから、おかしく思っているのだろう。
だって。
『ねえ、景吾。……私、幸村君とは今日初めて会ったよね?』
「……ああ」
『月間プロテニスで立海の記事を見て覚えてただけだよね?』
「ああ」
『じゃあ、……な、なんで、さっきあんなに血相かえて……』
「っ少し黙ってろ!!」
『っ』
息を詰まらせた私の前で景吾はばつが悪そうに眉をひそめて「悪い」と言った。こんな景吾は久しぶりに見た。
そう……。
あの事件の話をしている時、景吾はいつもこんな顔になっていた。
だけど、最近はお互いにそのことには触れないようにしていたから。だから、こうやって、胸が痛くなる。
そのまま無言でついたのは景吾の家。門をくぐった瞬間に体が跳ねて、私は体を震わせた。やだ。……いやだ。
『や、だ……』
「おとなしくしとけ」
『やだっ、やめて景吾っ! 私、帰るっ、私の家に帰るっ! 私の家が一番おちつっ』
「お前の『誰もいねえ家』に今の玲華を帰せるわけがねんだろ!」
痛いくらいの叫び声が耳に伝わったのと、背中に痛みが走ったのはほぼ同時で、景吾の向こう側に車の天井が見えた。押し倒されたという事実が小さくうごめく。
私の両側に手をついたまま、鋭い瞳を向けてくる景吾の手はかすかに震えていて、「……頼む、傍にいさせやがれ」なんていう台詞が弱弱しく零れた。
そう、景吾の言うとおり。
あの事件をきっかけに私は一人であの家に暮らしている。
もう何年経ったのだろう。辛い時も苦しい時も私は一人であの家で眠った。それしかなかった。
人の気配のない家で独りでに孤独にうずもれて、闇に染まる瞬間なんてもう慣れっこだった。
だけど景吾は今でもそれをあまり賛成してくれていない。
俺と一緒に住め、と優しく甘いテノールで私を包み込んでくれる。
「頼む、玲華。……あの日からお前が俺に迷惑かけたくねえ、って思ってんのは理解してるつもりだ。だがっ……お前がこれ以上壊れたら、俺はどうすればいい」
『けい、ご』
「これ以上壊れて、傷付いて、お前が消えちまったら……」
『……ごめん、なさい』
私を押し倒したままの格好で景吾は私を優しく抱きしめた。
時折揺れる車の振動に体が二つ分揺れる。
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