歌姫に作用する能力を考えた最初の人物なるものがいるというなら、私は間違いなくその人物に悪態をついてやるに違いない。そんなバカげたことを思いながら、その場でうずくまった。微かな物音が、全て自分への悪意に聞こえる。吐き気をもよおしているのに胃の奥から何も生みだしてくれない。
秀徳のかわいい歌姫もきっと今頃は悪夢で苦しんでいる。それを沈痛な面持ちで見つめることしかできない彼らの事を思うと少しばかり胸が痛んだ。
「……ああ、でも、まぁ、きっと大丈夫か」
彼らならきっとあの悪夢から彼女を救うことができる。よくも知らない癖に私はそれを確信していた。人気のない路地裏の土の匂いが濃くなる。顔を上げるまでもなく、雨が降ってきたことが分かった。寒い。冷たい。だけど今は誰の声も聴きたくない。きっとこの能力もあと数時間で消える。きっと。だからこのまま雨の音を聞いていればきっと大丈夫。二度目の吐き気に思わず近くの壁にもたれかかろうとしたところで、雨をはじく音がした。
顔を上げた其処に、彼がいた。
「なんや、ワシで悪かったなぁ」
「っ、なんで、ここに」
「海常の奴らが血眼になって探しよったで。まぁ、ワシにはお嬢さんの居場所はお見通しやねんけど」
そういいながら彼は私の首元のチョーカーを人差し指で引っ張った。
「……GPSとか、最低」
「最低やろ?ちなみに背中のほくろの数まで知っとるで」
それは初耳だ。思わずそのキツネ顔を睨み付けてやる者の、彼はどこ知らぬ顔で笑っている。おさまった吐き気に呼応するように雨は強くなり、頭の中では嫌な言葉が響く。いい加減にしてほしい。
「幻聴でワシなんて言うとるん?」
「……さっさとくたばれ、って」
「なんやそれ、おもろない〜。ワシやったらもっとおもろいこと言える思うんやけどなぁ」
ケタケタと笑いながら片手に持っていた傘を放り投げた今吉は、私の首の後ろに右手を回すとそのまま右の耳朶に歯をたてた。容赦ない痛みに思わず声を上げるのを聞いた彼が、耳元で楽しそうに笑う。
雨でぬれた服は気持ち悪いし、耳元でささやく彼の声は幻聴なのか本物なのかもわからなくなってきた。
「最悪、な気分」
「それはええなぁ」
一緒に最悪になろーや、と彼は笑う。土に汚れた両手で彼の肩を押し返すと、どこか懐かしい香りがした。服の裾から入り込んできた指先が肌に触れる。結局、私は。



「あいちゃん」
和君の声が聞こえた。ああ、もしかしてまだ夢の中にいるのかもしれない。ふわふわと揺れる脳内と、目の端から零れる水滴は止めようがない。眠い、だけど眠りたくない。誰も失いたくないと叫び散らかしたい、だけど声が出ない。振り絞るような声で彼の名前を呼べば、返事が聞こえた。
「どうしたの、あいちゃん、起きた?」
「……怖い夢、見た」
「うん」
「……和君も、……キヨ兄も、みんな、いなくなって」
「うん、そっか。大丈夫、それは夢だよ」
俺は此処にいるよ、と彼の指先が私の頬に触れる。ごつごつとしていて、優しくて、筋張っていて、それでいて暖かい。
「……和、君、眠りたくない。眠たいけど、眠りたくないの」
助けて、と子供のように泣く私に彼の唇が振ってきた。
「大丈夫。一緒にいよ」
俺でいっぱいにしてあげるから、とそんな甘美な響き。



「愛してんで」
背中に零された台詞に後ろを振り返ろうとしたものの、背中側から其れを制される。
「こっち、今見んで」
震えている声は本当に彼のものなのだろうか。そのまま振り返ることも、進むこともできずに立ち止まる私の背中に彼の優しい声が聞こえた。
「……ほんと、莫迦やなぁ」
それは私に対してなのだろうか、自分自身に対してなのだろうか。先ほどまで首元にあったチョーカーが、まだ残っているように喉が苦しくなった。きっとその言葉もまたいつもの彼のどうでもいい冗談で、後ろを振り返っても「なんや、だまされたな」なんて彼は笑っている。そうに違いない。そうに、違いない。遠くから私を呼ぶ声がした。行かなくちゃいけないのにどうして私はここで立ち止まっているんだろう。
振り返ることも進むこともできないまま立ち尽くす私の指に、大きな手がかぶさった。
「ありがとな。それで十分や」
それが最後の言葉だった。
愛してるも、ありがとうも、初めて言われた。初めての言葉だった。
だからこそ遠ざかる足音に私は振り返らなかった。振り返ることが出来なかった。今振り返ってしまったら、この顔を見られてしまったら、きっと私は二度と。


「ばぁか、先に仕掛けてきたのはそっちだろ」
反吐が出る。反吐が出る。嗚呼、本当に。
下でうずくまるよくわからない男を見下ろしたって、あいつの隣に入る男どもが消えるわけでは無い。ただ、あいつが泣く要因が一つ、たった一つ消えただけだ。
「っ、なんで、花、みや、が」
「なんで?お前に教える義理はねぇよ」
なんでだなんて俺自身が聞きたい。あいつは俺にとってなんだっていうんだ。
小さいころに生き別れたただの妹。そんだけ。
だというのに、俺はその小さく細く今にも切れそうな蜘蛛の糸に縋りついているだけだ。その糸の先にあいつがいるとは限らない。だからといって、その糸を自分から切ったところであいつはまた性懲りもなくその糸を丁寧に蝶々結びしてくるのだから仕方がない。
靴についた土埃を払い、一つ息を吐いた。ここまでやればもう手出しするどころか、普通の生活を送るのさえ億劫になることだろう。すでに輪郭さえぼやけているその男から目を逸らし、証拠写真でも抑えておこうかと目線を他所にやる。
「……花宮はほんまにあの子が大好きやんなあ」
「げ、……いつからいたんだよあんた」
顔を上げたそこで笑う先輩の手の中にスマートホン。
「この男のやで?ほしいやろ」
なんてったって、お前のかわいい妹の隠し撮りパラダイスやもんなぁ、なんて続ける先輩に心底面倒くさくなりつつもそのスマートホンを受け取った。
「後から来たくせに、そうやっていいとこどりできる性格本当に尊敬しますよ」
「なんや、照れるなぁ」
「……では、俺はこれで」
背中側から聞こえてきた「大変やんな、おにいちゃん」なんて気色悪い発言に耳をふさぎたくなる気持ちと同時に、あいつへの感情にまた蓋をした。やってらんねぇマジで。だけどこれであいつがまた少しでも笑えるならそれでいいだとか思ってる自分が一番気色悪い。



「なんや笠松君、突然殴ろうとするなんてひどいやんか」
胡散臭い顔でにっこりと笑うその男は傷一つない顔で俺の名前を呼んだ。
「理由なら分かってんだろうが」
「なんやろか」
「っおま、え」
敵が撤退する姿がテレビに映し出され、戦闘を終えたそのチームが英雄をたたえるかのようにテレビキャスターにほめたたえられる。その画面の奥に一瞬だけ映ったのは、戦場であったその場所に立ち尽くす姿。
噂には聞いていた。桐皇のやり方は自身も知ってはいた。勝てば官軍負ければ賊軍。その一言で成り立っているようなチームだ。俺自身にそれをとやかく言う資格なんざないこともわかっていた。
分かってはいても、その姿を見て何も言わずに黙ってはいられなかった。
「そないあの子が大事なら、ずっと自分のチームにおいとけば良かったんに」
俺の心を見透かすように彼は笑う。
これ以上病室の前で事を荒げるわけにもいかず、きつくこぶしを握り締める。
「傷つけたくないーってのはエゴやで。歌姫である以上どっちにしろ傷つくにきまっとる。まぁそっちのチームみたいに歌姫の力をセーブしながら戦うような優しいチームに巡り合えたらよかったんやけどなぁ」
「お前、いい加減にしろよ」
「あれ、図星やった?」
今吉が挑発的にものを言っているのは分かってはいるものの、うっかりとその挑発に乗ってしまいそうになる。その反面自分がここまで理性が保てない人間だったのかと、どこか冷静な自分もいた。
こいつの言う通りだ。手を離したのも、突き放したのも俺だ。
あいつがどのチームでどんな扱いを受けようとも俺には関係がない。
だとしても、「関係がない」で片づけられるような感情でとどめられていたら苦労はしない。
「ウチの歌姫ちゃんにご執心やんな」
「お前の『チーム』の歌姫ではあるかもしんねぇが、『お前の』ではねぇ」
「あー、まぁまだせやな」
一本取られたなぁ、と笑いながら彼はおもむろに病室の扉を開けた。そこに思い浮かべた人物が立っていて、思わず喉の奥が詰まる。しかし驚いたのは彼女も同じようで苦虫をみ潰したような顔で今吉を見ている。
「あれ、もう歩けるんか?」
「別に今回は大したことなかったから、っちょ、……何」
今吉はそのまま彼女の耳元で何かを囁くようにした後で、胡散臭い顔をした。
「……んー、右耳はまだ聞こえてないって感じやんなぁ」
「だからってわざわざ耳舐める必要がっ、……ぁ、いや、その」
俺と目を合わせるなり、語尾を小さくする彼女に苛立ちが募る。俺の知っているはずのその体が、その視線が、その表情が、少しずつ俺の知らないものになっていく。其れをわざとらしく見せつけられているのだと気づいて、自分の中に微かな殺意さえわき始めていることに気づいた。そしてその俺の感情に気づいた彼は、わざとらしく彼女の腰に手を回して今度は彼女の左耳で何かを囁いた。その体が小さく跳ねたのが見えた。
「んで、笠松君、何の用事やったっけ」
帰れ、と言わんばかりの瞳にそのまま踵を返した。
苛立ちで何も考えられない。呼吸さえ熱く感じる。脳内が沸騰しているようだ、こぶしも熱くてたまらない。ふとみやった手のひらに、爪の跡がくっきりと残っていた。
「……んだよ、まじで」
苛立ちが募る感情を飲み込んだとして、彼奴が帰ってくるわけでは無い、だとしたら方法なんざ一つしかねぇ。


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