神様はいない。
隣の席の幸村が入院したと聞いたその時に、私はそれを確信した。
ただのクラスメイトの私にとって、幸村の病状とかそもそもなんで入院なんかしちゃったのかさえ知らない。知っているのは、君がいないテニスコートは、少しばかり広く見えるんだな、ってことぐらい。
「ゆ、きむら……」
だからこそ、彼がどれほどの思いでこの場所に立っているかなんて私には分からない。盛り上がる会場内。決勝戦。青い少年に立ち向かう黄色の背中。
テニスのルールは詳しくなんかない。それでも君をそこまで夢中にさせるんだからって、私は私なりに勉強して、必死に勉強して、……それでもやっぱりわからない。だって、幸村って強いんじゃないの?全国三連覇するんだって隣の隣のクラスの真田君だって言っていたよ。神の子って呼ばれてるんでしょ?君のファンの女の子が教えてくれたよ。すごく強いんだって。誰にも負けないんだって。バカな私にもわかるように教えてほしいけど、その数字は君が負けているってことなのかな。何それ、意味わからないよ。日差しは暑いし、喉は乾くし、眩しいし、そのくせ幸村は少し……楽しそうだ。
「っ、ゆきむらっ、頑張れ」
気づいたら喉の奥から出ていた台詞は、あまりにシンプルなものだった。
私の祈りは神様には届かないけれども、目の前で走る彼には届く。いや、届けばいいな。
「っゆきむらっ!頑張れっ!」
応援しかできない。祈ることしかできない。だけど君が踏みしめるその大地に、浴びる空気に、私も同じ場所にいるんだよって叫ぶことはできる。ただの観客Bの私の声なんて、君には届いていないかもしれない。自己満足だなんてわかっている。
それでも私にできることはこれだけだから。頑張れ、頑張れっ。
「がんばれっ、頑張れっ」
神様はいない。
間違った。神様はいないけれども、神の子はいる。
「がんばれっ!!」
そして笛の音が、鳴り響いた。



「気が滅入りそう」
「そうか」
「そうかって酷いんじゃない」
「そうか」
「……ああもういいです」
私達のする仕事なんて、いつもは猫を探したり、よくわからない物を運んだり、そんな「なんでも屋」みたいな仕事がしたくてマフィアに所属しているわけじゃないっていうのに。まぁ確かに私が幹部になれるかっていえばそれはあまりに恐れ多いわけであって、きっと私にはその「なんでも屋」ぐらいがお似合いなんだろうけど。
だからこそ、舞い込んできたこの任務は久々のごちそうだと乱舞したっていうのに、先ほどから硬直状態だ。いくら待ちに待った任務だと言っても、ここまで長期戦になると話は別だ。
砂を踏みしめる音にすら躊躇するほどの緊張感の中。相手の様子を見ようと体を動かした瞬間に隣の男に腕を引かれた。
「っちょ、」
その3秒後、先程まで私がいた場所に何かが投げ込まれた、と認識したすぐ後に何かが破裂した。彼に引っ張られるままに咄嗟に翻したからだに、小さな破片が当たった。
「っつ、」
「大丈夫か」
「へーき。ありがと、助かった。
まるで見透かしてたみたいね、と言えば彼はうんざりとした顔をして見せた。きっとこのやり取りが今日ですでに5回目だからだろう。
腕から小さく発する痛みにぞくぞくする。命と命のやり取り。硝煙の中に隠れている男どもがきっと私の命を狙っている。いつだってこの瞬間の高揚感に喉
の奥から叫びだしたいくらいに胸が震える。
「オダサク」
「……なんだ」
「ね、生きてるって感じだね」
無表情なその男は、少しだけ目を見開いて私の名前を呼んだ。



「車の運転が荒いって言ったら振られた」
私の相談に乗ってくれているその男は、私が振られた理由を聞いた途端に噴き出して笑いだした。それどころか、よほどツボに入ったのかお腹を押さえながら「勘弁して」なんて言い出す始末だ。いやいやいい加減にしてほしいのは私の方なんだけど。
確かに私の言い方も悪かったかもしれない。彼は仕事で疲れていたのかもしれないし、車の運転だって彼よりも荒い人なんて世の中にごまんといるのかもしれないし。
「だけど、こいつの運転無理だなーって思ったってことだろ?」
高尾は自分でそう言って、また込みあがってきたらしい笑いを必死にかみ殺している。
むかつくことに彼の言う通りで、この人の運転無理だな、って思って不意に口にした一言に彼が激怒し、あれよあれよという間に車から降ろされ、「ごめんね」の私の言葉にかぶせるように「お前みたいな女とは別れる」と言ってのけたのは事実なのだから仕方ない。氷がとけかけたアイスティーを一口。
「んで?相談って?」
「どうやったら許してもらえるのかな」
「……は?」
さっきまで笑っていた私の職場の同期は、その一言に首を傾げた。いや、そんなかわいい者じゃない。さっきまであんなに笑っていた男が急に真顔になって、「もう一回言って?」なんて口にした。
「だから、どうや」
「嗚呼いいや、やっぱ聞き間違いじゃなかったわ」
「ちょ、自分から聞いておいて何さ」
口が達者なこの男は時々何を考えているのか分からない顔をする。今がまさにそうだ。さっきまであんなに楽しそうに笑って私の相談に乗ってくれていたはずなのに、一体全体なんで怒っているのか分からない。
「いやいや、こっちの台詞だからな。何?まだ好きなわけ?」
「好き……というよりかは、あの人のがしてしまったら、その、婚期が……」
大きくため息をついた後でアイスコーヒーを一気飲みして、高尾は鞄をあさりだしたかと思えば免許証を机の上に置いた。
「見てみ?」
「……え、なに。うわ、写真結構盛れてるね。かっこいいじゃん」
「あざーすっ、じゃなくて!ここ、ゴールド免許」
彼が指差した其処に金色マーク。免許証よりも幾分と悪い顔をした目の前の彼が、私の名前を呼んだ。
「俺、運転には自信あるよ」
乗り換えいかがですか、なんて笑う同期に、心臓の奥が一気に苦しくなったのをどうやって言い訳すればいいのやら。




経験したことが無いような感触に、思わず唇をかみしめれば、それさえも許さないといった表情で彼の指先が私の唇を二回ノックした。
「っい、まよし」
「んー?」
「も、っ、いい」
「なんや、自分が言い出したことやろ?」
それを言われてしまえばもう何も言い返せない。唇をノックしていた指先がゆっくりと口の中に入り込んできて、私は反論する自由さえ奪われてしまう。口内をゆっくりと探るように動く二本の指。いつもよりも唾液が多く分泌されている気さえしてしまう。ぬるぬると舌をなぞったかと思えば、耳元で「そっちばっか気とられたらあかんって」なんて低い声音。彼の宣言の通り、彼の舌がまた耳朶をじっとりと往復した。
「っう、ぐ」
「な、どう?感想」
嗚呼私が本当にバカだった。備品を取りにきたバスケ部の部室に偶然あった、いわゆるピンク色のそういう本の中の女性が耳にキスされているそのページに、思わずくぎ付けになってしまったのが悪い。それでいてそれをこれまた偶然に部室にやってきた今吉に見られてしまったのはもっと悪い。ああでもそこで「こんなの気持ちよくないに決まってるのにね」なんて恥ずかしさのあまりに口にした私がやっぱり一番悪い気がしてきた。
尖らせた舌が生々しい水音を私の耳に届けて、思わず体がはねる。
口の中に入れられた二本の角ばった指も、後ろから抱きしめられている今のこの姿勢も、耳朶を時折かすめる歯の痛みも、認めたくはないけれども、これはもはや快感でしかない。
「もっ、やめ」
「んー、『こんなの気持ちよくないに決まってる』んやろ?」
ならまだええやん、なんてそんなことを口にした今吉と目が合った。其れだけで一気に脳内までぐずぐずに溶けていきそうな自分に、泣きたくて、それでいてあの本の中の女性が浮かべていた表情に、納得がいったような気さえした。


これっぽっちも好きなタイプじゃなかったはずなのに、どうしてか私は気が付けば彼の事を考えている気がする。俗にいうこれが恋なのかもしれないけど、いかんせんそれを認めたくなくて、とりあえず隣にいるその男の手の甲を小さくつねってみた。
「あいたたた、なになに、突然の反抗期?!」
「ささらー、あんた彼女いたことある?」
「これまた突然やね」
何を考えているのかよくわからないような顔して、簓は私の目を見ながら「何人ぐらいでしょーか?」なんて一言。ほらそういうとこ。私こういう対応本当に嫌い。聞かれたことに質問で返すなんて愚の骨頂。だというのに、なんでだか私の指先に絡んでくる彼の指先をはねのけることができない。こんなところファンの子に見られたら大変だろうなぁ、とか、いやいやそもそも今まで彼女がいようといまいと私に関係ないな、とか。
「……やだ、な、元カノ」
全く別の事を考えていたはずなのに、頭と反対の言葉が口から漏れ出した。咄嗟に口を零れた台詞を止めることができず、誤魔化すように目の前のグラスに手を伸ばすもののその手をからめとられた。誰に、勿論彼に。
「なんでやなん?なぁ、教えてや」
細められた瞳の奥がぎらぎらり。ああもうそういうとこ本当に嫌なのに。
「ここではやだ」
「ん、りょーかい」
ほないこか、と腰を抱かれて、それだけで少しばかり期待してしまう私も私かもしれないし、そうやってすぐに答えをくれないアンタはもっと、……ばぁか。


さよなら、ってすぐに言えればよかったのに、うまく言葉が出てこなくて気が付けばもうその時間が来てしまった。大きな荷物を持った彼はいつもに増して少しだけかっこよくて、なんだか狡いな、なんてバカみたいな事を考えた。
「……じゃ、そろそろ時間じゃけ」
行かないで、とか、連絡するね、とか。そんな可愛いことは言えないし、かといって別れを告げることもできなくて、何かのアクションを起こすほどの勇気もない。仁王は私の友達ではあるけど恋人ではないのだから。
「……ん、あっちでも頑張ってね」
このまま曖昧な関係を続けていけるほど私達が大人でも無い事をきっとお互いに分かっている。だからこれは最後の言葉。嗚呼、あっけないな、と視線をずらせばちょうどホームに新幹線がやってきて、いよいよその時が来た。きっと私達の想いのベクトルは同じ方向を向いているんだと思う。確証が無いままで今日を迎えたから、それが私達の選んだ答えだ。こちらを振り向きもせずに乗り込んだ彼の背中は、なぜだかすこし大きく見えた。
「……仁王、」
行かないで、振り返って、抱きしめて。
そんな事言えないよ。言いたかったな。言えなかったな。
「ばいばい、にお、……まさはる」
それはあまりに穏やかで、あっけなくて、吸い込んだ空気は少しだけ苦かった。



「し、……しりとりでもしよっか」
咄嗟に口にすれば、目の前で彼は少しだけむっとした。そりゃそうか。私が逆の立場だったとしてもそんな顔をするに違いない。押し付けられたロッカーの鉄っぽい匂いも、目の前の彼からのびている手が私を閉じ込めていることも、不機嫌そうな顔をした後で私の名前を呼んだ笠松の目がぎらぎらとしていることも、全部現実で全部リアルだ。
「嫌か?」
何が、と聞かなくてもわかっている。付き合って2週間。手を繋いだ私達が次に何をするのかということだ。分かってはいるものの、こちらにも心の準備というものがある。自慢するほどの事ではないけど、これでも2年間も笠松に片思いをしてきたのだ。その彼と付き合えただけで心臓が張り裂けるんじゃないかってぐらいの想いだというのに、その先に進むなんてあまりにも臓器に負荷がかかり過ぎる。
黙り込む私に焦れたように、彼が片方の手を下ろした。かと思えば、その手が私の指をつかんだ。
「ひぇ」
「……はは、っ、なんだそりゃ」
「わ、笑わなくても」
「……悪い」
言葉では謝るくせに、彼はすこぶる楽しそうだ。知らなかった。堅物で女子が苦手でバスケ一筋な彼が、こんな優しい顔をするなんて知らなかった。知れて嬉しい気持ちの反面、これ以上好きになってしまっては、いっそのこと吐いちゃうかもしれない、なんてまた臓器の心配をしてしまう。
「嫌ならしねぇけど。嫌じゃねぇならする」
「っ、そ、そういうことでは」
「どっちだよ」
指先が少しだけしっとりとしてきたのは、きっと私の脳内がキャパオーバーしているせいで恥ずかしくてたまらなくて思わず目を瞑れば、小さなため息が聞こえた。まずい。怒らせてしまった、と顔を上げる前に一瞬だけ唇に何かが振れた。あまりに一瞬のそれは少しだけかさついていて、喉の奥が一気に苦しくなった。
そして次のタイミングでは私の身体が少し前のめりになり、気が付けばそこは彼の腕の中だった。
「う、わ、わ、かさ、まつ」
「……あー、なんだ、その、な。……悪い、可愛いって思っちまって」
熱い。熱すぎる。唇が、いや体が、いや全部が。
「嫌だったか?」
私の顔を覗き込むように問われるものだから、とっくに爆発してしまった脳内はうまく機能せず、空気を求める金魚のように口をパクパク。
「っ、ず、ずるい、ずるい、っ笠松、ずるい」
「んだよそれ」
「もうやだ、き、きす、だめ」
「はぁ?!っお前なぁ、」
「だっ、て、これ以上っ」
好きになったら溶けちゃう、と消えいるような声で零せば、今度は目の前の彼が金魚になる番だった。




鋭い音がした。その後すぐにヒステリックな叫びが聞こえた。
目の前で起こったその出来事に驚いて、一瞬だけ思考能力が低下してしまった。
あれ、なんでこうなったんだっけ。確か、ほんの少しまえまでは、目の前の彼女たちはこんなことを話していた。
「黄瀬君バスケしてんだよねー?」
「うわぁ、イケメン」
「でもバスケ危ないじゃん? 黄瀬君はモデルなんだから怪我したら大変だから、あんなのやめればいいのに。合ってないよぉ」
私の一つしたの学年の女の子、つまり黄瀬にとっては一つ上の先輩である彼女達のその会話が聞こえてきた。
黄瀬はその台詞に曖昧に笑っていて、なんだかそれも無性に癪に障った。
「……あんなの、は言い過ぎじゃないですかね」
思わず声に出してしまった後で、彼女達から向けられたどぎつい視線に少しばかり後悔した。
「え、誰」
「あれじゃん?バスケ部の」
「今うちらが喋ってるんだけどー、先輩」
「それなー。てか、黄瀬君ー。あんなのやめて、うちらと遊ぼうよ」
あんなの、あんなの。
黄瀬が何かを言う前に、私の口が開いた。
「……黄瀬の好きなものを、否定しないで」
嗚呼、いつか笠松に怒られたっけな。そんなにすぐにカッとするなって。
「黄瀬の表面しか見れないあんたたちに、黄瀬をっ、……黄瀬のバスケを否定する資格なんてない」
女がヒステリックな顔をしながら手を振りかざして、気づけば頬をひっぱたかれていた。
痛い、という感情が浮かぶ前に聞こえたのはヒステリックな声だったわけだ。
「……へ?」
「ちょ、黄瀬っ、あんた」
黄瀬が一人の女子を壁ドンしている。
確かにその光景だけで言えば、悲鳴物だろうけど。だけど違う。
「……二度と俺と先輩に近づくなよ、クソが」
思わず私でさえ背筋がぞくりとするぐらいの声で、感情のこもってないような目で彼は吐き捨てた。いつの間にか血相を変えて走っていったあの子たちが少しかわいそうだ。


「先輩っ、ほっぺ、っ、大丈夫?痛いよね」
「……あーあ」
「え、なに?どうしたんすか」
「……ふふ、莫迦だなぁ黄瀬は。黙って静かにしとけばファン減らなかったのに」
先輩は優しく笑って、俺の名前を呼んだ。
もう幸せすぎてどうしようかってくらい、の感情がとめどなく溢れてきて笑いそうになる。そのまま、優しく彼女を抱きしめると、不意に彼女は呆れたように笑う。
「ねぇ、好きっす」
「きっと一過性のものだよ。血迷うことなかれ少年」
「好き」
「……あのさ、黄瀬」
「だから、」
これからは、俺に守らせて。
なにから守るのかなんて言えないけど、


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