雨に濡れたままの身体で帰宅した。
珍しく玄関までやってきた同居人は目をぱちくりとさせた後に、難しい顔をしてまた部屋の奥に引っ込んでしまった。
喧嘩をしたのは2日前の事だ。発端はほんの小さなことで、それからお互いに思っている子をと吐き出した結果、今はただの「同居人」と化している。
傘を持っていけばよかった。いつもだったら彼が教えてくれるのに、なんて思い出して少し泣きそうになった。謝ってしまえばこの冷戦も終わるだろうか。でも、だって、……だって。
浸水しきった靴を脱いで靴下も脱いでしまおうと玄関にしゃがみこんだ。その私の頭にふわりと甘い香り。
「れ、んじ」
「濡れ鼠だな」
かしかしと、男の人にしては優しい手つきで私の頭の水分を取るように彼の手が動く。タオルの香りは二人で一緒に選んだお気に入りの洗剤の匂いで、なんだかそれを久しぶりに嗅いだ気もして少し泣きそうにもなった。
「……ね、れんじ」
「なんだ」
ごめんね、と素直に言えなくなったのはいつからだっけ。
大きめのタオルに包み込まれたままの安心感にふと「好きだよ」が口から零れた。きっと彼はそんな私に呆れながらも、許してくれるんだと思う。だってタオル越しに触れた指先が、そっと私の身体に回り込んだのはそういうことだから。


今のままじゃいけないと分かっていても、私はその場から動けない。
友達以上恋人未満の関係だなんて、よくもまぁ都合の良い言葉を思いついたものだ。手を伸ばした其処に貴方はいるのに、手を伸ばしても貴方とは繋がることができないなんて。
「ぼーってしてんなよ、次の任務行くぞ」
「……わかってるよ、チュウヤ」
そっけなく返すと、彼は少し首を傾げた。
「具合でも、悪いのか?」
無理すんなよ、とぐしゃりと私の頭を撫でるその指が好き。
嗚呼好き、好き。泣きたいぐらいに好きだよ。
細い喉も、白い肌も、時折見せる優しい顔も、獲物を見つけた時のぎらついた瞳も、全部好きだよ。なのに私じゃダメなんだね。死線を何度も共に超えて、私に実ったのは「恋心」だったけど、貴方の中に実ったのはきっと「一緒にいて心地よい相手」なんていうぼんやりとしているものなんだろうな。其れを喜べばいいのに私ってば何時からこんなに欲しがりになったんだろう。
「ね、チュウヤ」
好きだよ、を吐き出したかった唇は「あの子とうまくいってる?」なんて聞きたくもない事を聞いてしまう。嗚呼バカだな。バカなんだよ。知ってるよそんなの。


後ろ指さされていたってそれでも最終的に勝利すればそれが正義になるんだから、本当にこの世界ってつくづく私に向いていないって思うんだ。
どんだけいい子にしていて、どんなに愛想よくしていたって、勉強ができていなければ通知簿には可愛らしい数字しか並ばないし、社会に出た後にもただのお飾りさんになってしまう。
「だから何かもうさ、疲れちゃった」
「おや、それは大変だ」
偶にすべてを投げ出してくなることがある。何者にもなれない私は、これから先一体どうなってしまうんだろうかなんて、見えもしない将来におびえて泣き出したくなることがある。
楽し気に目の前を歩く太宰は、一度だけ私の顔をみて、少しだけ笑った。
その胡散臭い顔が私は嫌いだ。だけど、こういう気分の時はこの男に会いたくなってしまうそんな私がもっと嫌い。
「ね、大宰、一緒にしん」
「今夜は星がよく見えるねぇ」
「……は?」
私の言葉を遮った後で、彼はまた胡散臭い顔で笑う。
「こんな夜には、美味しいお酒を飲みながら過ごすに限る。そうは思わないかい?」
彼の人差し指の中でくるりとまわったのは、私の家の鍵だ。いつの間に私のポケットからとったのだろう、とか、いやそもそも私の部屋に来るつもりなのだろうか、とか。そんな事を考えることさえめんどくさくて、だけどそれが少しばかり心地よいと思えるのだからきっと私はまだ大丈夫なんだと思う。


襟足のしっぽがぴょこり。銀色のしっぽは初めて会った時よりも少し伸びた気がする。触りたいなぁ。きっとふわふわしている、いうなれば小動物のような触り心地に違いない。そんなことを思っていると、そのしっぽの持ち主とふと目が合った。
「なん?」
「え、いや」
仁王が何かを口にしようとする前に、私のおしゃべりな口が動いた。
「いっ、つからボールペン、このボールペン、つかってたっけなぁって」
「は?」
「いやぁ、ボールペンって便利だなぁ。特にこれは本当に使いやすいし」
大学の講義中に突然そんなことを言い出した私を、仁王は不思議そうな顔をして見やった後で「お気に入りならよかったのぉ」なんてよくもわからない返答を私に届けた。そりゃそうだ。私が逆の立場でもなんて答えるか迷ってしまう。
単位を取得する為のこの90分の間に、仁王とはこうやってどうでもいい話を繰り広げる。この間は市民プールの好きな遊具について話したし、その前は確かカフェで必ず頼む飲み物の話をした気もする。
存外真面目な彼は時折教授の話に耳を傾け、手元のノートにさらさらと記載する。其れをぼんやり見ながら、ふとボールペンに目をやった。そういえばこのボールペンはいつ買ったんだったっけ。
「ちなみに、5か月前」
「……は?」
「じゃけ、そのボールペンをお前さんが使い始めたのは。5か月前」
なんでそんなことを覚えているんだ、と少しだけ警戒すれば、彼は目を細めて私のボールペンを手に取った。
「俺が使っとるの見て、お前さんが次の日買ってきたきのー」
おやおや、なんだか雲行きが。
「お揃いじゃもんな」
詰まるところ、私は彼が使っているボールペンを見て、何も考えず同じものを買って、これまた何も考えず今日まで使っていたということだったのだろうか。いやいやそんな事、……あり得る気がする。だって、私。
「のぉ、俺の事、そない好き?」
他の人には聞こえないような小さい声に、心臓がぎゅん、と痛くなる。嗚呼、そうなんだ、私この男の事好きだったんだ。多分5か月前から。嗚呼もうなんで今気づいちゃうかなぁ。あと40分も耐えられる気がしないのに・



オイリーな食事は彼にしんそこ似合わないな、なんて思ったけど笑えないし笑いたくもないし、なんかもうどうでもよくなってきた。口にしたハンバーガーはやけに味が濃ゆいし、付け合わせのポテトはしょっからい。せめてもの救いはドリンクを爽やかなジンジャーエールにしたことぐらいか。
「別れたいってことですか?」
表情を変えず彼はそう言った。
「うん」
「おや、それはどうして?」
頼んだハンバーガーに一口も口を付けず、柳生君は笑っている。不気味なぐらいにいつもと変わらない表情で笑っている。きっと彼にとっては私はその程度の人間だったんだろうな、なんて柄にもなく悲しくなって、泣きたくもなった。
「別れよ」
柳生君にハンバーガーは似合わない。
彼に似合うのはそうだな……例えばお洒落なフレンチレストランや小川のせせらぎが聞こえてくるような和食の料亭。
私は、私にとてもお似合いのハンバーガーをまたかぶりついた。いつまでたっても照り焼きチキンは上手く食べれなくて、きっと唇の端は汚れているのにそれをぬぐう気にもなれない。ねぇこんな私から解放してあげる。貴方は貴方の過ごしやすい居場所に帰りなよ。
「……釣り合わない、などといったバカなことを考えているのであれば、」
「あれば?」
「……殴ります」
「…………は?」
彼の口から出るにはあまりに似つかわしくない言葉に私がほうけている間に、がさがさと包み紙を雑多に開けた彼が、大きな口でハンバーガーにかぶりついた。
「や、……ぎゅ、君?」
「嘘です。殴りはしません。ただ、殴るのと同じ衝撃で抱きしめるのは許してもらおうかと」
「え、待って、意味が、」
分からない。あの柳生君ががぶりとハンバーガーにかぶりついて、あろうことかポテトを三本一気に口に運んだ。さながらそれは、おなかをすかせた肉食獣にも見えて、あまりの動揺に私はポテトをつかむ手が震えてしまった。
「それで、別れ話はまだ続けますか?」
「あ、あの、そのキャラは、」
「キャラ?ああ、いえ、貴方が紳士的な人が好きと聞いたのでいささかおとなしくしていたのですが、まさか振られるとは思わなかったので」
口元についたソースを親指でぬぐって、それを赤い舌がぺろりと舐めた。
「なのでもう、加減はしません」
嗚呼これが俗にいうギャップ萌えというのだろうか、なんて。いやいや何だかうまく丸め込まれた気もしないこともないけど、とにかく今の私は彼のその猛禽類みたいな瞳から逃れられないことを察したのだ。




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