「過去の君が帰ってきてほしい」
彼の優しいまなざし。胸を焦がすような空気感。
早苗が言っていることが正しいとすれば、私の中には彼との記憶がまだ残っているはず。だけど思い出せない限りは、私は幸村君が望んでいる私じゃない。
彼が言っていることは正しい。
愛されていたのは過去の私であって、今の私ではないのだから。
『そう、ですよね』
目を伏せたそこに映りこんだのは、緻密なデザインのそれ。
『そ、れは』
「そう、君のお母さんの形見。と君が言っている明和高校の会長の証」
『なんで、幸村君、が』
「君はあまりにこれにしばられているから」
彼の言うとおりだ。
これは私の母のものでなければ、私のものでもない。
そんなことわかっている。
「きみも、もう卒業だ。……だから、もう、なんの肩書もなくなる。君はただの櫻井玲華になるんだ」
そういうなり彼は、そのブローチを遠くへ放り投げた。あっけにとられる私の唇を簡単に奪い去った彼は、今までで見たことがないくらいにやさしい顔で、優しい声で。
「だけど、君は君なのだから。……俺は、変わらず君を愛していきたいと思う」
こんな答えじゃ、だめかな。
彼はそんなことを呟いた。どこからか舞ってきた風が私の頬を優しく撫でた時、どこかで誰かが私の名前を呼んだ日のことを思い出した。
ああ、そうだ。
彼はこういう人だった。
自分勝手で、気まぐれで、だけどそれは私にしか見せない素顔だってわかっていたから本当に愛おしくて。
この人が愛おしい。たまらなく愛おしい。その思いがあふれる。
距離をおくのは、拒否されるのが怖いから。だけどそれを恐れていたってなにも変わらないんだ。目の前で私の名前を呼んでくれる彼の気持ちがひしひしと伝わる。
ひどく喉が渇いている。次の音が出ない。まるで世界の音がなくなったんじゃないか、と大げさな誇張に自分でも笑いながら大きく、息を吐いて。
『もう一度、私を、愛してください』
振り絞った声に、彼は「よくできました」と穏やかに笑った。
そばにいることがとてつもなく息苦しくなることもあるだろう。自分自身の存在に恐怖することもあるだろう。
それでも私は、それでも人間だから。
人を愛することで、生きていきたい。
そうやって、日々傷つきながら、愛し愛されながら、生きていきたい。
ただ、それだけを願いながら、そっと目を閉じた。