『旅に出ようと思う』


突然の台詞に、瞬きが三つほど落ちた。手にしていた淡い桃色のマグカップが鈍い音を成して机の上に落ちるのと、人間の体温より低く下がったココアとがこぼれるのはほぼ同時だった。


『ちょっと、大丈夫?』


あいにく、すでに半分近く飲み干していたために、被害拡大は免れたものの、甘い液体のべとべととした感触に顔をしかめる。とりあえず、コタツ布団にココアの被害が回っていないことを確認しながらも、頭の中がついていかない。古びたビンテージものの時計が、小さく揺れた。


「あ? た、旅だ?」
『そう。旅』


あっけらかんと答えたまま俺の幼馴染の栞は、てきぱきと机上を台ふきで掃除し始める。真白だったはずのそれが、鈍い茶に染まるのを、映画のワンシーンのような気分で見つめていると、続くように声が響く。


『旅に出るわけ。これはもう決定事項』
「……どこへ?」
『うーん、……少なくとも、此処じゃない所』 


そんなことは聞いていない。相変わらず能天気な奴だとは思っていたが今日以上にそれを思ったことはない。こいつは、正真正銘の馬鹿だ。大体、行くところも正確に定まっていないような奴が旅だって? そんなのちゃんちゃらおかしくてへそで茶でも紅茶でもなんならココアでも沸かせそうな気分だ。
俺は、小さく息を一つこぼすと、拭かれたばかりの机に頬杖をついた。


「お前……本の読みすぎで頭までおかしくなったんじゃねえのか」


栞は、俺の贔屓目が無くともよく本を読んでいる方だ。そのジャンルというものは、俺が眺めるのも億劫になりそうなほどずらずらと文字が並んだものから、まるで幼稚園児に読み聞かせでもするのかというほどの絵本まで様々なのも確かな事だ。そう、確かに先日「タタの冒険」というような本を読んでいたことはまだ俺の記憶に新しい。しかし、だからと言って自分まで冒険に出ようと思っているのならば、それは無謀すぎる。いや、無謀というよりも馬鹿だ。小さい頃から妙に決断力は早い奴ではあったが、なにも旅に出るなどということではない。大方、三泊四日でもすると速攻帰ってくるに違いない。台所の方へ行き、ココアの染みた台ふきを水で流し軽く搾るというなんとも主婦的な行動をとった後、栞は再び俺の目の前に腰を下ろした。


『別に、とっさに思い立った事じゃないんだよ』
「じゃあ、なんでだよ」


軽く流すように欠伸まじりで問うと、栞はそんな俺を見つめきょとんと瞳を丸める。


『もしかして、本気にしていないわけ?』
「どうせ、実家に帰るとかそういうレベルだろ? 別に。気をつけていってこいよ」


ひらひらと手を振った。その手の先で、栞が呟いた。


『あーあ……残念だな』
「何が」


こたつ布団の中に両手を突っ込むと彼女は苦笑をこぼす。


『結構本気なんだよ』


眉を小さくひそめてみても無駄だ。何年お前と一緒にいると思ってるんだ。


「よく言うぜ。大体、旅っつったって、どこに行くかも決まってねえんだろ?理由言ってみろよ。旅に出ようと思ったりゆ」
『理由なんてないよ』


俺の台詞を裂いて栞は、今まで見た事が無いような柔らかな表情を浮かべる。俺の知らないような表情で。


『理由なんて、ないんだよ』


待て。
そう言うはずだった声が届かない。なんだ、妙に気持ちが急ぐ。心臓が今まで聴いたことのないほどにばくばくと鳴り響き、俺は頬杖したまま動けなくなってしまった。いつもあっけらかんと、そう、言うならば何を考えているのかわからないような表情で笑っているひなたが、こんな風に笑ったことなんて今まで一度も無かった。今まで一度も無かったんだ。喉の奥がひりりと痛い。心臓の音。ばくばくばくばく。鳴り止まない。


『じゃ、もう行くね』


栞が、こたつから出て、俺に何かを囁いて。頬になにか温かいものが触れて。それから……どうなったのか覚えていない。
ただ、今目の前にいるのは物言わなくなっちまった栞そのもので、彼女は俺に微笑む時と同じ顔をしていた。


「おい、……おい」


一体これはなんの冗談だ、とこぼした先で栞の母親が声をあげて泣き喚いていることしか理解できなかった。ただ、それだけのことだった。「この子ね、猫を追いかけて、道路に、出てね」その先は耳に届いていなかった。ふらふらとした思考回路の端で、彼女が笑う。「もう、大輝ってば、またそんな怒って。ほら、牛乳」そう言って、微笑んでいた。


「なんなんだよっ、なんだっていうんだよぉぉぉっ!」


嗚呼、セカイが笑ってら。
俺の惨めな姿を見て、笑ってら。


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